チブサン古墳(国指定史跡)

チブサン古墳

 

山鹿市立博物館の近く、肥後古代の森の一角にあるチブサン古墳は、石室の近くまではいって、中の装飾古墳を見ることができる貴重な前方後円墳です。

 

古墳時代には日本各地で30万基とも言われるほど多くの古墳が築かれましたが、そのなかでも石室や石棺、横穴墓を彫刻や彩色で飾り付けた装飾古墳というものは、650基ほどしか見つかっていないのです。

 

 

チブサン古墳の石屋形(レプリカ)

 

名前の由来となった石屋形の文様。真ん中の2つ並んだ丸い文様が女性の乳房にも見えることから、地元では「乳の神様」として信仰されてきたそうです。

 

チブサン古墳の石人のレプリカ

 

右が石人といって、もともとはチブサン古墳のくびれ部付近に建てられていたのですが、現在は九州国立博物館(所有者は東京国立博物館)に保存されています。

 

 

チブサン古墳は平時は施錠されているため、中にはいるためには山鹿市博物館窓口で見学料を払い、見学申し込みをする必要があります。(10時、14時の2回、見学料100円)

 

※内部は撮影禁止でしたので、写真はありません!!その代わり、外部に文様が描かれている石屋形のレプリカを展示してあります。

 

 

この2つの丘陵からチブサン古墳と名付けられたのでは・・・?という感じさえします。

 

石室の入口は江戸時代の時点ですでに開いていたとのことで、葬られていたであろう人や副葬品などは残っていなかったそうです。

 

県立自然公園立神峽里地公園

 

立神峡は、昭和42年9月に五木五家荘県立自然公園特別地域に指定された立神峡公園の中核をなす渓谷です。キャンプサイトやディスクゴルフ場などが整備され、水遊びや魚釣り、キャンプなど、アウトドア・レジャーでにぎわう施設です。夏期は避暑地として人気ですね。

 

肥後の空滝とも言われる立神峡の大岩壁

 

「肥後の空滝」「肥後の赤壁」などとも呼ばれる大岩壁。高さ75m、幅250mに渡ってそびえ立っています。大パノラマで眼前に広がる大岩壁は、カメラのフレームに納まりきれません!

 

この壮大な岩壁は、八代市泉町を源流とする「氷川」が、古生代の石灰岩層を侵食してできたと言われています。

 

火の国橋

 

長さ70.6m、幅員1.0m、水面からの高さ20mという、氷川に架かる吊り橋による歩道橋。なかなかの恐怖感!!

 

火の国橋という名がついていますが、この地こそが火の国(=熊本県の雅称)発祥の場所だと言われているからでしょう。かつて、氷川は火打ち石が多く取れたことから「火ノ川」と呼ばれていたことから、立神付近から宮原一帯の集落を「火の村」と言っていました。この「火の村」が「火の国」の由来となっていると言われています。

※火の国の由来については不知火説など、諸説あります。

 

 

お手洗い&更衣室なども整備されています。

 

 

これからの季節、お金をかけずにお子さんを遊ばせるにはもってこいのスポットですよ。また、火ノ国発祥の地として、近年はパワースポットとしても人気が高まっていますよ。

 

秋山幸二ギャラリー

 

熊本県を代表するプロ野球選手・秋山幸二のギャラリーが氷川町にあるというので、行ってきました!

 

建物は大正14年竣工の旧井芹銀行本店のものですが、現在は宮原町まちづくり情報銀行という建物名になっています。(文化庁登録有形文化財第43-0066号)

 

 

走攻守の三拍子揃った選手として、埼玉西部ライオンズの黄金時代を支えた中心選手であり、福岡ダイエーホークスでは選手のみならず、コーチ、二軍監督を務め、2009年になると一軍監督を務めました。2014年に退任するまでに2度もチームを日本一に導きました。

 

 

背番号1番のユニフォーム。秋山さんは埼玉西部ライオンズ時代も、福岡ダイエーホークス時代も背番号1でしたもんね。福岡ダイエーホークスとしては、背番号1は秋山さん引退後は永久欠番にしたかったようです。

 

 

ベストナイン8回受賞、ゴールデングラブ11回受賞、オールスターにも18度選出されるなど数々の輝かしい功績を残した秋山氏の偉業を顕彰するこのギャラリーでは、2,000本安打達成のバットやゴールデングラブなど、普段見ることの出来ない貴重な品が多数展示されています。(氷川町HPより抜粋)

