人吉鍛冶屋町の「みそ・しょうゆ蔵」蔵めぐり(釜田醸造所)

 

昭和6年に『さがらみそ・マルカマ醤油蔵』として創業した釜田醸造所

 

人吉市鍛冶屋町にあるこちらの醸造所では、味噌・醤油の製造工程を見学することができるほか、佃煮や味噌漬けなどの試食もできる人気スポットです。

 

 

 

大正末期に建築された接客用として建てられた建物を、平成元年にみそ・しょうゆ蔵として改装しているものです。工場見学のみならず、大正浪漫ただよう建築様式もあわせて楽しむことができます。

 

訪問時はひなまつりの時期でしたので、入口付近にはミニひな壇がたくさん飾ってありました。

 

 

城下町特有の奥行きのある、いわゆる「うなぎの寝床」と言われるような細長い工場となっておりますので、そのため各工程を間近で観察することができます。稼働中の工場ですので、くれぐれも従業員さんの邪魔にならないように気をつけなくてはいけません。

 

諸味室

 

醤油の原点である「天然もろみ」。麹菌や酵母がうまみや香りを造るといいます。およそ1年をかけて熟成します。

 

蒸した大豆と炒った小麦を混合し、種麹を加えて「しょうゆ麹」を造ります。これを食塩水と一緒に仕込んだのが諸味(もろみ)です。

 

ひとつのタンクに5,400リットル仕込むことができます。当社の諸味は自然の環境で攪拌を重ね1年間ねかせます。麹菌や酵母、乳酸菌が働いて分解・発酵が進み、さらに熟成されて醤油独特の色・味・香りが生まれます。

 

この諸味を絞ったのが「生しょうゆ」です。

(工場内説明文より)

 

 

蒸煮缶

 

蒸煮缶(じょうしゃかん)を洗浄する従業員さん。蒸煮缶は、醸造用原料を加圧蒸煮する回転式の圧力鍋で、大豆なら500kgを一度に煮ることができます。
この中で原料を洗って蒸して冷やす作業ができます。

 

地元の小中学生の定番の社会科見学コースになっているようで、説明文があちこちに貼ってあります。

 

みそ袋詰室

 

味噌充填機を使ってのみそ袋詰めをする場所のようです。忙しく作業をされていました。

 

 

展示販売コーナーでは、釜田醸造所さんで造られている佃煮や味噌漬けなどを、日本茶をいただきながら食べくらべすることができます。どれもおいしい!

 

 

室内にはずらっと釜田醸造所さんの商品が並んでいます。ギフト用のセットなんかもあるんですね。

 

 

建物の雰囲気なども含めて、あじわい深い体験型施設です。

 

 

2~3月のひなまつりの季節のみ展示される、釜田家に伝わるひな人形。じつに立派ですね!

 

人吉酒蔵巡りのさいには、こちらの味噌蔵巡りもルートに加えてはいかがでしょうか。

 

繊月酒造 焼酎蔵

 

人吉酒蔵巡り第二弾は、繊月酒造です!!明治36年から球磨焼酎造りを行ってきた老舗の酒造メーカーで、「繊月」「たる繊月」「川辺」といった主力商品は、テレビCMでもよく見かけます。

 

今回は、この繊月酒造の工場見学に訪れました。この工場には、年間6万人もの観光客が訪れるとのことです。

 

 

実は繊月酒造の名は16年ほど前に改称されたものでして、峰の露酒造が平成15年に創業100周年を機に、繊月酒造と名を改めました。

 

 

工場入口にある、無料で利用できる足湯です。1921年開業の堤温泉から源泉(炭酸水素ナトリウム泉)を引いており、源泉掛け流しとなっています。神経痛や筋肉痛、疲労回復の効能が期待できるとか。

 

堤温泉は繊月酒造に隣接しており、無人で200円で利用できますので、いっしょに予定に組み込むといいかもですね!ただしタオル、石けん、シャンプーは持参しないといけないのでご注意を。

 

 

受付を済ませて工場内へ・・・。例のごとく、工場内撮影禁止でしたので写真はありません。球磨川の清らかな伏流水と、厳選された米を用いて、およそ1ヶ月をかけて繊月焼酎が造られているそうです。

 

製造工程は2つに分かれます。麹米を用いて麹育成を行い、一次もろみを造る製麹工程と、主原料米を作る主原料処理工程です。製麹工程で造られた一次もろみと、主原料処理工程で造られた蒸米とをあわせたものを、二次もろみと呼び、これを15日かけて熟成し、蒸留過程を経て、貯蔵されます。

