新免武蔵塚と小袖塚

新免武蔵塚

 

宮本武蔵の墓碑とされるものは、武蔵塚公園、西の武蔵塚、立田自然公園など、熊本県各所に点在していますが、じつは八代にも宮本武蔵の墓碑があります。

 

こちらは、武蔵死後125年目に、門下の村上氏が建てたものとされています。地震の影響か、だいぶ斜めになっていました。

 

 

手前に見えるのは、懐良親王ゆかりの御小袖塚。この奥にさきほどの新免武蔵塚があります。

 

懐良親王御建立の御両親の陵墓御小袖塚

市指定文化財記念物(遺跡)

昭和三十八年四月二十日指定 

 

征西大将軍懐良親王が父君後醍醐天皇と母君霊照院禅定尼の御追福のためにたてられた菩提寺・御陵墓である。

 

親王が吉野をたたれるとき、形見に賜った父天皇の御小袖を埋められたことから御小袖塚とも呼ばれる。中央にある一基のの五輪塔は何れも南北朝期のもので、向って左は天皇、右は御生母で、その墓前には菩提寺として護国山顕孝寺を建て、仏壇には御自筆銘の御霊牌を安置して供養された。御陵墓の周りは玉垣が囲されその四隅には高さ九十一cmの五輪塔を備え嵯峨大覚寺の御陵と同じ様式で造られている。

 

後に顕孝寺は廃寺となり相良氏支配の頃には悉地院が建てられ、相良氏の祈祷所となった。現在御霊牌は悟真寺御霊殿に奉安されてある。御陵墓の後には「新免武蔵塚」があり、西側には妙見神宮寺社僧代々の墓がある。

 

昭和五十七年十一月 八代教育委員会(引用)

 

草枕交流館

 

玉名市天水町・草枕温泉てんすいの近くにある草枕交流館。ここは2006年4月にオープンした、夏目漱石の小説「草枕」を題材とした観光案内施設となっております。

 

夏目漱石はここ小天(おあま)温泉を旅行で訪れたときの経験を元に、小説「草枕」を執筆したと言われています。

 

 

大型スクリーン・大型スピーカを備えたガイダンスホール。

 

こちらでは、はじめて訪問される方向けに「草枕浪漫」(11分)というビデオを上映してくださいます。席数42席となりますので、大人数のときには事前相談が必要です。

 

 

 

展示収蔵庫で閲覧できる、前田家別邸復元模型(山鹿灯篭師作)。

 

前田家別邸は前回の記事でご紹介させていただきましたが、現在でも前田家別邸はその一部が残っており、見学をすることができますよ。前田家別邸は温泉旅館として利用されていたようです。

 

 

展示収蔵庫では、前田家の歴史や草枕に関する展示を見ることができるほか、中江兆民、岸田俊子や孫文、黄興らの書などを見ることができます。

 

 

そもそも、漱石はなぜ明治29年の暮れに小天温泉へ行ったのでしょうか。

 

夏目漱石の自宅には書生たちが下宿をしていたのですが、熊本ではじめての新年を迎えるために漱石の妻・鏡子が作ったおせち料理を、その書生たちが年始客が来る前に食べてしまったのが、そもそもの事の発端です。

 

当然、夫婦で喧嘩になってしまい、漱石はよほど懲りたらしく、翌年は暮れから小天温泉へ旅へ出ることにしました。

 

 

企画展示室。こちらでは現在、草枕の道の古道調査、すなわち漱石の小天温泉旅行の道程を、事細かに調べ上げた資料が展示されています。

 

 

屋外では温泉地らしく、足湯場がありましたが、こちらは熊本地震の影響により使用できなくなっていました。

 

 

夏目漱石が草枕を書くことになった背景を詳しく知ることができる施設となっています。

 

入館無料ですので、小説好きな人のみならず、ぜひお立ち寄りください。

 

旧玉名干拓施設~石塘史跡公園

 

玉名市の平野部は、いまでは熊本の一大穀倉地帯となっていますが、その平野部は実は江戸時代から行われてきた干拓事業により生まれたものです。菊池川流域で75カ所もの干拓地が開かれました。

