明治天皇小島行在所(あんざいしょ)

 

行在所(あんざいしょ)、という言葉をご存じでしょうか?

 

一般的にはあまり使うこともない言葉ですが、これは天皇陛下が外遊されたときの仮の御所のことでして、明治5年の明治天皇の西国巡幸の際の行在所が、熊本市指定有形文化財として保存され、残っております。(現在、立入禁止となっています。)

 

■明治5年巡幸の目的とは?

 

いろんな説がありますが、廃藩置県後の新体制下における政権の安定強化と、それを諸外国へアピールすることを目的としていた側面があったようです。(あるいは、巡幸により旧藩主・武士層といった廃藩置県への不満層を慰撫することも、目的だったとも言われています。)

 

明治天皇の巡幸は90回を超えると言われますが、そのなかでも明治5年の巡幸は、「六大巡幸」と言われるもののうちの最初の1つとなります。

 

 

明治5年巡幸においては、熊本藩が明治新政府に献上した軍艦「龍驤(りゅうじょう)」が御召鑑として使われ、明治5年7月22日長崎から海路熊本に着き、小島小近くにあった船着き場から上陸しました。遠浅のため沖合から小舟に乗り換えて上陸するので時間がかかり、上陸できたときには夜遅くであったとか。

 

■明治天皇滞在のため、新築された行在所

 

明治天皇はこの小島行在所(おしまあんざいしょ)に滞在なされました。天皇行幸の報を受けた当時の白川県が、細川家の御旅所(おたびじょ)だった米村基三郎方を行在所に指定し、天皇陛下が来られるということで急遽新築したのだそうです。

 

こちらの庭の石で西郷隆盛がスイカを割って食べたという逸話が残っています。(部下の不手際に怒った西郷が、スイカを庭の石に投げ、それを2階から明治天皇が見ていた、という説もあります。)

 

 

巡幸の準備に際し、太政官から府県に出された口達は、

 

「行在所等や道路に修繕を加える必要はない」

「不浄なところを隠す必要もない」

「民衆の行列拝見は自由にさせ、商売等は休まず平日のごとくせよ」

 

・・・というもので、簡素な視察であるというアピールであるとされます。

 

■明治5年巡幸の規模は?

 

もちろん出迎える府県側はそういうわけにもいかないわけで・・・。艦艇7隻、随伴者は参議西郷隆盛、陸軍少将西郷従道以下76名、および近衛歩兵1小隊(約100名)といった規模で、この行在所以外にも多くの場所が宿として割り当てられました。

 

そのなかの1つ、船問屋である島原屋の屋敷跡。随員の桜井内膳正ら6名が宿泊したところとされます。小島小学校の正門横にあり、現在は明治天皇臨幸記念碑がたてられています。

 

 

近衛歩兵ら100名と、司令官桐野利秋が泊まった光応寺。

 

兵士は本堂に、桐野利秋は書院の広間を用いたとのこと。

 

 

五島屋屋敷跡。

 

随員の河瀬侍従長ら4名が宿泊されたところです。

 

 

白木俊太郎宅跡。

 

西郷隆盛の弟である、西郷従道陸軍少将他2名が宿泊されたところで、現在はその後に建てられた民家が建っています。

 

 

角屋敷跡。西郷隆盛が付き人といっしょに宿泊されたところです。

 

 

明治天皇小島行在所は1964年に米村家より熊本市に寄贈され、1968年に熊本市指定有形文化財・史跡に指定されました。明治5年の巡幸で使われた行在所が現存するのは全国的に見て珍しく、2014年には2100万円をかけ老朽化した建物の改修が行われました。

 

2016年の熊本地震で大きな被害を受けたようで、各所にこのように鋼鉄製の支えが建てられていました。これだけの貴重な建造物であるため、ふたたび内部を見学することができる日が訪れることを切に願うばかりです。

 

震災前の熊本城の姿

 

