震災前の熊本城の姿

 

熊本地震で被害を受け、長らく復旧工事中であった熊本城天守閣ですが、ようやく復旧工事も終わり、先月末に工事用の足場が撤去されたということです。

 

熊本市は、4月から天守閣内部の特別公開も開始する予定で、ようやく熊本城の本格復旧に一歩前進といったところです。もっとも崩壊した石垣はそのままで、全体の復旧にはまだ途方もない年月がかかろうかと思います。

 

そこで今回は、2009年1月1日に撮影した、在りし日の熊本城の姿を振り返ってみたいと思います。熊本市では、毎年お正月は天守閣をふくめて入城料を無料にしてくださっていましたので、そのときのものとなります。

 

 

築城以来現存する貴重な櫓である、宇土櫓(国指定重要文化財)。

 

かつては宇土城天守閣を移築したとの説もありましたが、平成元年(1989年)の解体修理の際にその痕跡が見つからなかったとのことで、現在はその説には否定的な意見が主流となっているとのこと。宇土城主だった小西行長の家臣をこの近くに置いたから、そう名付けられたという説もあるのだとか・・・。

 

 

宇土櫓内部。金属製の筋交いで壁面を耐震補強してあるのが分かると思います。このおかげで、宇土櫓は倒壊をまぬがれたものと思われます。

 

もっとも、倒壊こそまぬがれたものの、建物はゆがみ、壁の剥離が生じるなどの損害があり、復旧完了が令和10年~14年という見通しだとのこと。

 

隣接する続櫓(つづきやぐら)は倒壊してしまいました。

 

 

本丸御殿でもっとも格式の高い場所である「昭君之間」。

 

熊本地震のさいは、昭君之間の床が沈下し、各広間の壁が剥がれ落ちるなどの被害がありました。この部屋は、加藤清正が豊臣秀頼を密かにかくまうために作られた部屋だと言われています。

 

 

「昭君之間」という名前自体は、王昭君の絵画をあしらってあることにちなんでいますが、「しょうくん」=「しょうぐん(将軍)」の意味があるという説があります。仮名に濁点を打たない当時であれば、どちらも同じになりますので、説得力のある説かとは思います。

 

 

突き上げ窓と、その下は迫りくる敵を銃撃するための銃眼です。熊本城ではすべて縦長の長方形で統一されています。

 

 

これとは別に、櫓の外壁には石垣をのぼってくる真下の敵を攻撃するための石落も備わっています。

 

石落から実際にどうやって攻撃したかははっきりしないのですが、石を落とすには小さい穴なので、銃で攻撃したという説、汚物や、はたまたアツアツのおかゆを落としたのだ、なんていう説も・・・。

 

 

このように、銃眼は等間隔でならんでいます。

 

 

2021年4月26日に、ついに熊本城天守閣が公開される特別公開第三弾がはじまります!

 

公開された天守閣内部の映像などを見ると、きれいなフローリング張りになっているように見えますので、そうなると当時の趣きから掛け離れたものになってないのかどうか・・・、心配ではあったりします。

 

ともかく、熊本城特別公開第三弾、みなさん楽しみに待っていましょう。