 

明治26年に築堤された、この明丑(めいちゅう)堤防は、その一連の干拓事業の遺構の1つ。国営横島干拓による潮止工事が完了してからは第一線堤防としての役割がなくなり、以降の近代的な改修を受けなかったため、当時の姿を良好に保存した遺構となっています。

 

 

加藤清正公は肥後入国後、領地を視察し、菊池川の流路をつけかえて潮受け堤防を築くことができれば、広大な領地を造成できると考えました。天正17年(肥後入国の翌年)には、さっそく工事に着手しました。

 

その清正公の築いた潮止堤防(石塘)の近くに、加藤神社が建立されました。

 

加藤神社

 

加藤神社

 

当社の祭神は加藤清正公である。熊本の領主となった清正公は、玉名平野を流れる菊池川河口一帯の広大な洲や干潟に着目し、これを水田化するために大々的な河川改修工事を行った。

 

その最終工事として困難を極めた石塘の築堤が、以後の横島発展の礎となったのである。

 

後世、村民が深くその遺徳を偲び、明治三年、清正公の遺像を石の祠に納めここに安置した。その後明治二十五年に社殿を建築し、現在に至っている。

 

平成二十年四月 横島校区まちづくり委員会(引用)

 

 

横島丘陵と久島山を結ぶ潮受け堤防は、長さ380mほどですが、激流のために造っては壊れを繰り返し、工事が難航したようで、ついには人柱を建ててようやく工事を完了させました。

 

ようやく慶長10年に完成し、小田牟田新地として、新たに約880町歩の土地が造られました。

 

 

潮受け堤防付近は、現在では石塘史跡公園として整備されていて、加藤清正公の造った石塘を間近で見ることができます。

 

 

石塘

 

往時菊池川の主流は横島山と久島山間を流れていた。加藤清正は菊池川の水路変更と石塘築堤によって、数百町歩の耕地が出来ることに着眼し、天正十七年(一五八九年)工を起し十七年間の歳月をついやし、慶長十年(一六〇五年)これを完成した。その間、横島久島間約四〇〇米の築堤は最も難工事で人柱と読経の加護によって築かれたと言い伝えられている。

 

人柱の跡

 

加藤清正公の小田牟田新地干陸で最も困難だったのは石塘の潮止工事であった。築いては幾度となくこわれるので人力では如何ともしがたく、古例にならって人柱を入れ、横島山頂より読経して潮止に成功したと言う。

 

その場所がここであると伝えられる。この築堤に当たり多数の犠牲者と人柱に立った人の霊を祀ったのが大園にある本田大明神である。

 

横島町教育委員会/横島町文化保存顕彰会(引用)

 

唐人川

 

加藤清正公による菊池川流路変更の前は、菊池川本流であったとされる唐人川。

 

いまでは、当時人柱を立てたほどの激流であったことが嘘のように、川の流れ方がおだやかです。

 

小説「草枕」の舞台「前田家別邸」

前田家別邸・入口門付近

 

小説「草枕」の舞台「那古井温泉」のモデルとなった、玉名市天水の小天(おあま)温泉。

 

いまでも「草枕温泉てんすい」「那古井館」の2つの温泉施設が残っていて、小天温泉を楽しむことができます。(明治時代は、5~6軒あったそうです。)

 

前田家別邸・浴場外観

 

明治30年の暮れに、夏目漱石は同僚と2人でこの前田家別邸に訪れ、数日間逗留したときの経験をモデルに、小説「草枕」を執筆しました。

 

今回は、その前田家別邸をご紹介させていただきます。本館と離れの一部はなくなってしまい、母屋は建て替えられていますが、漱石が宿泊した離れの6畳間と浴場が現存しています。

 

前田家別邸・浴室(女湯側)

 

平成16年に修復工事が行われた浴室。失われていた上屋を復元していますが、浴場のコンクリート部分は当時のままです。

 

浴室内立入禁止の看板

 

明治時代の貴重なセメントづくりの遺構であるため、歴史遺構の損傷を防ぐために、浴室部分に降りていくことはできなくなっています。

 

半地下に彫り込んで作られた湯壺

 