熊本地震で被害を受け、長らく復旧工事中であった熊本城天守閣ですが、ようやく復旧工事も終わり、先月末に工事用の足場が撤去されたということです。

 

熊本市は、4月から天守閣内部の特別公開も開始する予定で、ようやく熊本城の本格復旧に一歩前進といったところです。もっとも崩壊した石垣はそのままで、全体の復旧にはまだ途方もない年月がかかろうかと思います。

 

そこで今回は、2009年1月1日に撮影した、在りし日の熊本城の姿を振り返ってみたいと思います。熊本市では、毎年お正月は天守閣をふくめて入城料を無料にしてくださっていましたので、そのときのものとなります。

 

 

築城以来現存する貴重な櫓である、宇土櫓(国指定重要文化財)。

 

かつては宇土城天守閣を移築したとの説もありましたが、平成元年(1989年)の解体修理の際にその痕跡が見つからなかったとのことで、現在はその説には否定的な意見が主流となっているとのこと。宇土城主だった小西行長の家臣をこの近くに置いたから、そう名付けられたという説もあるのだとか・・・。

 

 

宇土櫓内部。金属製の筋交いで壁面を耐震補強してあるのが分かると思います。このおかげで、宇土櫓は倒壊をまぬがれたものと思われます。

 

もっとも、倒壊こそまぬがれたものの、建物はゆがみ、壁の剥離が生じるなどの損害があり、復旧完了が令和10年~14年という見通しだとのこと。

 

隣接する続櫓(つづきやぐら)は倒壊してしまいました。

 

 

本丸御殿でもっとも格式の高い場所である「昭君之間」。

 

熊本地震のさいは、昭君之間の床が沈下し、各広間の壁が剥がれ落ちるなどの被害がありました。この部屋は、加藤清正が豊臣秀頼を密かにかくまうために作られた部屋だと言われています。

 

 

「昭君之間」という名前自体は、王昭君の絵画をあしらってあることにちなんでいますが、「しょうくん」=「しょうぐん(将軍)」の意味があるという説があります。仮名に濁点を打たない当時であれば、どちらも同じになりますので、説得力のある説かとは思います。

 

 

突き上げ窓と、その下は迫りくる敵を銃撃するための銃眼です。熊本城ではすべて縦長の長方形で統一されています。

 

 

これとは別に、櫓の外壁には石垣をのぼってくる真下の敵を攻撃するための石落も備わっています。

 

石落から実際にどうやって攻撃したかははっきりしないのですが、石を落とすには小さい穴なので、銃で攻撃したという説、汚物や、はたまたアツアツのおかゆを落としたのだ、なんていう説も・・・。

 

 

このように、銃眼は等間隔でならんでいます。

 

 

2021年4月26日に、ついに熊本城天守閣が公開される特別公開第三弾がはじまります!

 

公開された天守閣内部の映像などを見ると、きれいなフローリング張りになっているように見えますので、そうなると当時の趣きから掛け離れたものになってないのかどうか・・・、心配ではあったりします。

 

ともかく、熊本城特別公開第三弾、みなさん楽しみに待っていましょう。

曹洞宗大梁山大慈禅寺(大慈寺)

 

大慈寺(だいじじ)は、熊本県熊本市南区野田にある曹洞宗の寺院です。開祖は寒巌義尹(かんがんぎいん)という禅僧で、曹洞宗開祖である道元の高弟であった方です。

 

本寺を開祖するにあたっては、寒巌義尹に帰依した地元の地頭であった河尻泰明が、境内地を寄進して弘安元年(1278年)に創建されました。

 

 

こちらの山門は、享保五年(1720年)に七十八世大梅天常和尚代の建築とされます。

 

かつては重要文化財の梵鐘を二階につるしてありましたが、昭和61年に新しく建立した鐘楼に移されました。

 

 

昭和56年国指定重要文化財に指定された鐘楼。

 

