菊池飛行場戦跡

開隊記念碑(右側)

 

熊本県菊池市には、かつて旧陸軍菊池飛行場がありました。花房台地にあったことから、花房飛行場と呼ばれることもあります。

 

現在でいう富の原区にて昭和10年に着工し、昭和15年に完成しました。航空通信学校や陸軍病院、気象観測所も併設され、敷地の広さは県内の陸軍飛行場で最大規模の、約150ヘクタールもありました。大戦末期には、沖縄へ向かう航空特攻隊の中継基地となりました。

 

菊池飛行場ミュージアム

 

菊池飛行場の歴史を後世に伝えるべく、泗水町豊水の孔子公園内に地元有志が設立した「菊池飛行場ミュージアム」。(中は撮影禁止のため、外観のみ)

 

現在でも菊池飛行場戦跡は良好な保存状態で、数多く残されています。しかし、遺構のほとんどが私有地に存在しており、このミュージアムも含め、地元有志により維持されている状況であります。

 

「花房飛行場の戦争遺産を未来に伝える会」代表の倉沢泰氏

 

今回は、「花房飛行場の戦争遺産を未来に伝える会」代表の倉沢泰氏にご案内いただきました。

 

富の原保育園の園長さんであり、さきほどご紹介した菊池飛行場ミュージアムの館長さんでもあります。戦時中は北九州小倉の高射砲部隊に所属なされていて、終戦後は菊池飛行場跡に開拓団として移住しました。

 

 

花房飛行場跡給水塔(市指定文化財)

 

よくパンフレットなどでも紹介されることの多い高架給水塔。主に飛行隊や陸軍病院の給水施設として昭和15年に設置されました。鉄筋コンクリート製で高さ13.57mあります。終戦後は国立病院の給水施設や入植してきた開拓団の生活用水として利用されました。

 

軍関係の給水塔は耐震性の問題があり、全国でもわずか10基しか残されていません。ところが、この給水塔は驚くべきことに、外観が保存されているだけでなく、平成19年までは現役で稼働していたとのこと!外壁や柱には、空襲時の機関銃の跡が数十カ所残っています。

 

 

給水塔内部。菊池飛行場ガソリン貯蔵庫の扉がなぜかここで保管されていました。

 

水槽部の直径は7.8m、貯水量は160~180立方メートルあります。取水場所はここより500m東側の台地の下にあり、そこにはポンプ小屋があり、高架給水塔まで配管が敷設されています。通信教育隊側にも同様の高架給水塔がありましたが、こちらは爆撃により現存していません。

 

菊池飛行場正門と立哨所跡

 

道路の脇に、菊池飛行場の正門がありました。正門前には立哨所があり、当番兵が監視していました。

 

 

ガソリン貯蔵庫跡。非常に頑丈な作りになっており、当時は上から土を盛り、芝生が植えてありました。数十カ所に機銃掃射の跡が残ります。

 

 

戦後は開拓団2世帯の住居として使用されました。

 

 

木造大型格納庫基礎。将校専用機の格納庫だったという証言があります。

 

 

木造大型格納庫の左側の基礎には、機銃掃射の跡が生々しく残されています。

 

 

風呂場・給湯施設なのですが、草に埋もれてほとんど見えませんでした。菊池飛行場戦跡はほとんどが私有地であるため、どうしても管理が行き届きません。

 

空襲で亡くなられた方の慰霊塔(菊池ふるさと遺産認定)

 

昭和20年5月13日の米軍による空襲で亡くなられた方の慰霊塔の前で、倉沢さんと写真を撮らせていただきました。加来タクシーでも、戦争遺構を伝える活動の一端を担えればと考えております。公共交通機関でまわるのが難しいため、菊池飛行場戦跡をタクシーで見て回りたいというときには、お声がけいただければと思います。

 

熊本城周辺の「神風連の変」史跡

神風連挙兵本陣跡

 