左側が男湯、右側が女湯となっています。湯口が男湯にしかないのがわかると思います。そのため、男湯のほうが湯温が高くなっていました。

 

そのため、湯温が高い男湯へ入ろうとした卓と漱石の接近遭遇が生じたわけですね。

 

前田家別邸・本館跡

 

本館跡。建設当時はここには温泉旅館として運用されていた木造三階建ての建物がありました。

 

前田家別邸・離れ(内観)

 

離れの現存部分。この六畳間のほか、四畳半の部屋があと2つありましたが、そちらは現存していません。

 

漱石は、この六畳間と四畳半の部屋の両方を使っていたと思われます。「徘徊する振袖の女」は六畳間からは壁に阻まれて見えないのですが、四畳半の部屋からは中庭を隔てて母屋の廊下を見ることができます。

 

前田家別邸・離れ(外観)

 

見学料金なども特に必要ありませんので、ぜひ見学なさってくださいね。駐車場までの道がすこし狭いので、ご注意ください。

 

尾田の丸池~平成の名水百選

 

玉名市天水町といえば、草枕温泉が思い浮かぶ人が多いかと思いますが、豊かな水源地でもあります。

 

今回は尾田川の水源地である、尾田の丸池をご案内いたします。

 

 

この水底までくっきりと見える澄んだ水を求めて、多くの人が水を汲みにくるのです。(水源管理費として、100円が必要。ひとりあたり、20リットルまで。)

 

 

かつては水遊びのために多くの家族連れで賑わっていましたが、利用者のマナーの悪さなどから、ついには遊泳禁止となってしまいました。

 

 

尾田川は環境省の「平成の名水百選」の1つである金峰山湧水群に属しており、1日あたり約600トンもの水が湧き出ています。

 

地元では尾田川の水を、農業用水として利用しています。

 

 

直径2mほどの丸い池から、水が湧いているのですが、その水源地からすこし離れた場所に、このように常時水が流れている水くみ場があります。

 

なお、尾田の丸池からはじまる尾田川はひどく蛇行しており、九十九曲がりと呼ばれています。

 

 

 

草枕温泉に寄ったついでにでも、きれいな湧き水を汲みにいってみてはいかがでしょうか。

 

八代城跡公園

 

八代城跡群の1つとして国の史跡に指定されている八代城跡公園を、今回はご案内いたします。

 

「八代城群って、どういうこと・・・?」

 

と不思議に思うかもしれませんが、じつは八代城とよばれたお城は1つではなく、(1)南北朝時代の古麓城、②安土桃山時代の麦島城、③江戸時代の松江城の3つがあるのです。一般的には、松江城のことを八代城跡と言っていますね。

 

 

八代城跡というくらいですから、建造物は一切残っていません。昔は文化財保護の意識は低かったようで、明治時代までにはすべて取り壊されてしまったとのことです。現在は水堀に囲まれた本丸の区画が公園として整備されており、石垣の上を歩いて散歩することができますよ。

 

 

大天守跡には、木碑が建てられていました。

 

第3代八代城である松江城を建てたのは、加藤正方(かとうまさかた)という加藤清正に仕えた筆頭家老です。清正公が亡くなられた後、幕命により麦島城(第2代八代城)に入城したのですが、地震により麦島城が倒壊したため、松江城を新築させました。ですので、松江城の初代城主が加藤正方公ということになりますね。

 

 

こちらは小天守跡。

 

第二代八代城主としては細川忠興公が入城しますが、第三代八代城主・松井興長以降は、第十二代城主となる松井盈之にいたるまで、すべて松井家が世襲していくこととなります。

 

 

第二代八代城である麦島城のころから、八代城は一国一城令の例外として存続を認められてきました。

 

これは全国的にも異例のことで、熊本城と八代城が併存できた理由は諸説ありますが、薩摩藩や人吉藩への備えというのが通説となっています。

 

 

水堀をめぐる周遊船も運航されています。ひとり800円~1000円で、事前予約制となっております。

 

当初は、白い石灰岩を用いた真っ白な石垣であったことから、白鷺城とも呼ばれていました。現在では黒くなってしまっていますが、有志によって石垣を磨いて白くするというプロジェクトも進行中とのことですよ。