寒巌義尹が弘安十年(1287年)に作成したものだということです。

 

 

大慈寺の山号は大梁山(だいりょうざん)。大慈禅寺とも称します。開山の寒巌義尹が順徳天皇第三皇子(※後鳥羽天皇皇子という説も)であったため、朝廷との結びつきが深く、亀山上皇により紫衣の允許を賜っていたほど。

 

熊本地震で被害を受けた仏殿内部

 

かつては四町四方を社領地として有し、境内には殿堂僧房たちならび、五十あまりの田畑、常任僧侶百人を越え、隆盛を誇った大慈寺。

 

しかし、明治時代の廃仏毀釈や、農地解放による社領没収などで一時は荒廃を極めたといいます。昭和42年以降、数代の住職の指導のもと、時間をかけて再興されてきたのですが、そこに平成二十八年の熊本地震が起こり、多大な被害を被ったとのことです。

 

それゆえ、仏殿におさめられているはずの、県指定重要文化財である木造釈迦牟尼坐像及び両脇侍立像(迦葉、阿難)も見ることが叶いませんでした。

 

 

七堂伽藍の一つである、法堂(はっとう)。入口がふさがれ、立ち入ることができませんでした。

 

往時の説法道場であり、読経供養の殿堂でもあります。(昭和五十九年再建)

 

 

 

霊廟所前の2基の層塔。

 

左右ともに本来は十三重塔であったとされ、左側は花崗岩製、右側は凝灰岩製で永仁五年(1297年)の銘文があります。

 

 

霊廟所内にある、凝灰岩製の宝篋印塔。

 

霊根塔とよばれているもので、これは寒巌義尹の墓であると伝えられています。

 

 

霊廟所奥にある2体の宝篋印塔。

 

寒巌義尹の御両親の供養塔であると伝えられており、左側が父君である順徳天皇、右側が修明門院とのことです。寛永年間に緑川の対岸釈迦堂村の極楽寺から移されました。

 

 

六地蔵尊、水子地蔵尊。

 

 

熊本地震からの復興途上の復興途上にありますが、長い歴史をほこる規模の大きな寺院で、七堂伽藍の内部に立ち入ることはできませんが、それでも広大な敷地を散策しますと、寺社仏閣が隆盛を誇った当時の雰囲気を味わうことができますよ。

 


 

 

 

新開大神宮

 

大神宮の名からわかるとおり、伊勢神宮を当地に勧請し、創建された神社です。

 

伊勢神宮の熱心な信仰者であった初代宮司の太田黒孫七郎が、天照大神の託宣を受け、1445年に創建されました。こちらを訪れるかたは、「神風連の変」で宇気比(うけい)が行われた神社だということを踏まえておられると、感慨深くお詣りできるのではないかと思います。

 

天照大神(あまてらすおおかみ)豊受大神(とようけのおおかみ)を、祭神として祀られています。

 

 

天正年間、佐々成政により社殿が焼かれましたが、慶長年間、加藤清正により再興されました。その後、細川家の治世となって手厚い保護を受けました。現在の本殿は明治十四年(1881年)の建築です。

 

なお、この立派なくすの木は、創建当初からあったのではないかと言われているものです。もっとも古い樹木で樹齢570年は経っているのではないかということです。これらは熊本市保存樹木に指定されています。

 

 

大田黒伴雄先生顕彰碑。新開大神宮の太田黒伊勢守に入婿し、神官となったかたで、神風連の変では首領を務めました。

 

神風連の変においては、最後は銃撃を受けて重傷を負い、法華坂で義弟の大野昇雄の介錯により42歳の若さでこの世を去りました。

 

 

新開大神宮のとなりには、「大田黒」という表札のかかった住宅がありましたが、大田黒伴雄を祖先に持つ、神職のかたのお住まいなのかなと思いました。

 

 

秋の大祭時に小学生による奉納相撲が行われる、すもう場。

 