 

 

 

八代高校時代の表彰盾や表彰状、準優勝メダル、トロフィー、記念バットなど。

 

当時は大学進学の意思が強かったとされ、ドラフトでは指名されませんでした。しかし、ドラフト終了後にプロ入りを表明し、各球団の争奪戦の末に、1981年1月にドラフト外で西部ライオンズに入団しました。

 

 

2000本安打記念バット(下)と、野球殿堂入り記念バット(上)

 

2000年8月18日、対ロッテ戦で出場2000試合目で2000本安打達成。2000本安打達成は史上28人目、ドラフト制度確立後のドラフト外入団選手としては、史上はじめてのことでした。

 

 

毎週月曜日と祝日、年末年始はお休みとなりますので、お気を付けくださいね。入館料は無料ですよ。駐車場は向かいにある宮原振興局の駐車場を利用することができます。

 

熊本協同隊ゆかりの地~植木学校、保田窪菅原神社

植木人民共立小学校跡地

 

わずか半年しか存続しなかった、宮崎八郎たちが開設した植木学校の跡地です。マンションの一角の花壇にひっそりと建っていて、植木町に住んでいても知らない人がいそうなくらいです。昔はもう少し広く残されていた気がするのですが・・・。

 

宮崎八郎といえば、西南戦争のさいに熊本協同隊を率いた人物として有名ですね。打倒・明治政府という目的が同じであるために、熊本県民でありながらも薩摩軍として参戦をしました。この植木学校は、その宮崎八郎や広田尚らで作った学校となります。半年しかありませんでしたが、熊本の自由民権運動のさきがけとなり、また植木学校関係者を中心に熊本協同隊が結成されるなど、その存在感は大きかったようです。

 

 

右手に現在の植木小学校が見えています。

 

植木学校跡

 

ここは明治八年(1875)四月二十六日に開校した変則熊本第五番中学校、通称植木学校のあったところである。もとは山本郡正院手永会所(現在の町役場のような施設)があり、これを改造して校舎とした。

 

同校は宮崎八郎等の熊本民権党が中心となり設立、運営した極めて先進的な学校で、中江兆民の訳によるルソーの「民約論」を経典とした。自由民権主義者の養成所として植木学校の名は高まり、盛時には八〇名近くの若者が在籍していたという。

 

しかし、鹿児島私学校と気脈を通じ、戦闘訓練を行う等したことから、県と反目して補助金を打ち切られ、同年十月末、僅か半年で閉校するに至った。

 

同校の関係者は城北の農民一揆「戸長征伐」を指導、明治十年の西南戦争では熊本協同隊を組織して薩軍に参加し、後には自由民権思想の普及に尽力した。

(平成三十一年三月 熊本市/現地案内板より)

 

熊本共同隊出陣の地(保田窪菅原神社)

 

西南戦争が勃発すると、武装蜂起した薩摩軍に呼応するかたちで、ここ保田窪菅原神社にて熊本共同隊が結成されました。

 

 

熊本共同隊出陣の地

 

西南の役(明治10年)に際し、植木学校を中心にまとまっていた熊本民権党は、専制政府を倒すことでは同じ考えだとして、薩軍に呼応することに決した。明治10年2月20日、同志40名はこの神前に集結して出陣式をあげ、投票で平川惟一を隊長に、宮崎八郎を参謀長にえらび、檄文を読み上げて隊名を「共同隊」と定めた。隊は翌21日薩軍本営に入ったが、隊士はのちに400人をこえた。

(現地案内文より)

 

 

熊本共同隊を率いた宮崎八郎は、西郷が自由民権論者ではないことは分かってはいましたが、ともに明治政府を討伐してから西郷と競って天下を取る、という思いがあったようです。しかし、薩軍は次第に追い詰められてゆき、宮崎八郎は八代の萩原堤で官軍に鉄砲で撃たれて戦死しました。

 

日本を正しい方向に導こうと、命を賭して戦った方々がいたことを、忘れてはいけませんね。

 

石匠館

東陽石匠館の入口付近

 

熊本は石橋の宝庫であることを知っていますか。眼鏡橋の96%が九州に分布し、その半数は熊本県にあると言われています(熊本県HP「石橋のふるさと」より引用)。

 