熊本城周辺には、「神風連の変」関連の史跡がたくさんあります!今回はそれを一気にご紹介させていただこうと思います。まずは護国神社内にある神風連挙兵本陣跡から。

 

神風連の変とは、1876年10月24日深夜から25日にかけて起こった士族反乱で、明治政府に対する不満を募らせた神風連(=敬神党)約170名が、太田黒伴雄に率いられ、熊本鎮台(歩兵第13連隊・砲兵第6大隊)を襲撃したものです。西南戦争や秋月の乱、萩の乱も、これに呼応して発生したものと考えられています。

 

神風連加屋霽堅・斉藤求三郎戦死之跡

 

二の丸公園にある、神風連加屋霽堅・斉藤求三郎戦死之跡。事変をかぎつけた政府軍による反撃を受け、銃撃を受けてここで戦死したとされます。神風連は西洋化を否定していましたから、旧来の槍や刀で、近代兵器で武装した政府軍に立ち向かっていったのでした。

 

あだなりと人なとがめそもみぢ葉の
 散るこそ赤き心なりけれ 霽堅
夷らをはらひてこそは訪ひも見め
    梅は野山に咲き匂ふとも 求三郎

 

神風連討入口

 

歩兵第13連隊歩兵営を襲撃した神風連第三隊(約70名)の討入口と言われています。

 

陸軍少尉阪谷敬一戦死之跡

 

阪谷敬一少尉は神風連第二隊(約70名)と交戦し、ここに倒れたと言われています。場所的には、桜の馬場 城彩苑のすぐそばの、川沿いにあります。

 

将士奮戦之跡

 

歩兵第13連隊第4中隊の兵達は、この大楠の下で円陣を組み、銃剣をかまえて神風連第一隊と奮戦し、破れたと言われています。

 

軍旗奪還之跡之碑

 

歩兵第13連隊軍旗は神風連の変が起きた当時は、連隊長であった与倉知実中佐の私邸に保管されていたそうです。それを神風連第一隊による襲撃を受けて、奪われてしまいます。それを鎮台兵・隈部幸作が奪還したことを記念する碑だとのことです。

 

 

軍旗染血之跡 碑

 

鎮台兵・隈部幸作が奪還した軍旗ですが、これを再び神風連に奪われるのを危惧した佐武広命中尉はなんと軍旗を腹に巻いたんだとか。そうしたところ、奮戦中に負傷し、血が軍旗に染みたため、血染めの軍旗と呼ばれました。

 

 

 

今回はくまもとよかとこ案内人の会様にご案内いただきました。その節はどうもお世話になりました。

 

菊池渓谷 その2

 

前回にひきつづき、菊池渓谷編です。今回は、実際に散策路をご案内いたします。

 

菊池渓谷の散策路は、正式には九州自然遊歩道「内牧~菊池渓谷コース」の一部となり、延長16.0kmもあるそうです。

 

 

まずは橋を渡って、菊池川の対岸へ。この日は雨が降っていましたので、レインコートでのぞみました。

 

ルートは往復2kmのマイナスイオン満喫コース(所要時間1時間)です。

 

菊池渓谷散策路

 

まずは最初の滝である、黎明の滝を目指して歩きます。

 

あいにくの小雨ではあったのですが、かえって雰囲気がでて、よかったかなとも思ったり。

 

黎明の滝

 

黎明の滝 由来

上流は緩やかな石畳の紅葉ヶ瀬それを覆う緑の原生林、奇岩、怪石の渓谷のあいまを縫って流れ落ちる滝、飛散する水しぶきに朝の太陽が輝いて一帯に霞が立ち込めまさしく夜明を思わせる景観を呈するところからこの名が付けられたという。

(現地案内板より引用)

 

 

樹齢200年という杉の木。文政6年(1823年)頃に植えられたものだそうで、樹高45mほどにもなるそう。

 

紅葉ヶ瀬

 