 

拝殿は文久二年(1862年)の建築です。

 

昭和二十二(1947年)年に屋根替えを行い、平成十二年に窓枠など交換されたとのこと。

 

 

皇紀二千六百六十年(2000年)天皇誕生日を奉祝し新開大神宮に献納されたという、さざれ石。

 

 

神風連の変については、何度か記事にさせていただいておりますので、そちらもあわせてご覧ください。

 

【参考リンク】

熊本城周辺の「神風連の変」史跡

花岡山陸軍埋葬地~神風連の変

神風連資料館(桜山神社)

敬神党五士自刃の遺跡

 

立田阿蘇三宮神社

 

新年明けましておめでとうございます。本年も当ブログで熊本の史跡・観光名所をご案内していきますので、よろしくお願いいたします。

 

今回は熊本市北区龍田1丁目の立田阿蘇三宮神社をご案内いたします。後醍醐天皇の御代である、元弘二年(1332年)からある歴史ある神社なんですよ!去年11月、熊本国際民藝館を取材したときに訪問したものとなります。(なので、七五三の看板があります・・・)

 

 

国中守護神として、阿蘇大宮司宇治惟直が勧請創立したと伝わっております。

 

ただし、もともとは三協橋の西方五百米の場所にあった牧寉屋敷(上立田字牧鶴)というところにあったものを、「大道(大津街道)往来の諸人を守護せん」との神託により、寛文元年(1661年)に遷座されたとのこと。

 

御神殿に祀ってある祭神は、国龍神(くにたつのかみ)、比咩御子神(ひめみこのかみ)、健磐龍命(たけいわたつのみこと)、阿蘇都比咩命(あそつひめのみこと)の4柱となります。国龍神は神武天皇の第一皇子ですね。

 

御神木(筋無木)

 

その昔、阿蘇の宮より勧請のとき神様の御杖として突き来る枝を境内に挿しおいたところ根付いて神木になったと伝えり。

 

爾来神威益輝き小児の筋気(ひきつけ)起こしたる時、神木の葉を祈願し水に浮かして其の水を飲ましむる時は、筋の病たちどころに治癒するという不思議な霊験あり。是れ筋無木の称ある以所であります。

 

筋気の守護神立田の筋の神様の名をひとだび遠近に伝ふるや諸病平癒にも霊威は著しく拝され、崇敬愈加わり県内外より祈願奉賛するもの絶ゆることなく大神の神助を仰ぎ霊験を受けて生長せし人すくなからず。普く人の知るところであります。

(現地案内板より引用)

 

 

境内社の天満宮。学問の神様ですね。

 

 

御朱印は、残念ながら現在は行っていないということです。

 

なお、三宮神社は「筋の神様」として有名なんですが、筋の病の消除に限らず、諸病平癒・安産・子授け・健康安全・家内安全・交通安全など、さまざまな御神徳があると言われています。また、開発殖産の神様ですので、事業の発展・商売繁昌・開運厄除の御霊験もあるということです。

 

 

本年もどうぞ、加来タクシーをよろしくお願いいたします。

 

代継宮

 

「代を継ぐ」の名の通り、子授け・安産で知られる代継宮。

 

いかにも子授けに御利益のありそうな名前ですが、ところが創祀時のもとの名は、「四木宮」であったと言われております。そうです、読み方は同じでも、あてる漢字が異なっていたんですね。

 

 

当時はいまの花畑公園のあたりにあったと言われていますが、宮城の四隅に木を植えてあったことから、そのような名前がつけられたと伝わっております。幼くして細川家を継いだ細川綱利公が、「これ一に神徳の加護によるもの」として、「代継宮」に改称せしめたとのことです。

 

 

代継宮は花畑町から本荘3丁目、そして現在の龍田3丁目と場所を移っていきますが、こちらは本荘3丁目の代継宮跡です。加藤清正公が茶臼山に熊本城を築城するにあたり、

 