 

 

建造物こそ残されていませんが、現在は公園として、地域の人々の癒やしの空間となっています。在りし日の八代城の姿を想像しながら散歩を楽しむのも、乙なものではないでしょうか。

 

松浜軒

 

松濱軒(しょうひんけん)は、元禄元年(1688年)に建立された大名庭園で、八代城代の松井直之が母の崇芳院尼のために作ったものだと言われています。

 

松井家は肥後藩主細川家の筆頭家老で、第三代城代となった松井興長以降、第十二代城代・松井盈之に至るまで、長らく八代城代を任されていました。熊本城の支城である八代城は、一国一城令のあとも特別に残すことを許された、例外的な存在でした。

 

 

干拓されるまではこの辺までが海であり、海岸沿いの庭園でありました。松林越しに八代海が望める雄大な眺望の庭園であり、松濱軒という名前もここから由来しています。

 

現在では干拓により海岸が遠くなり、松林も枯れてしまいましたが、江戸時代の見事な大名庭園が、現代までこのようにして良好に保存されているのが素晴らしいと思います。平成14年に国の名勝に指定されました。

 

 

受付のすぐ隣が展示室になっていて、松井家所属の茶器等の数々を見ることができました。(撮影禁止のため、中の写真はありません。)

 

松井家初代の康之は、わび茶で知られる千利休の高弟でした。さらに言うなら、康之が仕えた細川忠興は利休七哲のひとりに数えられる大名茶人。そのため、肥後国では肥後古流と呼ばれる武家茶道が伝えられてきたのです。

 

 

松濱軒

1688(元禄元)年、黄檗宗・慈福寺跡に、八代城主・松井直之が母・崇芳院のためにつくった御茶屋。保養所、客屋、避難所としても機能し、1873(明治6)年以降は松井家の住宅となる。昭和の一時期に旅館としても活用された。

 

1793(寛政5)年、肥後藩茶道方・小堀詮順により庭園は大改修された。主屋・書院棟はこれ以前の建築・鉤型で、書院・白菊の間が赤女ヶ池の州浜に突出する。ここからは中島と、かつては遠景に雲仙を望むことができた。白菊の間には床・違棚・書院・板絵のある板戸があり、雪の間(旧次の間)には置床、花の間(旧茶室)には茶湯棚がある。

 

1871(明治4)年頃に玄関棟など、その後、2階建の新居間棟を増築。新居間棟の角に三畳台目の茶室がある。またこの頃新居間棟西に、麓御茶屋を移築し茶室・林鹿庵とする。

 

1949(昭和24)年、昭和天皇宿泊時に玄関棟を南に曳き家し、その場所に大広間棟を増築、東に冠木門を設けた。大広間棟主室には一間半の畳床があり、次の間は能舞台としても使用された。玄関棟は唐破風で鬼瓦・掛巴・拝懸魚に松井家紋がある。冠木門付近の塀は板塀瓦とする。

 

また蔵が3棟並ぶ北西のエリアには、以前花火を作っていた棟があり、これを現在、綴玉軒という茶室としている。

(現地案内板から引用)

 

 

伏見の稲荷大明神を勧請した稲荷社もありました。

 

古くからあった赤女ヶ池、赤女ヶ森がそのまま庭園に取り入れてあるとのことです。

 

 

児宮鎮座記

 

宇土の細川家は代々早死にする人が多かったので、六代目興文公が神様を御信仰になりたいと思召して宇土三之宮の宮司三宮能登にお計りになりお庭の中に児宮明神をお祀りになりました。

 

すると其の後は御子様型方が皆々お元気にお育ちになり、天然痘の大流行の折りも皆様御無事であったと云う事です。この噂が一般にひろがり遠くの大名、小名までその御神徳を恭って疱瘡の難にかからぬ様お詣りに来たと言う事であります。

 