紅葉ヶ瀬。紅葉の時期に来ると、さらに見事な景観となります。

 

 

右に降りれば癒やしコース(1km)ですが、ここはあえて直進してマイナスイオン満喫コース(2km)へ。

 

竜ヶ渕

 

竜ヶ渕はかつては木が茂っていましたが、大雨のたびに崖が流された結果、現在は開けた景観となりました。

 

天狗滝

 

竜ヶ渕と天狗滝 由来

 

人里遠く離れた深葉の山々は、その昔未踏の地でありキツネ・タヌキ・野猿をはじめ多くの鳥獣の生息地であったという。数百年も経過した老木の混在する原生林は昼なお薄暗くその谷間を流れる清流は瀬を作り、滝を作り、そして渕を作っているが、その一つで最も大きく藍色によどみ、不気味さを感じさせるこの渕はかつて竜が住んでいたという村人の伝説があるところから竜ヶ渕と呼ぶようになった。また、その昔奥山の頂付近には、山伏の修練場としての洞窟または天狗岩が残っているが、修練者が時折渓谷に降りてきては岩場で身を洗い清めたことから、この滝を天狗滝と呼ぶようになったという。

(現地案内板より引用)

 

 

川底がエメラルドグリーンの色をしていて、綺麗なんですよね。「最も大きく藍色によどみ、不気味さを感じさせる」という現地案内板の記述は、このことを言っているのだと思います。

 

四十三万滝

 

四十三万滝の由来は諸説あるようですが、昭和9年九州日日新聞社が景勝地募集を行ったところ、43万票を獲得して1位になったからだとか、また1日の平均流量が43万石(約7.8t)位だろいうことから呼ばれるようになったという説も。

 

広河原

マイナスイオン満喫コースはここまでは来れるのですが、この先が通行できませんので、ここから折り返しとなります。残念!

 

 

倒木や落石のため、とあります。熊本地震からの復旧がまだ終わっていないようですね・・・。

 

掛け幕の滝

 

手軽に自然を満喫するにはとてもいい散策コースだと思います。

 

足場の悪いところもありますので、くれぐれも動きやすい靴・長袖長ズボンで訪れてくださいね。

 

菊池渓谷 その1

菊池渓谷入口にある現場事務所

 

阿蘇くじゅう国立公園の一部でもある菊池渓谷

 

菊池川の上流にあり、水源地にある渓谷となります。菊池水源の名称で、名水百選にも指定されています。

 

渓谷美の極地とも称される、美しい自然公園ですが、熊本震災で被災してからは訪れていなかったので、久しぶりに現地に赴いてみました。

 

 

菊池渓谷の地震の爪痕

 

地震で崩壊した建築物などの残骸や巨石などが、渓谷入口付近にはまだ残されていました。

 

通行止め区間が表示されている菊池渓谷案内図

 

散策ルートでは巨木や巨石が崩落し、令和元年12月現在でも広河原付近で工事が続いており、一部区間が通行禁止になっています。

 

そのため、広河原まで行きましたら、一度そこから引き返さないといけなくなっております。

 

菊池渓谷ビジターセンターの建設工事

 

菊池市観光情報発信施設(きくち渓谷館)は解体されているため、現在は売店やレストラン等がありませんので、ご注意ください。

 

菊池渓谷ビジターセンターの建設工事が進んでおり、令和2年2月末に竣工、同年4月のオープンを目指して工事が進んでおります。

 

 

維持管理協力金の名目で、ひとり100円の入場料への協力が呼びかけられています(強制ではありません)。

 

必要なかたはここで杖を借りることもできますよ。

 

 

菊池渓谷は約1,193haの広大な面積を誇る憩いの森であり、広葉樹で覆われた森をぬって流れる菊池川が、ところどころで滝を形成し、実にみごとな景観をなしています。夏場は避暑地として、秋頃では絶好の紅葉スポットとなりますよ。

 

 