その理由は、種山石工(たねやまいしく)と呼ばれる技術集団が熊本にあったからなのです。その種山石工の功績を紹介するのが、この東陽石匠館となります。

 

東陽石匠館の入口にあるアーチ状の門

 

東陽石匠館(とうようせきしょうかん)

江戸時代後期、下益城郡美里町の霊台橋【弘化4年(1847)完成】や、上益城郡山都町の通潤橋【嘉永7年(1854)完成】などの築造を手がけた石橋の技術者集団「種山石工」の功績を紹介しています。

 

種山石工の代表的な石工のひとり、橋本勘五郎の生家前に建っており、当時の石材運搬や組み立ての知恵なども学ぶことができます。

 

鹿児島市の甲突川に架けられた五つの石橋、いわゆる甲突川五石橋【弘化2年(1845)~嘉永2年(1849)にかけてそれぞれ完成】は野津石工岩永三五郎、東京の神田筋違目鑑橋【明治6年(1873)完成】と浅草橋【明治7年(1874)完成】は橋本勘五郎が手がけています。

 

平成28年3月31日 八代市教育委員会

 

鍛冶屋石橋群散策路マップ

 

石匠館の脇を流れる鍛冶屋谷には、林七や橋本勘五郎が研究のためにかけたとされる小さな石橋が5つあります。石匠館は撮影禁止のため写真のご紹介ができませんので、今回はその5つの石橋をご紹介いたします。

 

谷沿いには遊歩道(鍛冶屋石橋群散策路)が整備されており、往復30分ほどでまわることができます。遊歩道沿いには、橋本勘五郎生家や、橋本勘五郎の墓、林七の墓などもあります。

 

鍛冶屋下橋

 

これは東陽石匠館のいちばん近くにある鍛冶屋下橋(市指定有形文化財、昭和63年3月1日指定)。林七が試しに架けた石橋と伝えられており、技術面で他地域からの影響を受けていないのが特徴と言われています。

 

橋本勘五郎生誕の地

 

石匠館の道向かいにある、橋本勘五郎生誕の地。

 

種山石工 橋本勘五郎 生誕の地

橋本勘五郎(当初の名は丈八)は、ここ東陽町(旧種山村)西原の地に、石工嘉八の三男として文政五年(1822年)六月に生まれました。

 

血縁者はほとんど石工で、この一族は県内はもとより九州、東京に数多くの名橋をかけています。

 

嘉永七年(1854年)竣工した山都町(旧矢部町)の通潤橋の架設にあたっては、石工頭の兄宇一のもとで、丈八は副頭として天才的な技能を発揮し、その技術が認められ明治六年には明治政府から招かれて上京、神田筋違目鑑橋(のちの万世橋)を架設しました。このほか、浅草橋などの名橋を手がけました。

 

明治七年夏には熊本に帰り、その後熊本市の明八橋明十橋、菊池市の永山橋、御船町の下鶴橋など多くの眼鏡橋を残しています。

 

明治三十年八月十五日、七十五歳で勘五郎はこの世を去りましたが、勘五郎の架設した眼鏡橋は一体幾つあったのか、はっきりとはわかっていません。眼鏡橋の美しさは、勘五郎のまじめな人柄そのものであったようです。

 

熊本県教育委員会は、昭和四十年十一月三日勘五郎を熊本県近代文化功労者として顕彰しています。

 

東陽まちづくり協議会(現地看板より引用)

 

鍛冶屋自然橋

 

鍛冶屋自然石橋(石工/石橋勘五郎、明治28年頃)

 

看板はあれど、目を皿のようにして探してみましたが、どう見ても石橋のようなものがありませんでしたので、おそらくは流されてしまったのでしょうか・・・?

 

鍛冶屋中橋

 

鍛冶屋中橋(石工/林七、文化年間)

 

種山石工の祖とされる藤原林七の作。彼は元は長﨑奉行所の役人だったそうで、そのころ出島を訪れたオランダ人から目鑑橋の技術を学びました。しかし、当時は外国人と接するのは掟破りのことでしたので、林七は種山村に逃亡し、身を隠しました。その間に石工の技術を会得し、熊本独自の目鑑橋技術を完成させたと言われています。

 

鍛冶屋上橋

 

鍛冶屋上橋(石工/林七、文化年間)

 

順路とされるところに金網が張ってあるので入れず・・・。もしかして地震の影響で道が崩れたりしたのでしょうか・・・?