 

 

 

繊月酒造の約30種類のお酒を無料試飲できる、繊月城見蔵。酒飲みにはたまらない空間だと思います!各テーブルに置かれている定番商品のみならず、壁にずらっと並べられたものにも「試飲用」のラベルが貼ってあります。これは飲まずにはいられません。

 

 

「試飲用」ラベルが貼ってあるものは、好きに注いで味見することができました。

 

 

工場限定販売のものも多くありますので、お土産品コーナーでそういった限定品を買っていくのも楽しみのひとつ。

 

酒飲み友達でグループで見学するときに、ハンドルキーパー役の人を造らなければいけないのも酷だということでしたら、ぜひ加来タクシーをご用命ください。タクシーは高いイメージがあると思いますが、1台あたりでの料金制ですので人数割りですとお安くあがりますよ!詳しくはお電話くださいね。

 

球磨焼酎ミュージアム 白岳伝承蔵

 

今回は酒蔵巡りをしようと人吉にやってきましたよ!まずはトップバッターとして、白岳伝承蔵をご紹介いたします。

 

こちらを運営されている高橋酒造さんの球磨焼酎「白岳」といえば、熊本のトップブランド。よくテレビCMもばんばん流れている知名度抜群の焼酎です。

 

 

「球磨焼酎」ブランドは、1995年に国税庁により「酒類の地理的表示の産地指定」を受け、国際的ブランドとして保護されています。他に日本で産地指定を受けているものとしては、「壱岐」「琉球」「薩摩」「白山」などがあります。この指定を受けているということは、球磨焼酎とは国際的にブランドを保護すべきという価値が認められている焼酎である、ということなのです。

 

酒類の地理的表示の産地指定とは?

WTOが1994年に作成したTRIPS協定(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)により産地名を勝手に商品に使ったりできないようになったんですね。例えばボルドーワインとかもそうですが、TRIPS協定で保護されているブランドですので、「熊本県産ボルドーワイン」とか、「ボルドー風ワイン」なんて表記しても協定違反ということになります。これを受けて、日本でも酒類の地理的表示の産地指定を行い、産地名ブランドの国際的な保護を行っています。

 

 

訪問時はひな祭りの時期で、人吉球磨地方一帯でのお祭りである「人吉球磨は、ひなまつり2019」の開催期間中でした。

 

白岳伝承蔵の入口すぐのところにも、見事なひな壇が飾ってありました。人吉は毎年1ヶ月以上に渡って、ひな祭りのイベントがあっているんですよね。観光施設や商店街など約100カ所にひな人形が飾られるほか、開催期間中は、人吉球磨の温泉協賛施設にて、球磨川温泉郷めぐりスタンプラリーも開催されています。

 

 

白岳ギャラリーでは、過去の白岳のCMや広告ポスターが展示されていました。

 

なぜ、こんな中途半端な写真なのかというと、試飲コーナー以外は撮影禁止だったからです。なので、試飲コーナーから入口だけ撮影・・・。醸造工程などを解説したパネル展示や、白岳の歴史を紹介したビデオ上映などもあるのですが、残念ながらそれらは写真でご紹介することができません!ぜひ実際に足を運んでみてご覧になってくださいね。

 

 

さて、お楽しみの試飲コーナー!!!球磨焼酎400年の歴史の勉強も、それはそれでとても興味深いのですが、実際のところのみなさんのお楽しみはこちらではないでしょうか!8種類の瓶から、お好きなものを直接注いで飲める趣向になっています。いろいろ味見させていただきましたよ。

 

なかにはここでしか買えないブランドもあり、たとえば一番手前の「KOMORIUTA(子守歌)30度」もその1つ。長期甕貯蔵熟成酒(古酒)で貴重なものらしく、市販されてないのだそう。

 

 

白岳を使用したリキュール類。ゆずもんも白岳伝承蔵限定だったと思いますが、試飲してみましたが、これがたいへんおいしい!さわやかな飲み口で、たいへん気に入りました。試飲するといろいろ買いたくなりますね!限定商品を買って、友人知人へのお土産にするのもいいですね。

 

 

地元特産の食品、酒、くまモングッズなども販売されています。きちんと堪能するならば、上映~パネル展示観覧~試飲~お買い物で、所要時間1時間くらいは最低見ておかないといけないと思いますよ。

 