来週更新予定のその2では、渓谷の散策路を実際に歩いたルートをご紹介いたします。

 

養生伝承館・いのちミュージアム

竹熊宜孝さんとわたし

 

菊池養生園初代園長で、現在は菊池市泗水町で、養生伝承館館長をなさっている竹熊宜孝さん。

 

食と農を基本に、「病気にならない体」をつくる診療所を目指して、農園併設の病院、菊池養生園を作られた方です。診察を受ける住民のかたに無農薬の野菜を食べてもらい、いかに「食」が健康を支えているかを目に見える形で知ってもらいたいというのが、竹熊先生の思いです。(先生いわく、「医者が百姓をしたのではなく、百姓が医者になったのだから仕方ない」。)

 

無農薬にこだわるのは、竹熊先生の弟さんの農薬中毒になったことが大きなきっかけで、農薬の恐ろしさを知った先生は医者をこころざすようになりました。ホリドールは有機リン系の殺虫剤で毒性が非常に強く、稲につく最大の害虫ニカイメイチュウによく効くため、よく農薬として使われていましたが、毒性が強いために殺人や自殺に使われることさえありました。

 

 

施設の名前にも使われている「養生」という言葉。この言葉に、竹熊さんの思いが込められています。

 

養生を辞書でひくと、①「からだを大切にして、健康の増進をはかること」②「病後、体力の回復を図ること」とあります。この養生という言葉、先生が尊敬されている熊本市の開業医、小川先生がよく使っておられた言葉だそうで、自らの命は自らが守る、この姿勢を住人の方達にもくみ取って欲しかったとのことです。

 

「養生」とは自ら生命を養うと書く

食養生 心の養生 身の養生

これともに養生の道なり

また自ら病をみつけ 手当し

癒やすことも 養生の術なり

(養生語録)

 

 

竹熊先生みずから養生伝承館の建物のなりたちを解説していただきました。

 

いまは龍門ダムに埋没した、合計9軒分の民家の解体木材を再利用して、養生伝承館は建設されました。

 

 

養生説法の噂をききつけて、養生伝承館には老人会や婦人会、PTA、修学旅行生が押し寄せるようになりました。一時期はよくテレビでもお見かけしておりました。菊池養生園での養生説法、いわゆる”クマの説法”は、残念ながら、2012年3月30日が最後となりました。

 

しかし、ここ養生伝承館で”養生塾”として再スタートされています。お呼びがかかるまでは舞台に立つのが”芸人”と心得ているのであります、とのこと。

 

 

竹熊先生は小さいころより絵が好きで、賞状ももらっていたほどでした。あるとき、ある外国の女流画家のモデルが立ち寄られ、自分を書いて欲しいと申し出があったそうで、それで数人の画友達でデッサン会をしたのが裸婦絵を描くようになったはじまりだそうです。そして68歳にして裸婦展を開くことになりました。

 

 

養生園2階は、障がい者総合支援法にもとづく就労継続支援B型事業所「まるーわ」となっていて、障がいを持つ方々が作られたさまざまな工芸品などが展示販売されています。

 

まるーわとは、アフリカの言葉(チェチェワ語)で「花」の意味があります。ここに関わる人たちすべてと「一つの輪」になって進んでいきたい、という願いも込められています。

 

 

養生伝承館を訪れ、薬漬けの医療から脱却し、自然との共生に立ち返ろうという竹熊先生の思想にぜひ触れてみてください。

 

またとない人生である。

ふたつとない命である。

自ら重んじ

自ら愛せよ

(養生語録)

 

西郷隆盛祖先発祥の地・「菊池」地名発祥の地

西郷公民館(熊本県菊池市七城町)

 

西郷隆盛のルーツが熊本県菊池市にあることをご存じでしょうか。西郷家は、肥後国菊池郡を本拠として活動していた菊池一族の初代、菊池則隆公を祖先に持つんです!