 

 

散策路は往復30分といえど、行きは上り坂が続くので、結構たいへんです。見学時間もあわせれば、所要時間としては、1時間は見ておいたほうがいいんじゃないかな・・・。

 

大久保自然石橋

 

大久保自然石橋(石工/橋本勘五郎、明治28年頃)

 

100年以上前に橋本勘五郎が試しに作った石橋が、大雨などでも流されずによくぞ現存しているものだなと、感心しました。

 

橋本勘五郎墓碑

 

橋本勘五郎の墓碑。

 

今回ご紹介できませんでしたが、石匠館資料館もたいへん見応えのある資料の宝庫となります。みなさんも、熊本の石橋のふるさとを覗いてみませんか?

 

不動岩

 

熊本県山鹿市の蒲生(かもう)にある不動岩は、熊本県指定の奇岩名勝となっている珍しい岩です。

 

岩の根元には不動神社があって、そこから見下ろす山鹿の景色は素晴らしいですよ!

 

 

この不動岩は高さは80mもあって、根回りは100mの巨岩となっています。岩を近くでよく見ると、大小の石がくっついて、1つの巨岩を形成していることがわかります。このように出来た岩を礫岩(れきがん)といいます。

 

この不動岩を歌った「みいくさの 神の姿を仰ぐかな 平伏す岩は まつろえる神」という古歌が残されています。

 

 

3~4億年前といわれる古生代の変斑糲岩(へんはんれいがん)を主として構成されていますが、それらが崩れてさざれ石となり、それが海に流され海底に堆積し、強い圧力や熱を受けておおきな岩盤を形作り、長い年月をかけて削られてこのような形になったとされます。国家「君が代」に「さざれ石の巌となりて」というフレーズがありますが、まさにその状態といえます。

 

1億年前の花崗岩がふくまれているので、おそらくはそれよりは新しい岩石であると言われていますが、正確な年代はわかっていません。

 

 

 

不動岩の名前の由来となる、不動神社。「不動岩」とは、平安時代に山伏たちがこの山中にこもり、不動明王を本尊として奉り、修行に明け暮れたことに由来しているとされます。

 

平成29年に神社が再建されたようで、20年以上前に来たときとは様変わりしていました。そのときには道路もところどころ舗装されていなかったんですが、いまでは山中まできちんと舗装がなされていました。(それにしたって、狭い道路なので、離合は難しいのですが・・・)

 

 

さまざまな年代の記念碑等がならんでいました。長い年月、地元に親しまれてきた場所だという証拠でしょう。

 

 

展望所からのながめ。車で登るのもかなりたいへんな場所となりますが、それでもときどき、ここまで来て休憩していました。

 

 

駐車場も整備されており、きれいなトイレもありますので、安心して来れますよ!

 

ただし!離合困難ですので、運転は慎重に。遊歩道が整備されていますが、足腰に不安のある方を同行させるのでしたら、観光タクシー「加来タクシー」の利用も、ぜひご検討くださいね。

 

人吉鉄道ミュージアム MOZOCAステーション868

MOZOCAステーションの1F

 

人吉駅に隣接した鉄道博物館「MOZOCAステーション868」。明治から続く肥薩線の歴史を楽しみながら学べる空間になっています。

 

「もぞか」とは、熊本の方言で「小さい」「かわいい」といった意味ですが、その名の通り、小さいお子さんを遊ばせるにはうってつけの施設です。ここなら子どもたちが飽きずに遊んでくれるだろうな、と思います。入館料も無料となっております。(ミニトレイン、レイルバイクは1回200円)

 

MOZOCAステーションのミニトレイン

 

館内の『もぞか駅』から、屋外の『人吉駅』まで行ける、人気のミニトレインに乗って遊ぶ子どもたちと、それを見守る親御さんたち。1時間に1~3本が運行されています。運行5分前からチケット販売が開始され、完売したときには臨時便が出るようになっていますよ。

 

なお、雨天時は屋内を3周するコースに変更されるので、雨天時にもお楽しみいただけます。このミニトレイン、子ども用かと思いきや、大人のかたも結構乗られる方が多いようで、肥薩線の線路と併走する形になるために、運がよければSL人吉と併走することもできますね!