老神神社

 

老神神社は、鹿児島の霧島神社を勧請したと伝えられていまして、社殿は人吉藩主であった相良氏により造営されました。創立年代は不明ですが、相良一族が古くから産宮と信仰してきた神社であり、もともとは山深い所に小さな祠があるだけだったそうです。

 

拝殿の右側に繋がっている建物が神供所で、これがあるのが球磨・人吉地方の神社に見られる特徴となります。

 

神供所を備える人吉球磨地方で見られる神社形式

 

図示するとこんな感じです。老神神社の現在の姿は、もともと鍵状の建築物だったものを、近年切り離したものです。現在は桟瓦葺になっていますが、かっては一連の茅葺屋根となっていました。

 

なお、神供所とは、神様へのお供え物を整えるための場所といわれています。

 

茅葺きの覆屋と、その中に護られている入母屋造りの本殿

 

茅葺きの覆屋と、その中に護られている入母屋造りの本殿。建築は江戸中期の1625年頃といわれています。鉄柱で保護されているのは、文化財保護の観点からは仕方がないことですね。

 

本殿は内外ともに漆で塗られており、彫刻に彩色を施されています。江戸時代前期の神社本殿を代表する建築物として、平成2年9月11日に国の重要文化財に指定されています。

 

 

通常は参道をはさんで一対で建てられる石灯籠ですが、こちらは人吉球磨地方では見られない珍しい建て方で、参道の真ん中に建てられています。

 

灯籠は四角、六角、円形が多いのですが、こちらは基礎から笠まですべて八角形になっています。このような八角形の石灯籠は青井阿蘇神社でも見られます。

 

 

この老神神社は西南戦争のときの弾痕が残る神社としても知られていますが、例によりまして弾痕が発見できず・・・。

 

移築したさいに板壁の下半分を取り替えているため、現在では上部に12カ所の弾痕が見られるということです。

 

 

御祭神:瓊々杵命、木花咲耶姫命、彦火々出見命、火照命、火須勢理命、豊玉姫命
例祭日:11月26日
境内社:菅原神社、弁財天社、稲荷神社、淡島神社

 

人吉球磨地方を代表する、江戸時代の貴重な神社建築となります。繊月酒造のすぐ近くですので、酒蔵巡りのときについでにまわれますよ!

 

永国寺(幽霊の掛け軸で有名なお寺)

 

創建1408年と、600年の歴史を誇る永国寺。開山の実底超真和尚が描いたと伝わる幽霊の掛け軸が有名なお寺です。肥後三十三観音の第9番札所でもあります。

 

西南戦争では一時、薩軍が本陣を置いていました。

 

 

ご本尊は釈迦如来です。明治10年の西南戦争時における人吉市街戦で寺は焼失し、明治24年に再建されました。

 

その後、平成28年に改築されましたので、真新しく、幽霊寺のイメージで訪問すると戸惑いますね。

 

 

 

幽霊の掛け軸(レプリカ)。この幽霊伝説のことをビデオで見ることができます(約10分)。

 

幽霊の由来

慶永十五年(約五百六十年前)相良九代前續公の時代、永国寺開山実底超真和尚の筆といわれている。

 

当時、球磨郡木上郷に知名の士ありて、妾さんという女性あり、不慮の死により成仏出来ず、中有の世に迷い、和尚の法力を頼って、数夜にわたって出現せしを和尚ねんごろに因果の道理を説きつつその姿を描いたと伝えられている。

永国寺住職 記之

 

ある地元の名士に本妻とは別に妾がいて、本妻がその若い妾に嫉妬して長年嫌がらせをしていたので、それに耐えかねて妾が球磨川に入水自殺したところ、成仏できずに幽霊として出没するようになってしまった。それを和尚が幽霊を絵に描き、いかに醜い姿で現世にとどまっているのかを知らしめたそうです。存命中は美しい女性だったので、現世に醜い姿をさらすのが耐えきれないので、どうか成仏させてくださいと和尚に乞うたのだとか。そうして和尚が引導を渡し、無事成仏できたのだそう。

 

 

西南戦争時、田原坂で敗退した西郷隆盛が33日間この寺に本営を置いたのですが、そのときに西郷隆盛が悔しさをしたためた書がこちらだということです。幽霊のビデオでは、こちらの解説もあります。

 

 

幽霊が出たという池。夏は睡蓮が美しく咲き誇ります。

 

8月にゆうれい祭りがあり、そのときだけ幽霊の掛け軸の本物が展示されるということです。

 