八代城主六代營之公も此の話をきかれ児宮明神をお祀りしたいと思召されていたところ、天明元年(一七八一)正月十日夜ごと御雲移が行はれると言ふ報せがあったので、西垣政萬と云う人が使いに立ち宇土三之宮に詣で御神霊を移した宝珠を捧げて翌十一日八代城に帰って来ました。營之公は直ちに御自身、祠にお移しになりました。大正の初め頃まで疱瘡除けに児宮の〆縄を頂きに来る人が多かったと申します。

(現地案内板より引用)

 

 

1949年(昭和24年)に、昭和天皇ご夫妻が熊本に巡幸したときには、こちらが宿泊所になりました。

 

八代城と歩いて行けるほどの距離にありますので、八代城、八代宮、臥龍梅、松浜軒あたりはセットでご覧いただくのをオススメいたします。

 

八代宮

八代宮の鳥居

 

八代宮は、八代城(松江城)跡にあって、征西将軍・懐良親王(かねよししんのう)を主祭神とし、その後に征西将軍職をついだ良成親王(よしなりしんのう)を配神としています。創建は明治17年で、南朝の功労者を祀る神社を建てて欲しいという八代市民の請願によって作られた神社です。

 

地元では「将軍さん」の愛称で呼ばれています。※八代神社とはまったく別の神社ですので、お間違えなく・・・。

 

八代宮の手水場

 

なぜ八代宮が八代城(松江城)跡の中にあるのか?といいますと、祭神となる懐良親王が一時居城としていたところ、という理由からとなります。

 

もっとも、懐良親王が拠点としていたのは、南北朝時代の八代城、すなわち古麓城でしたので、実は松江城ではないのですが、八代宮建立請願が出された当時、住民も政府もそう認識していなかった、ということのようです。

 

八代宮境内神社「霊社」

 

太平洋戦争での八代市郡の戦没英霊三千九百十四柱を奉じている霊社。昭和二十三年四月二日奉斎。

 

平成十年から十一年にかけて、太平洋戦争終戦五十周年記念事業として、改築が行われています。

 

八代宮の夫婦松

 

神門の前にある縁結びのパワースポット「夫婦松」。この下をくぐると二人は結ばれるとか・・・。

 

海軍少将加来止男碑

 

海軍少将加来止男碑も近くにありました。

 

太平洋戦争にて、空母飛龍の艦長をつとめ、ミッドウエー海戦で戦死を遂げた方のようです。

 

 

 

駐車場は八代市役所・仮設庁舎のすぐそばにあります。とても美しい神社ですし、八代城跡に行ったらこちらにも参拝したいところですね。

 

ユネスコ無形文化遺産・八代妙見祭で知られる、八代神社

神社

 

今回から八代編となりますが、まずは八代妙見祭で知られる八代神社に来てみました!日本三大妙見の1つに数えられる神社です。妙見さんはいわゆる北極星信仰の神社ですね。

 

創建は795年(延暦14年)とのことで、八代、下益城、芦北三郡の一宮として大いに栄えたと言われています。(一宮とは、その地域でもっとも社格が高いとされる神社のこと。)

 

八代神社拝殿

 

八代神社の社殿群は入母屋造り千鳥破風が設けられています。現在の社殿群は1699年と1749年に改築されたもので、県の重要文化財にも指定されています。

 

全体的に朱塗りされ、妻飾りの霊獣の彫り物などがまた見事で、荘厳な作りに神社の風格を感じさせますね。

 

 

八代神社

八代神社は、明治4年(1871)まで妙見宮と呼ばれ、文治2年(1186)に検校散位(けんぎょうさんみ)大江朝臣高房がこの地に創建したと伝えられています。祭神は、北極星と北斗七星を神格化した天御中主神国常立尊です。

南北朝時代から戦国時代の混乱期を過ぎ、加藤氏による八代城完成と同年の元和8年(1622)に社殿が、また寛永13年(1636)には細川三斎公によって神輿と神輿屋、脇殿、拝殿などが再興されました。その後の元禄12年(1699)と寛延2年(1749)に、城主松井氏によって修復がなされ現在に至っています。

社殿は、屋根は入母屋づくり、正面に千鳥破風があり、数多くの緻密な彫刻が随所に施され、江戸時代中期から後期の社寺建築の特徴がよく表されています。

11月22・23日の秋季例大祭である妙見祭は九州を代表する都市祭礼で、「八代妙見祭の神幸行事」として国の重要無形民俗文化財に指定されています。

(現地案内看板より引用)