 

 

軽食スペースでは、ソフトドリンクやコーヒー、アルコール類、ソフトクリーム、スイーツ、パンなどがあります。飲食物の持ち込みは可能になっていますが、一部、飲食物の持ち込み禁止エリアがありますのでご注意ください。

 

 

1Fには、ジオラマ展示や映像鑑賞・展示スペース、プラレールや木のプールのある子どもスペース、ミニトレイン、水遊び場などがあります。

 

人吉機関車庫

 

2Fには、レイルバイクや図書館、学習スペースなどがあります。屋上は展望デッキとなっています。

 

この2Fからは、日本国内で唯一の石造車庫を見下ろすことができます。明治時代の建造物で、現在でも車両停泊や、列車の清掃・給油・洗浄・留置などの役割を果たしています。この中をSL人吉が通過していくさまは、とても絵になりますよ。

 

 

MOZOCAステーションを離れて、人吉駅に来てみました。JR九州(肥薩線)の駅であるほか、くま川鉄道(湯前線)も共同使用している駅となりますが、くま川鉄道としては「人吉温泉駅」と称しています。

 

右側に見えるのが有名なからくり時計。人吉城のお殿様が、城下見物を行うというストーリーが、民謡にのせて展開されていきます。9時~18時の毎時、3分10秒にわたって動作します。(11月~2月は17時で終了)

 

 

訪問時期は、プレイステーション4用ゲームソフト「まいてつ」とのコラボイベント「人吉まいてつ祭2019」が開催間近の時期でした。まいてつはSLをテーマにしたゲームソフトで、シナリオライターの進行豹氏がユーザーを集めてくま川鉄道を走らせた縁で、コラボが実現したようです。

 

鉄道ファンのみなさんも、ぜひ人吉にいらしてくださいね。

 

国宝 青井阿蘇神社

青井阿蘇神社楼門(国宝)

 

人吉市の観光ということであれば、熊本県で初の国宝となった※、青井阿蘇神社ははずすことはできないでしょう。創建806年(大同元年)ですから、実に1200年の歴史があります。

(※国宝指定を受けたのは、本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門の建造物5棟と、本殿内にある造営時の棟札1枚と銘札5枚。)

 

こちらの楼門も国宝指定建造物の1つ。桃山時代の華麗な装飾を取り入れた寄棟造茅葺の門です。

 

青井阿蘇神社楼門の神面

 

楼門屋根の隅に、神面が取り付けられているのがわかりますでしょうか。このようなところに神面を取り付けるのは全国でも例がなく、京都大学矢崎美盛教授が著書「様式の美学」で人吉様式と名付けました。

 

神面は楼門屋根の四隅にあり、それぞれ陰陽一対(阿・吽の形相)で設置してありますから、計8つの神面がとりつけてあります。陰陽一対は、荒魂(あらみたま)を陽で、和魂(にぎみたま)を陰で表現しているとされます。

(荒魂、和魂は神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面のこと。荒魂とは神の荒々しい側面を、和魂は神の平和的で穏やかな側面を指します。)

 

青井阿蘇神社禊橋(登録有形文化財)

 

青井阿蘇神社の門前にかかる禊橋(みそぎばし)。朱色の欄干が目を引きます。架橋時期は大正時代の1921年で、蓮池に南北に架けられたコンクリート造の三連アーチ橋で、県内に現存する最古のコンクリート橋梁とされています。

 

6~7月ごろには、池いっぱいに広がった蓮の花が見頃をむかえるそうです。

 

青井阿蘇神社の鳥居

 

国宝 青井阿蘇神社

平安時代の大同元年(806年)阿蘇神社の分霊を勧請(かんじょう)して創建されました。鎌倉時代初期に相良氏が遠江(とおとうみ、いまの静岡県)から当地へ入国してからは氏神としての崇敬を受け、地域色を強めてきました。

現在の社殿群(本殿・廊・幣殿・拝殿・楼門の五棟)は慶長15年(1610)から同18年にかけて人吉藩主の相良家20代長毎(ながつね)の命により造営されたものです。

社殿の特徴は、楼門に代表される急勾配の茅葺屋根や軒から下を黒漆塗としつつ、組物や部材の面に赤漆を併用する技法など人吉球磨地方の独自性の強い意匠を継承する一方で、彩色や錺(かざり)金具などは桃山期の華麗な装飾性を取り入れており、その後の倒置法社寺造営の規範となっています。