金栗四三翁の墓/池部家の墓

 

金栗四三の座右の銘、「体力、気力、努力」。墓地にはこのような石碑が建てられていました。

 

生前、金栗が揮毫した力強いこの言葉。地元のスポーツに携わる若者たちを、大いに奮い立たせたことでしょう。下のほうには、スヤさんが白寿のときに扇子にしたためた短歌も刻まれています。

 

「あたたかき 世の人々に 守られて 白寿となりぬ つつがなくして すや」

 

 

金栗四三が半生を過ごした、思い出の場所を一望できる高台に、この墓所はあります。

 

1983年(昭和58年)11月13日、92歳で亡くなった金栗四三は、妻である春野スヤや、養母である幾江などの家族とともに、この地に眠っています。

 

 

三宅重人という方の立派な墓石もありました。

 

 

金栗四三をはじめ、10人がこちらで眠っているようです。もともとのお墓を立派に建て直されたようですね。

 

 

すこし引いた見上げるアングルから。人工芝を引いてあり、コンクリートで手すりつきの道路を作ってあって、とても立派な墓地となっています。

 

 

金栗四三住家(池部家)のすぐそばにあります。

 

金栗四三住家/金栗四三資料館

 

大河ドラマ「いだてん」で注目を集める金栗四三が、晩年までの50年間を過ごした住居が、一般公開されております(無料)。

 

古い家財道具や衣類も展示されており、生前の生活感が感じられる展示内容となっています。

 

 

入室禁止のため、展示物を間近で見ることはできないのですが、マラソン大会の記念品や調度品などを、ガラス越しに見ることができるようになっています。

 

 

こんな感じで見るわけですね。

 

 

こちらの住居には築120年で、金栗四三とその妻スヤ、池部家の方々が暮らしていました。

 

東京から53歳で帰郷した金栗四三は、1983年に92歳の生涯を終えるまで、こちらの住居で過ごしました。この住居は遺族の方から玉名市へ寄付をされたそうです。

 

 

金栗四三のボタンをかけてあげる、妻スヤ。それはそれは、とても仲睦まじいご夫婦だったようです。素晴らしい一枚だと思いませんか。

 

 

隣接して建っている金栗四三資料館。数々の貴重な写真展示や、メダル等が展示してあります。

 

 

写真展示の数々。いずれもここでしか見ることのできないものです。

 

 

四三愛用の硯。決して割れているのではありませんよ。

 

 

金栗四三の座右の銘、「体力、気力、努力」。石碑などに刻み込まれているのを、よく見かけますが、こちらが原本なのですね。

 

 

1912年ストックホルムオリンピックの出場選手徽章。

 

日本初のオリンピック参加となったこの大会には、陸上短距離の三島弥彦、マラソンの金栗四三の2名が出場しました。当時の文部省は「官立学校の学生が欧米のスポーツショーに出るのはけしからん」と、渡航費用1800円(現在の貨幣価値にすると500万円ほど)の補助を拒んだそう。当時の日本でオリンピックをどう取られていたかが分かるエピソードだと思います。

 

 

金栗四三関連では、いちばん史料関係が充実していると思われますので、おすすめですよ!

 

池部家住家と金栗四三資料館は、どちらもボランティアガイドさんが詳しくていねいに話を聞かせてくれるのに、無料となっているのが素晴らしいです。

 

金栗四三ミュージアム

 

NHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」の放送にあわせて、熊本県玉名郡和水町大田黒にて、1年間限定(2020年1月13日まで)で金栗四三ミュージアムが開場しております!!

 

三加和温泉ふるさと交流館の一角に作られており、ついでに買い物や温泉(400円)も楽しむことができますね。

 

 

館長さんと撮影交渉してみましたが、原則、内部は撮影禁止とのこと。受付のところは撮影OKとのことなので、等身大パネルで記念撮影。隣の酒樽は、金栗家が造り酒屋を営んでいたからなのでしょうね。

 

グリコのキャラメルなどの箱に描かれている、ゴールインするスポーツ選手をイメージしたマークがありますが、このモデルの1人が金栗四三なのだそうですよ!(ただし、あくまでも複数のモデルをヒントにして図案化したもので、その中の1人ということになります。)

 

 

入場料600円となりますが、生家記念館の半券があれば480円になります。もしくはJAF会員の方や20人以上の団体であれば、同様の割引を受けることができます。

 

 