「尚城頭より見下ろすことは甚だ恐れ多し」

 

として、花畑町から遷座されました。ちょうど茶臼山の南麓にあたる場所であったため、神さまを見下ろす形になることを気にしたわけですね。花畑町の代継宮跡には、加藤清正が自身の邸宅を築き、その後、代々の肥後藩主の邸宅として使われつづけていきます。(現在は、花畑公園となっております。)龍田3丁目には平成元年に遷座されましたが、こちらは白川河川改修工事のためだということです。

 

 

曲水の小川では、平安時代の宮中行事を再現した神事「曲水の宴」が毎年行われています。

 

代継宮の鎮座1050年祭の行事として平成22年11月よりはじまったとのことで、当時の貴族の衣装を着た参加者が、上流から流された盃が自分の前を通過するまでに歌を詠むというものです。

 

 

主祭神は航海の守護神として知られる住吉大神(すみよしおおかみ)。子授け・安産の御利益なのに、航海の神さま?と思われると思いますが、これは臨月の神功皇后が航海に出た際に、その安産を助けたことがその由来となっています。

 

歌人の紀貫之公をお祀りするほぼ唯一の神社と言われています。「曲水の宴」が行われているのも、そのためです。

 

 

愛のはじまりの場所といわれる、天ノ浮橋(あめのうきはし)

 

古事記によると、天ノ浮橋は、イザナギノミコトとイザナミノミコトが降り立ち、おふたりで天の沼鉾を手に取り、日本の国をお造りになったと言われています。

 

縁結びを祈願するときと、良縁を希望するとき、悪縁を断ちたいときで、それぞれ渡り方が異なっています。写真は別れ橋側から撮影しているので、こちらから渡るのは、悪縁を断ちたいときですね。良縁を願いたいときは逆側から渡ります。

 

 

代継宮の片隅にあった、熊本地震で倒れた鳥居。

 

代継宮も熊本地震でおおきな被害を受け、鳥居は崩れたものの片足一本だけ残ったので、2017年5月にそれ以外の部分を修復したとのことです。

 

 

本年中は加来タクシーをご愛顧くださいまして、またホームページにご来場いただきまして、誠にありがとうございました。

 

来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

北岡自然公園(妙解寺跡・細川家御廟所)

 

熊本市中央区横手にある北岡自然公園。こちらはただの風光明媚な自然公園ではなく、熊本県民にとっては特別な意味を持つ場所であります。

 

肥後細川藩の菩提寺として知られる妙解寺跡がある自然公園で、歴代藩主の霊廟が保存されています。

 

 

なぜ、なにもないところに石橋が…?

 

はじめてここを訪れるかたは、頭をひねることでしょう。現在は川幅2mくらいの、ほとんど水が流れていない川が流れているだけですが、当時はこの石橋の長さが必要な川が流れていたということです。かつて川であった部分は、ご覧のとおり石畳となって、遊歩道として使われています。

 

 

 

事務所にて、チケットを購入。大人200円、子供100円となります。

 

妙解寺は初代藩主忠利を弔うために寛永19年(1642年)に建立されましたが、神仏分離令のあおりをうけ、廃寺となりました。その後は細川家北岡別邸と名を変えたのち、昭和30年に熊本市が寺域を譲り受け、公園として一般に公開されることとなりました。

 

 

背の高い木々に囲まれ、荘厳な雰囲気を感じることができます。すべての瓦に細川藩の家紋「九曜紋」が刻まれているのが、わかりますでしょうか。

 

九曜紋に関しては悲しいエピソードがあり、細川宗孝公が家紋の見間違えで殺害されてしまったということがありました。

 