また、廊の龍にみられる秀麗な彫刻や特異な幣殿殿形式は、広く南九州地方にその影響を与えたとされています。

平成20年6月9日、県内に現存する文化財としては初の国宝に指定されました。

【現地案内板から引用】

 

青井阿蘇神社拝殿

 

青井阿蘇神社の国宝としての価値がどこに見いだされたかというと、5つの統一的意匠を持った社殿群が、慶長年間に一連のものとして造営されていることが1つ。全国的に見ても、一連の建造物群が同一年代で統一されていることは希だからですね。

 

また、青井阿蘇神社の社殿は、中世球磨地方特有の独自性の強い意匠を継承しながらも、桃山期の意匠を意欲的に取り入れるなど完成度も高く、近世球磨地方における社寺造営の規範となっていることも評価されているとされます。

 

 

青井阿蘇神社の平面形式の特徴は、T字型になった拝殿の形式にあります。人吉球磨地方で見られるL字型は、拝殿の右側に神供所(じんくしょ)を設けるものですが、青井阿蘇神社ではさらに左側に神楽殿があります。

 

青井稲荷神社

 

境内社は現在、稲荷神社、興護神社、宮地嶽神社、大神宮の4神社となっていますが、かつては10社以上もあったとのこと。

 

 

青井阿蘇神社ご神木のクスノキ。郡市最大の楠で、人吉市指定天然記念物(昭和33年指定)となっています。樹齢は不明ですが、樹高21.5mとかなりの高さで、長い月日を感じさせます。

 

 

おくんち祭、夏越祭、稲荷神社の初午の三大祭をはじめ、さまざまな祭りが催されています。特におくんち祭りはかなり盛大に行われていますので、祭りの時期にあわせて訪問なされるのもいいですね。

 

人吉城跡(国指定史跡)

水ノ手門西側長塀

 

昭和36年に国指定史跡となった人吉城は、相良氏初代当主の相良長頼が築いたとされる名城で、別名を繊月城といいます。

 

現在では当時の建造物は残っておらず※、石垣と土塁だけで、あとは記念館が建てられていますが、それだけでも見る価値があると思わせる規模です!!2万2千石の大名のお城と思えぬ広さです。日本百名城の1つに選定されています。

※平成15年度から平成19年度にかけて行われた、史跡等総合整備活用推進事業により、塀や櫓、石垣などの修繕や復元が行われました。

 

間米蔵跡

 

相良長頼が鎌倉時代に人吉の地頭として赴任して以来、35代670年の長きに渡って在城しました。

 

長頼が人吉に下向した当時、人吉城は平頼盛の家臣である代官・矢瀬主馬佑が城主でしたので、長頼は城の明け渡しを命じました。しかし長頼は城を明け渡さなかったため、大晦日に鵜狩りと言って誘い出し、殺害したと言われています。正治元年(1199年)の正月に長頼が入城し、以後は相良氏の居城となりました。

 

人吉城の武者返し

 

槹出工法(はねだしこうほう)を用いた武者返し。西洋式築城技法と言われていて、西洋式城郭では採用例はあるのですが(五稜郭、龍岡城など)、旧来の城郭で採用されたのは人吉城のみです。

 

 

相良長頼の築城とはご紹介いたしましたが、山城としての本格的な築城は12代当主の相良為続のときになります。

 

 

そして、いま見られるような石垣造りの近世人吉城としたのは20代当主の相良長毎と言われていて、豊後から石工を招いて改修を行いました。

 

 

久々に人吉城にのぼりましたが、なかなかにハードで、運動不足の身にはこたえます・・・。ご覧のとおり、勾配が急なところや、滑りやすいところもありますので、必ずスニーカー着用の上、長袖長ズボンで登られるようにお願いいたします。

 

堀合門(復元)

 

人吉城はほとんど他家に攻められたことがないのですが、家督問題で内訌が生じていた1526年、日向真幸院を治めていた北原氏に攻められ、策を弄し撃退したのが唯一の出来事と言われています。

 

中御門跡

 