 

「菊池と西郷では、姓が違うじゃないか?」と思われるでしょうが、菊池則隆公の子・菊池政隆公が、増永城城主(菊池十八外城の1つ)となるに際し、西郷姓を名のるようになったということのようです。

 

 

西郷家初代政隆から数えて32代目が、西郷隆盛となります。薩摩に移り住んだのは、26代西郷九兵衛昌隆の時であるとの記録が残っています。

 

増永城跡

 

増永城は、別名西郷城とも呼ばれました。城の築城年代は定かではありません。増永城のある七城町の町名の由来は、菊池十八外城のうち七城が、当町内に在ったことによると伝えられています。

 

増永城跡(菊池十八外城)

 

増永城は菊池初代則隆の子、西郷政隆が開いた平城で、西郷氏代々の居城として、正面に迫間川を擁し、台城・正光寺城と連携して玉名・鹿本方面からの侵入に備えた城です。

 

遺構は少なく、現在は井戸、土塁の跡(竹林)、また「西郷さんの墓」と呼ばれる五輪塔が残っているだけです。この地から西に100Mくらいのところに地蔵院があり、これは西郷家の菩提寺であったと伝えられています。

 

また城域東の羽根木八幡は則隆、砂田若宮神社は政隆の勧請ともいわれ、外城の仲でも古いと考えられます。

 

城主の名が村の名として残り、その末裔は鹿児島に赴き明治維新の英雄西郷南洲(隆盛)を生みました。それを物語る「西郷南洲先生祖先発祥之地碑」が境内にそびえ立ち、碑文は徳富蘇峰の筆によります。

 

平成十八年菊池市教育委員会/菊池市文化財保護委員会

(現地案内板から引用)

 

菊之池跡

 

菊池の名前の由来となった、「菊之池」跡。菊池則隆が名付けたとされますが、深川村にあったその広大な池のかたちが「菊の花」に似ていたからだとか、池の周りに菊が咲き誇っていたからだとか、名前の由来は諸説あります。現在では、水源が枯渇してしまい、昔の姿をしのぶことができません。

 

地名としては菊之池の名は残り、地元の小学校の名は「菊之池小学校」となっています。

 

 

菊池則隆の墓

 

菊池則隆の墓も、菊之池の近くにあります。もとは藤原則隆といい、太宰府天満宮領赤星荘園の荘官として、延久2年(1070年)に菊池平野の一角、深川に居城を構え、地名をとって菊池を名乗り始めました。

 

この墓は文化十五年(1818年)に創建され、明治・大正の工事を経て、いまの状態になっているそうです。

 

菊池氏発祥之碑

 

菊池一族のルーツをたどる旅なら、ぜひ加来タクシーにお任せください!付近には菊池温泉もありますから、お任せいただければ最適なプランをお見積もりさせていただきます。

 

株式会社美少年・蔵見学

 

熊本で明治時代より親しまれている「美少年」ブランドのお酒。旧運営会社(火の国酒造)が破綻したのち、現在は「美少年」ブランドによる酒造事業は、株式会社美少年という新しい会社にひきつがれて、少数精鋭で頑張っていらっしゃいます。

 

旧運営会社は熊本市南区に会社を構えていましたが、新会社は菊池市の水源小学校跡(菊池市四町分字免兎原1030番地)にて、酒造事業を営んでおられます。

 

 

左の校舎が工場と事務所、右の体育館はおそらく倉庫になっているようですね。

 

なお、蔵見学は事前予約が必要になります。見学をされるのは、11月~4月の製造期間がおすすめです。ただ、それ以外の期間でも、杜氏による施設見学をすることができます。試飲やオリジナルラベル制作などもできますよ!