延享四年、板倉勝該が後継者問題から、板倉勝清を殺害する計画をたてていたのですが、板倉勝清の紋「九曜巴」と細川家の紋「九曜紋」が遠目で見ると極めて似ていることから、見間違えで殺害されてしまったということです。これを受けて、見間違えられにくいよう、中央の大円から小円がはなれている意匠に改められることとなりました。以後、細川家の九曜紋は「はなれ九曜」と呼ばれるようになります。

 

 

経蔵跡。建物こそ現存していないものの、石垣も石橋も当時のまま残されているのですから、すごいことだと思います。当時は、この堀にも豊富な水が流れていたことでしょう。

 

 

霊廟につづく道添いにある石灯籠。形がすべて異なっていることから、異なる時代に1つずつ建てていかれたものと考えられます。

 

 

森鴎外・作「阿部一族」のモデルとなった、阿部弥市右衛門の墓も、ここにあります。

 

 

細川家霊廟のなかでも中央に位置する、細川忠利公室保寿院御廟(熊本県指定重要文化財)。細川忠利公は、言わずと知れた、初代肥後細川藩の藩主となった方です。細川忠利公霊廟の右側に位置するのが忠利夫人、左が4代光尚の霊廟で、忠利廟を簡略化したつくりとなっています。

 

桁行3間、梁間3間、一重方形造の本瓦葺き、覆鉢、宝珠付きで、組物は出組、二重繁垂木で、蟇股には九曜紋が施されています(現地案内板より引用)。

 

 

現在の熊本県の礎を作り上げた先人たちを、年の瀬に偲んでみるのも良いのではないでしょうか。

 

秋には紅葉も楽しめ、訪問時には一眼レフをたずさえたかたが写真を撮影されていました。風光明媚な公園としても現地では親しまれています。

 

熊本国際民芸館

 

民芸品だけを集めた博物館が、熊本にあることをご存じでしょうか。

 

民芸品(=民衆的工芸品)、すなわち芸術作品や鑑賞用などではない、日常の手仕事で用いられる日用品のことですが、ここから「用の美」を見いだし、展示している博物館が、こちら熊本国際民藝館となります。

 

 

初代館長である外村吉之介氏が世界各国をまわって収集した陶磁器、ガラス、玩具、染織品、木工品などが展示されています。

 

入口近くでは、このように民芸品の販売も少量ながら行われています。

 

 

民衆の日常生活から生まれた実用品を、民芸品というわけですから、常設展示室には作者名のわかるものなどは、いっさいありません。

 

しかしどれも民俗資料として貴重なものばかりで、民芸運動が起こっていなければ、名工が作ったわけではない、銘のあるようなものではない民芸品などは、とるに足らないものとして、きっと現在まで受け継がれることなく、失われていたであろうと思います。

 

 

これなどは、おかもちではないかと思われるのですが・・・。電話番号まで書いてあります。

 

好きな人は何時間でも過ごせる場所だと思います。

 

 

企画展示室では、「第3回戸田東蔭コレクション~江戸・明治期の食文化を支えたうつわ展」が開催されていました。江戸時代から昭和まで、さまざまな日用品が展示されていました。(この記事の投稿時点ではすでに終了しております。)

 

入館時には住所氏名を記帳するノートがありまして、こちらに登録しておくとイベントなどの案内を送ってくださるそうですよ。

 

 

その他、企画展示室に展示されていた品々。

 

 

熊本国際民藝館は、郷土館ではありません。世界各地の民芸品を収集しています。

また、物産館ではありません。物産品ではなく、日用の堅実な品物を収集しています。

民俗資料館でもありません。新古を問わず、生活的な価値の高さで収集されています。

懐古趣味でもありません。前述のとおり、古いから価値があるという基準ではないのです。

珍品主義でもありません。有名人のもの、珍しいもの、飾り物はありません。

機械の否定でもありません。良い品物を作るために機械を使うのは当然だと考えています。

 

 

エチオピアの椅子があったり、日用品であれば地域を問わないのが、国際の名を冠するゆえんです。

 

 