35代670年にわたって相良氏が人吉城主たりえたのは、歴代当主の立ち回りの見事さがあるのかと思います。1600年の関ヶ原の戦いでは、当初は石田三成方(西軍)に従軍し、伏見城などを攻めたのですが、石田方が敗れるとみると徳川方に寝返り、戦後、徳川家康より2万2千石の領地を安堵されることとなります。

 

本丸への登城道

 

本丸には本来は天守が築かれるものですが、人吉城では天守のかわりに護摩堂が築かれました。

 

 

護摩堂があったであろう本丸。現在では人吉城下町が見下ろせる展望所のような場所になっていました。

 

「城跡なんて見てもね・・・」という人も、だまされたと思って一度登ってみて欲しいと思います。建造物が残っていないためになおのこと長い歴史に思いをはせられる、浪漫を感じさせる素晴らしい史跡であると思いました。

 

人吉城歴史館~相良清兵衛屋敷の謎の地下室

 

人吉城歴史館では、人吉城や相良藩の歴史を学べるのはもちろん、最大の見どころは全国的にも珍しい、水が湧き出る謎の地下室

 

平成9年の発掘調査で見つかったという謎の地下空間、それが相良清兵衛という家老屋敷の地下にあったということまでは判明していますが、それが何のために作られたのかは、はっきりしていません。

 

 

普段は施錠されていますが、職員さんに声がけをすると鍵を開けてくれて、ガイダンスに来てくださいます。

 

この地下室の謎の判明が難しい原因は、まずこの件に触れた古文書や古記録がないこと。また、全国の発掘調査でもこの地下室と同様の構造を持つ地下室が発見されていないこと。

 

そこで、地下室底で見つかったスギの板材に対し、放射性炭素年代測定法を用いて、このスギが伐採された年代値を算定することで、地下室が作られた年代を探ろうと試みられました。この結果、スギの年代が分かり、その時代にその地下室が発見された敷地を使用していた相良清兵衛の地下室であろう、ということになったようです。

 

 

6m四方の大きさで、深さは約3.2m。布目積みという石積み方法で、出入り用の階段が2つあります。

 

相良清兵衛屋敷は、寛永十七年の「お下の乱(おしものらん)」によって消失していますが、「お下の乱絵図」によれば、屋敷内にあった持仏堂の地下室である可能性が高いとのことです。お下の乱のときは、この持仏堂は犬童半兵衛一派の隠れ場所になったそうです。

 

 

床の一角には途中まで石段がついた水深2.3mのおおきな井戸。この井戸の底からは、刀が出土しています。

 

用途はいまだ断定されておらず、貯水場、井戸、風呂場、キリシタンに関する施設、沐浴の施設など、さまざまな説が唱えられていますがどれも断定には至っていません。

 

持仏堂の地下にあったことから、持仏堂の護摩祈祷に関連する行水、沐浴といった何らかの宗教行為を行う場所であった可能性もあります。

 

 

この地下室の発見後、相良清兵衛の嫡男である内蔵助の屋敷跡からも、同様の石組の地下室が見つかりました。この地下室は、清兵衛の地下室の東に120mほどの場所に位置しています。

 

 

地下室遺構から出土した石造物群。

 

相良清兵衛は、相良家第20代当主相良長毎から相良の姓を与えられるほど、相良藩に貢献し活躍した人物ですが、あまりに権力を持ちすぎて、人吉藩主さえないがしろにするような行動が見られるようになり、次第に人吉藩主との折り合いが悪くなっていきました。

 

 

その後、第20代当主長毎の死後、第21代藩主頼寛に「清兵衛に専横の振る舞いがある」と幕府に訴えられ、江戸に召喚されることになります。これは第20代当主が遺言で、「清兵衛の横暴が振る舞いが目に余るので、機を見て罰せよ」と指示していたことを受けてのものです。

 

その間、人吉で相良清兵衛の息子、犬童半兵衛を中心とする一族に謀反の嫌疑をかけられ、一族121人が殺害され、もしくは自害するというお下の乱が起こりました。

 

相良清兵衛は幕府評定所で数回にわたる審議をうけ、その結果、津軽弘前藩への流罪が決定しました。その後16年間弘前で生活したのちに人生を終えました。

 

 

地下室遺構以外にも展示はたくさんありますよ!

 

内蔵助の屋敷跡の地下室もすぐ近くですので、いっしょに寄っていかれるといいですよ。