 

 

水源小学校の昇降口にあたりますが、フォークリフトがつけてあったり、シャッターが取り付けてあったりして、もう立派に工場の趣きです。

 

 

児童の下駄箱がまだそのまま残されていました。

 

株式会社美少年(千堂敬一郎社長)は、2013年8月1日に火の国酒造株式会社から酒造事業の事業譲渡を受け、事業を開始しました。2013年11月23日本社を熊本市南区から菊池市四町分の水源小学校跡に移転しました。

 

 

松本零士先生の代表作「銀河鉄道999」には、「美少年」というお酒が登場します。アルカディア号の設計者トチローが愛飲しているのですが、じつは松本零士先生は「美少年」というお酒が実在しているとは全く知らなかったようです。

 

ところが、あるとき松本先生が偶然「美少年」の看板を見つけ、あわてた松本先生が会社にお詫びの電話をいれたことから、「美少年」と松本先生の交流がはじまったようです。いまではコラボのお酒が売られているほど。

 

 

もとは給食室だったという場所。こちらでお米を蒸したりされるそう。

 

訪問時期は10月でしたので、お酒の製造をしていない時期だったのですが、製造設備を解説つきで丁寧に見学させていただけました。少人数で製造されているということでしたので、お手間をとらせて申し訳なかったです。

 

 

もとは校長室であった製麹室。納豆を食べての入室は絶対ダメなんですって。それだけ納豆菌が強いということなんでしょうね。

 

 

薮田式沪過圧搾機という機械なんだそうですが、こちらでお酒の濾過をされているんだそう。たくさんのフィルターのようなものが並んでいました。

 

 

地元の方は、水源小学校が廃校後も取り壊されることなく、こうして当時の姿のまま建物を残してくれているのは、ありがたいことなんじゃないかと思います。

 

 

製造工程などがパネル展示されている場所。どうやって日本酒が造られているかがよくわかります。

 

松本零士先生のイラスト入りの1号木升も売られていますよ!わたくしもグラスセットで買わせていただきました。

有朋の里・泗水孔子公園

 

泗水孔子公園の存在は知りつつも、そもそも泗水と孔子にどんな関係が・・・?という疑問がありましたので、疑問を解消すべく、かなり久しぶりに孔子公園を訪れました。

 

入場料は無料で、「道の駅・泗水養生市場」に隣接しています。

 

 

中国の宮廷建築様式を採用して、中国宮廷の世界観を再現されたなかなかにゴージャスな公園です。

 

孔子公園がここ泗水町に作られたのは、どうやら、泗水という地名のルーツが、孔子の生誕地、中国山東省・泗水県に由来することから来ているようです。

 

 

町名由来之碑。「泗水」町名がつけられて百周年を迎えるにあたり、町名に諸説あって一定しないので、昭和61年に調査団が結成されたようです。

 

その結果、「泗水」という町名は、明治22年4月1日、初代村長・西佐一郎氏が村会に諮って命名したもので、郷土発展を願って孔子の聖地「泗水」の名を取ったということで結論づけられたそうです。では、そもそも、なぜ孔子にあやかったのか?というと、泗水村が成立する前はこの地は「合志郡」だったので、「合志」と「孔子」をひっかけたようです。

 

 

孔子

名は丘(きゅう)、字(あざな)は仲尼(ちゅうに)。中国歴史上の偉大な思想家にして政治家、教育家。孔子は紀元前551年、現在の山東省曲阜市尼山付近で生まれました。

 

幼少から「敏にして学を好み、下問を恥じず」という少年でしたが、家庭は貧しい中に育ちました。成年になって一時、倉庫の管理をする役人になったこともあります。中年期に至ると、門人を集めて学問の講義を行うようになり、「どんな人にも等しく学問を与えるべきである」と主張して、それまでになかった「私人が講義をする」先駆けとなりました。

 

50歳前後になると魯の官僚に迎えられ、中都の宰、司空、司寇などの要職に就任。その後、政界の腐敗を嫌って54歳のころに辞職し、諸国を周遊して自分の政治主張の普及に努めました。

 