熊本国際民藝館は、暮らしのなかで働いてくれる民芸品には、健康でたくましく、無駄のないいばらない美しさを備えているのだと説きます。こういうものによって、誰でもが美しい暮らしを実現しようと考えているのだそうです。

 

 

なおこの土蔵造りの建物は、もともとは岡山県にあったもので、安政6年に島根県の棟梁が建てたものをこの地に移設したということです。

 

所蔵品は、織物443点、陶磁器992点、木工品370点、玩具690点、その他546点の計3041点におよぶそうです。

 

 

民芸品に興味のあるかたは、ぜひ訪ねてみてください。年末年始は12月26日から1月4日にかけてお休みされるそうですから、お気をつけくださいね。

 

的石御茶屋跡・隼鷹天満宮

 

前回からひきつづき、豊後街道のお話。豊後街道は江戸時代に、参勤交代の最短コースとして加藤家・細川家に利用されてきた街道です。そして、本州との文化・経済交流のルートとしても、古くから重要視されてきました。

 

今回は、その参勤交代の休憩場所であった、的石御茶屋跡をご紹介いたします。

 

 

この的石御茶屋は、元大友家家臣の小糸次右エ門忠経の屋敷を、細川綱利公が庭の山茶花の美しさに魅せられて召し上げ、御茶屋として整備したものだそうです。

 

これ以後、小糸家は御茶屋番に任じられ、現在でも小糸家の住居として使用されています。(御茶屋としては、1872年の廃藩置県により廃止されました。)

 

 

この的石御茶屋は、参勤交代2日目のお昼休憩に利用されたのだそうです。熊本城を出発した一行は、まず大津で参勤交代1日目の夜を明かし、難所とされる二重の峠を越え、石畳の坂道を下り、この的石御茶屋で昼食をとりました。

 

そのあと、一行は内牧御茶屋を参勤交代2日目の宿とし、3日目は坂梨御茶屋・篠倉御茶屋を経て、久住御茶屋を3日目の宿としました。そして4日目は野津原御茶屋、5日目には鶴崎御茶屋へ宿泊し、鶴崎から海路で大坂へ向かいました。

 

 

加藤清正公は、この豊後街道を確保するため、天草領と交換に、豊後国内に久住・野津原・鶴崎という所領を拝領しました。

 

 

熊本市天然記念物に指定されている小糸家の高野槇(コウヤマキ)。細川のお殿様がお休みになっている的石御茶屋から池をはさんで、この姿のうつくしい高野槇が高くそびえていて、庭を引き立てたそうです。

 

平成11年台風で一度は倒れましたが、手厚い養生のかいあってか、樹勢を回復してきています。高野槇の名前の由来ですが、和歌山県の高野山に多いためこの名がついたそうです。悠仁(ひさひと)親王の「お印」に決まったときに注目された樹種です。

 

 

的石御茶屋の奥には隼鷹天満宮(はやたかてんまんぐう)があります。こちらも細川家に由来があります。

 

細川綱利公が船で東上している折に天候が悪化し、いまにも波にのまれてしまう危機に瀕したとき、どこからともなく訪れた白鷹が船柱にとまり、そうするとたちまち嵐がおさまり、無事上陸することができたそうです。綱利公はその夜、霊鷹は的石天満宮の権化との神諭を夢見、社殿の建立を命ぜられました。

 

 

宗不旱(そう ふかん)の歌碑が境内にありました。宗不旱は熊本の歌人で、万葉調の歌を詠み、漂泊の歌人と呼ばれたかたです。この歌は、筑紫岳川氏の案内で的石村の小糸家を訪れたとき、その林泉の美に感動し、隼鷹宮で詠んだものです。

 

「隼鷹の 宮居の神は 薮なかの 石の破片(かけ)にて おはしけるかも」

 

 

1716年12月に国主が奉納された絵馬や、1842年12月に細川斎護公が奉納された鶴の額が神殿に収蔵されています。

 