受付から内部では、この金栗足袋型ソファーのところだけが撮影OKでした。奥に見えるのは写真撮影用のジオラマです。

 

ストックホルムオリンピックに日本人として初めてオリンピックに参加したとき、日本ではまだ運動靴が普及していませんでした。そのため、東京の足袋店「ハリマヤ」に依頼し、特製の足袋で挑んだといいます。その後、オリンピックで諸外国選手の運動靴を見た金栗は、ハリマヤの協力のもと、ゴム底を厚くし紐で締め上げる現在の運動靴に近い形の金栗足袋を開発しています。

 

 

撮影禁止だったため、文字のみのご紹介となりますが、以下のような展示物がありました。金栗四三の功績を体感できる場所となっておりますので、「いだてん」ファンのみならず、見学に行かれるといいのではないでしょうか。

 

・旧制玉名中学校に通学した様子を当時の校舎とともにマッピングシアターで紹介。

・玉名北高等小学校まで往復12キロの道のりを毎日走って通学する金栗四三をCG映像で楽しめる。

・金栗四三の走るときの歩幅の足形や、現代のマラソンランナーの歩幅を体験できる。

・金栗四三クイズ

 

金栗四三生家記念館

金栗四三生家

NHK大河ドラマ「いだてん」のロケ地にも使われた、金栗四三(かなくり・しそう)生家が、今年1月よりオープンしております。取材日は平日にもかかわらず、ひっきりなしに来場者が訪れてきて、大河ドラマの影響力のすさまじさを体感したものでした。

 

屋根はトタンで覆われていますが、もともとは立派な茅葺き屋根でした。

 

 

金栗四三は、日本マラソンの父と呼ばれ、いまや正月の風物詩となった箱根駅伝の創設者であり、オリンピックに初めて参加した日本人のひとりです。高地トレーニングを日本に持ち込むなど、日本マラソン界の振興に大きく貢献しました。

 

KKウイング(熊本県民総合運動公園陸上競技場、現在は「えがお健康スタジアム」)も、金栗四三の名前から取ったものなんですよ!

 

 

金栗四三に与えられた「学校部屋」。いわゆる勉強部屋のことですが、2畳ほどとはいえ、この時代に子どもが個室を持つことなど希なことでした。

 

四三が高等小学校を卒業するまでの8年間、ここで勉学にはげみました。

 

 

金栗家は代々庄屋をつとめる名家で、9代の又作が造り酒屋を創業し、金栗家はますます栄えたといいます。しかし、四三の父、信彦は胃病を患っており、病弱ゆえに造り酒屋を続けることができず、廃業しています。

 

そのため、かつての繁栄を失い、生活は貧しくなりましたが、長男の実次が村役場に勤めるかたわら畑仕事にも精をだし、家計を支えました。また、病弱な信彦にかわり、実次は四三の親代わりともなりました。

 

 

四三のマラソンの基礎を作り上げたとされる「かけあし登校」が、この生家からはじまっています。

 

実は四三は5歳頃まではひ弱な子どもでしたが、玉名北高等小学校への進学をきっかけに、自宅から学校にかけて片道6kmの道のりを、近所の生徒たちと毎日走っていたそうです。2段呼吸法などのマラソンの基礎も、このかけあし登校で実体験から編み出した方法だということです。

 

 

四三が暮らしたこの生家は、いまから200年前に建てられたと言われています。四三はこの家で生まれ、約14年間をここで過ごしました。

 

 

この生家のほか、金栗四三関連施設としては、今回ご紹介しているこの「金栗四三生家」のほか、「いだてん大河ドラマ館」「金栗四三の墓」「金栗四三の住家」などがあります。ドラマ「いだてん」を見ている人や、マラソンランナーの人は特に、金栗四三の功績にぜひ触れてみませんか?

 

宮崎兄弟の生家(熊本県指定史跡)

 

中華民国初代総統である孫文を支援し、中国革命の協力者として知られる宮崎滔天。彼の兄弟たちもまた、中国革命に理想の日本を見いだし、自由民権運動などで活躍しました。

 

そんな宮崎兄弟の生家が荒尾市により保存され、一般公開されています。

 

 

中国、台湾からの観光客も多いのでしょうか、中国語の案内板が設置されていました。

 