68歳で再び故郷の魯に帰り、全力で教育と著述に従事。詩書の型を正し、礼楽を定めて史書「春秋」を編纂し、周易(五経の一つの易経)の思想を支持しました。その生涯を終えたのは紀元前479年、73歳のときでした。

 

孔子の「人は生きている限り学ぶべきである」とした一生は、後世の人々の貴重な文化遺産(「論語」孔子の教えを弟子達がまとめたもの)となって今に伝えられています。

※現地看板より引用

 

 

孔子像を納めた祀聖亭。

 

 

野外ステージ・・・に見えますが、かつてはここに資料館がありました。老朽化により取り壊されたようですね。

 

 

記念品コーナーという名の売店です。

 

 

グラウンドが隣接して整備されています。

 

 

この公園を整備した泗水町は、菊池市、菊池郡七城町・旭志村と合併し、現在では菊池市となっています。

 

黒石原(飛行場)奉安殿跡

 

教育勅語や御真影を奉る場であった奉安殿ですが、GHQの神道指令によりほとんどが破却され、現在ではほとんど見ることができません。

 

ところが、黒石原飛行場の奉安殿は解体をまぬがれ、かつ原位置に残る、県内でも唯一ののもので、近代遺跡として貴重な文化財となっています。

 

 

黒石原飛行場の奉安殿は、洋風の様式で大理石が貼られていたということですが、現在ではベースとなるコンクリートがむきだしとなっています。

 

 

奉安殿の内部。

 

黒石原飛行場は昭和十六(1941)年四月に現在の合志市豊岡に熊本地方航空機乗員養成所として開所されました。

 

この時期に黒石原(飛行場)奉安殿は、創建されました。航空機乗員養成所とは、逓信省航空局が設置した民間航空機乗員(操縦士、機関士、通信士)を養成する施設で、全寮制で軍隊式の教育が行われていました。

 

ここ黒石原飛行場からは、終戦までの四年間で五百三十四人が巣立っていきました。昭和二十年三月から四月にかけては沖縄戦に出撃する特攻機の中継基地として利用され、五月十三日には米軍機による空襲を受けました。この日の攻撃により、七名の犠牲者が出ています。

 

そして七月からは、本土決戦に向けて特攻隊機十二機が常駐していましたが、八月十五日終戦を迎えました。

(くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワークリーフレットより引用)

 

 

西岡神宮

 

 

菊池氏、宇土氏、名和氏といった、宇土歴代領主の尊崇を受けてきたのが、この西岡神宮です。

 

小西行長公が領主の時代には、キリシタン大名であった小西氏により社殿焼き討ちに遭いました。(小西氏の時代には、県南の寺社の多くが破却を受けたとの言い伝えが残っています。)その後、加藤清正公により現在の地に再興され、細川氏の庇護も受け、現在にいたります。

 

 

和銅6年(713年)、宇土地域の総鎮護として中原に創建されました。

 

当時は春日大神住吉大神の勧請でしたが、承久3年(1048年)に八幡宮をあわせて祀ったため、三宮大明神と称することになり、現在でも三宮さんの名で親しまれているそうです。

 

 

社殿に用いられている石柱や基礎の石が赤みがかっていて、宇土市ならではの馬門石が使われているのがよくわかります。

 

※馬門石とは、宇土市網津町字馬門で産出される凝灰岩で、約9万年前の阿蘇山の噴火により流れ出た火砕流が堆積したものです。

 

 

五色の鳥居。

 

緑…仁・自分を愛し真心と思いやりを持ち誠実に人と接する
黄…信・心も行動も言葉も嘘偽りのない生き方で人と接する
赤…礼・礼儀礼節を大事に節度ある態度気持ちで人と接する
白…義・道理や人道に尽くし倫理を踏み外さずに人と接する
紫…智・知恵を高め偏りのない豊富な知識を持ち人と接する

 

 

来週末は秋季大祭も催されますので、それにあわせてご覧になるのもよいかもしれませんね。