二重峠の石畳(豊後街道)

 

二重峠(ふたえのとうげ)は、熊本県大津町瀬田と阿蘇市赤水的石の間にある、加藤清正公が築いたとされる街道です。

 

現存する石畳では国内最長といわれる1.6kmに渡って、幅3mの石畳が続きます。加藤清正公は、この街道を用いて豊後鶴崎の港から大坂への往復をしていたようです。

 

 

二重峠駐車場に車を止めて、さあ登ろうかと思っていたところ、なんだか草が人工的に刈り込んであるようにも見える・・・。

 

あ!くまモンがいる!その上のは、ハローキティですね。車を止めて、わざわざこれの写真を撮りにきていた人がいました。駐車場は大型バスでも駐車できるほどの広さがありますので、駐車場の不安はありませんよ。

 

 

豊後街道-参勤交代の道(往還)

江戸時代の街道は、商人による物資の輸送、遊学、寺社参詣などの旅人の通行路となったのはもちろんですが、何よりも大名の参勤交代や幕府の巡検使の諸国視察などのために整備された歴史があります。

 

54万石の細川藩の場合、参勤交代の人数は、少ないときで600人、多いときには2700人にもなりました。

 

参勤交代の行列は、江戸から東海道を下り大阪に出て、そこから海路 瀬戸内海を通り、大分県の鶴崎に上り、再び陸路で野津原、久住(鶴崎、野津原、久住は肥後藩飛び地)を通り、大利(産山村)坂梨(旧一の宮町)内牧(旧阿蘇町)を経て、的石に出て、二重峠を超えました。

 

ここ坂の下から、二重峠までの道は険しく、また、火山灰土であるために、雨が降るたびに道路が傷みます。そのために、九十九折れ(つづりおれ)の急坂の道に石畳が敷きつめられています。

 

石畳には「岩坂村つくり」と刻まれた石が残っていますが、岩坂村(大津町)はここから12キロ(3里)離れた村で、この道造りに広範囲の村々から農民がかりだされたことを物語っています。

 

入念に敷きつめられた石畳を歩くと、農民の苦労がしのばれます。この石畳を上りつめると、はるかに熊本を望むことができます。江戸から300里の道程をふりかえり、帰国の喜びをかみしめ、石畳を踏みしめて登ったことでしょう。

文化庁・阿蘇市(現地看板より引用)

 

 

二重峠石畳の道沿いにある菅原神社。

 

このへんは西南戦争時に激戦地になった場所でもあり、付近に台場跡が残されています。台場というのは、野戦築城(野戦を有利に運ぶために築かれた構造物、要塞)のことで、主に砲台陣地のことを指すことが多いように思います。

 

 

勝海舟と坂本龍馬もこの二重峠を通ったそうですよ!この二重峠を越えた勝海舟は、眼前の光景を「阿蘇の脚甚だ広く、田野あり」と詠んだそうですが、足腰に不安がありますので、踏破はやめておきました・・・。

 

修復されている部分と、当時の石畳がそのまま残る部分があるようですね。

 

 

史跡坂下お茶屋跡。すぐ近くにお客屋跡もあり、当時の旅人の休憩スポットだったのでしょうね。

 

 

坂の下お客屋跡。当時の旅人の休憩所とありますが、現在その痕跡がわかるものが何も見当たりませんでした。

 

 

石畳のかたわらで、旅人を見守るがごとくそびえ立つ巨木がありました。これは参勤交代の檜という市指定文化財(天然記念物)で、樹齢500年ほどの檜です。

 

上部にスギが着生していて、一本の樹に二種類の葉が繁っています。

 

 

現代ではもはや道路として使われることのなくなった道ですが、いまでも朽ちることなくこうして残されていることがありがたく思います。当時のお殿様と同じ風景をぜひご覧になってみてはいかがでしょうか。