実は、宮崎家が私財をなげうって革命活動の支援をつづけた結果、先代からの財産も底を尽きてしまい、宮崎兄弟の生家は長らく他人の手に渡っていたのでした。これを知った中華民国から、これまでの恩義に報いようと買い戻しの資金を提供されたこともありましたが、そのときは買い戻しに至らなかったようで、最終的には荒尾市が買い戻し、現在では資料館も兼ねて一般公開されるようになりました。

 

 

孫文は日本亡命中のうちの2週間を、この宮崎兄弟の生家で過ごしました。当時は民蔵が家長でしたが、民蔵の蔵書には「土地復権論」にかかわる書物が多数あり、このような片田舎の村にこれほどの本があるのかと孫文が驚き、滞在期間中は読書に没頭したそうです。

 

意外にも辛亥革命には日本人が多くかかわっており、宮崎滔天ほか、第29代内閣総理大臣犬飼毅日本初の右翼団体「玄洋社」総帥頭山満大陸浪人の革命家・山田良政、その弟・山田純三郎など数多くの日本人が、支援者として知られています。

 

 

大正2年3月19日、孫文(中華民国全国鉄路総裁)が鉄道視察を兼ねて、辛亥革命成功のお礼に来日した際、この梅の木を背景に集合写真を撮影しました。

 

樹齢250~300年の白梅で、大宰府より移し植えられたとのこと。現在でも春先には見事に白い花を咲かせるのだそうですよ。

 

 

孫文が宮崎家をお礼訪問したときの様子を再現したものです。

 

「17年ぶりに荒尾に帰ってきて再び見る荒尾の景色に、嬉しい気持ちでいっぱいです。

 

宮崎寅蔵君と亡くなられた兄・弥蔵君は、私に対し兄弟のように親密で、しかもお二人は我が国の革命の為に多いに尽力、協力してくれました。心から感謝いたします。私は信じています。もし日華両国民が私とお二人のような友情を保持できるのなら、両国民間の提携と融和を千万年代に渡り続けられるだけでなく、それは将来の両国の発展と幸福を予知することとなります。

 

私はこの場を借りて、正義人道を重視し、隣国のために尽力する宮崎兄弟のような仁義人士を生んだ荒尾村及び平岡村長、そして村民の皆様に対し、心から感謝と敬意を申し上げます。」

 

 

宮崎兄弟の写真。いちばん下は、植木学校を設立し、熊本協同体を率いた宮崎八郎。自由民権思想をかかげた植木学校を設立したものの、半年で県より廃校を命じられました。西南の役に参戦するため、その旧植木学校の中心人物、平川惟一、宮崎八郎、有馬源内、高田露達で結成したのが熊本協同体で、400名が参戦しました。

 

左上の宮崎民蔵は、農村の貧しさを見て、当時の土地制度に疑問を感じ、土地の平均再分配を目指して土地復権同志会を設立した人物。この土地均享主義は孫文の三民主義にも影響を与えたとされます。こうした思想が私有財産制の否定につながると政府が警戒したことから弾圧を受けるなどして成功せず、63歳で道半ばで永眠しました。

 

右上の宮崎 弥蔵は、欧米列強のアジア侵略に危機感を抱き、中国を中心とした人民主権国家の設立を目指し、世界革命を画策した人物です。そのために自ら中国人になりきって、頭髪を剃り、中国語や中国の習慣を習い、日本国籍を捨てて中国へ渡ろうと考えていたようです。しかし、病弱であったため志なかばで病に倒れることとなりました。彼の遺志は、兄の宮崎民蔵、宮崎滔天らが継いで、孫文の革命運動を支援していくことになります。

 

 

宮崎滔天の妻・槌(ツチ)は、革命家の妻として、生活は困窮を極めたそうです。風呂に使う薪や茶葉にも困るほどで、巡査がお茶を差し入れに来るほどだったとのこと。

 

あるとき、生活の困窮を滔天に訴えたところ、「革命に使う金はあるが妻子を養う金はない、お前達はお前達でどうにかしていけ」と言われたとのこと。そのため、良家のお嬢様だった槌ですが、自分で働くしかありませんでした。石炭販売をはじめたり、牛乳屋をしたり、下宿屋をしたり、白灰焼き、ミシン内職など、いろいろな仕事をしたそうです。

 

 

資料館のほうは撮影禁止でしたので、残念ながら今回ご紹介できませんでした。資料館には宮崎兄弟のほか、孫文と宮崎兄弟にかかわる貴重な史料が多数展示されており、見応えのある施設となっています。日中の平和と友好のために、一度この貴重な遺産を見にいかれてはいかがでしょうか。