明治天皇小島行在所(あんざいしょ)

 

行在所(あんざいしょ)、という言葉をご存じでしょうか?

 

一般的にはあまり使うこともない言葉ですが、これは天皇陛下が外遊されたときの仮の御所のことでして、明治5年の明治天皇の西国巡幸の際の行在所が、熊本市指定有形文化財として保存され、残っております。(現在、立入禁止となっています。)

 

■明治5年巡幸の目的とは?

 

いろんな説がありますが、廃藩置県後の新体制下における政権の安定強化と、それを諸外国へアピールすることを目的としていた側面があったようです。(あるいは、巡幸により旧藩主・武士層といった廃藩置県への不満層を慰撫することも、目的だったとも言われています。)

 

明治天皇の巡幸は90回を超えると言われますが、そのなかでも明治5年の巡幸は、「六大巡幸」と言われるもののうちの最初の1つとなります。

 

 

明治5年巡幸においては、熊本藩が明治新政府に献上した軍艦「龍驤(りゅうじょう)」が御召鑑として使われ、明治5年7月22日長崎から海路熊本に着き、小島小近くにあった船着き場から上陸しました。遠浅のため沖合から小舟に乗り換えて上陸するので時間がかかり、上陸できたときには夜遅くであったとか。

 

■明治天皇滞在のため、新築された行在所

 

明治天皇はこの小島行在所(おしまあんざいしょ)に滞在なされました。天皇行幸の報を受けた当時の白川県が、細川家の御旅所(おたびじょ)だった米村基三郎方を行在所に指定し、天皇陛下が来られるということで急遽新築したのだそうです。

 

こちらの庭の石で西郷隆盛がスイカを割って食べたという逸話が残っています。(部下の不手際に怒った西郷が、スイカを庭の石に投げ、それを2階から明治天皇が見ていた、という説もあります。)

 

 

巡幸の準備に際し、太政官から府県に出された口達は、

 

「行在所等や道路に修繕を加える必要はない」

「不浄なところを隠す必要もない」

「民衆の行列拝見は自由にさせ、商売等は休まず平日のごとくせよ」

 

・・・というもので、簡素な視察であるというアピールであるとされます。

 

■明治5年巡幸の規模は?

 

もちろん出迎える府県側はそういうわけにもいかないわけで・・・。艦艇7隻、随伴者は参議西郷隆盛、陸軍少将西郷従道以下76名、および近衛歩兵1小隊(約100名)といった規模で、この行在所以外にも多くの場所が宿として割り当てられました。

 

そのなかの1つ、船問屋である島原屋の屋敷跡。随員の桜井内膳正ら6名が宿泊したところとされます。小島小学校の正門横にあり、現在は明治天皇臨幸記念碑がたてられています。

 

 

近衛歩兵ら100名と、司令官桐野利秋が泊まった光応寺。

 

兵士は本堂に、桐野利秋は書院の広間を用いたとのこと。

 

 

五島屋屋敷跡。

 

随員の河瀬侍従長ら4名が宿泊されたところです。

 

 

白木俊太郎宅跡。

 

西郷隆盛の弟である、西郷従道陸軍少将他2名が宿泊されたところで、現在はその後に建てられた民家が建っています。

 

 

角屋敷跡。西郷隆盛が付き人といっしょに宿泊されたところです。

 

 

明治天皇小島行在所は1964年に米村家より熊本市に寄贈され、1968年に熊本市指定有形文化財・史跡に指定されました。明治5年の巡幸で使われた行在所が現存するのは全国的に見て珍しく、2014年には2100万円をかけ老朽化した建物の改修が行われました。

 

2016年の熊本地震で大きな被害を受けたようで、各所にこのように鋼鉄製の支えが建てられていました。これだけの貴重な建造物であるため、ふたたび内部を見学することができる日が訪れることを切に願うばかりです。