 

八代妙見祭展示館

 

八代神社には八代妙見祭展示館もありました。中にはいることはできず、外から観覧する形になります。八代ロータリークラブにより奉納されたものです。

 

八代妙見祭はユネスコ無形文化遺産「山、鉾、屋台行事」の一部としても登録されています。九州三大祭りのひとつでもあります。(他の2つは「博多山笠」、「長崎くんち」)

 

妙見祭の起源は明確にはわかっていないそうなんですが、いまから500年前には神幸行列や流鏑馬といった祭礼行事が行われていたことがわかっています。現在の神幸行列の原型を作り上げたのは細川三斎と言われています。

 

さざれ石

 

なぜか、国歌にうたわれている「さざれ石」が展示されていました。

 

さざれ石のそもそもの意味は、「小石」ということですが、国歌でいうところの「巌(いわお)」となった状態のさざれ石ということで、この塊となった状態(石灰質角礫岩)もさざれ石というようになったようです。小石の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって1つの大きな塊を形成したもの。

 

 

大楠と西南戦争

明治10年の西南戦争で、この一体(当時は宮地村)は官軍・薩軍の攻防が激しいところであった。戦禍は猫谷村・古麓村に拡がった。

この大楠(市指定記念物)は、中性の歴史と明治の戦いを眺め、その幹には多くの銃弾が撃ち込まれているという。

境内の樹木が台風で倒れたので製材に出したところ、銃弾が入っていて鋸の歯がつぶれたという。

江戸時代再建の妙見宮(八代神社)の社屋と共に、当時を偲ぶ数少ない語り部である。

 

 

毎年11月22日、23日が妙見祭となりますが、お祭り期間以外でもぜひ歴史ある神社を訪れてみてください。

 

 

日輪寺~赤穂十七義士遺髪塔のあるお寺

 

赤穂浪士由来の史跡が熊本にもあることをご存じですか。

 

赤穂浪士関連の史跡というと、浅野長矩と赤穂浪士が葬られている東京の泉岳寺や、兵庫県赤穂市にある赤穂藩の菩提寺であった花岳寺が知られていますが、山鹿市にある日輪寺にも赤穂浪士の遺髪塔というものがあります。

 

 

赤穂事件後、赤穂浪士は幕府から切腹が命じられますが、切腹するまでの五十日間の身柄を細川藩邸で預かりました。肥後藩士・堀内伝右衛門が彼らの接待役となり、日夜接待に全力を傾けたそうです。

 

切腹後、赤穂義士たちは遺言により浅野家墓所たる泉岳寺に葬られましたが、「せめて遺髪なりとも」と願い出て、それが許されて堀内伝右衛門が持ち帰り、日輪寺の境内内に遺髪塔を建立したとのことです。

 

 

日輪寺は、熊本ではつつじ祭りや桜の名所として有名かもしれませんね。その時期になると、3万5千株のツツジ(4月中旬)や200本の桜(3月下旬)が咲き誇ります。見頃になると多くの花見客でにぎわいます。

 

 

日輪寺は平安時代からの歴史あるお寺で、菊池武時、加藤清正、細川忠利といった歴代肥後藩領主より手厚い庇護を受けてきました。そのように長い歴史を持つお寺であるがゆえに、赤穂義士遺髪塔のほか、竜王山古墳などさまざまな史跡があります。

 

 

規模が大きいお寺なので移動も一苦労・・・。

 

造園が見事であるため、単に散歩がてらに歩くのも楽しいかもしれません。

 

 

お釈迦様の弟子の一人とされる、おびんずる様(賓頭盧尊者)の大仏。わたしの身長と比べていただくと、どれほどのスケール感かわかっていただけると思います。おびんずる様は十六羅漢の一人で神通力に優れ、病の人びとをいやしたと言われています。かつては体内にはいることもできたそうなのですが、熊本地震があってからは入れなくなったそうです。

 

 

おびんずる様をなでてから、自分の体をさするようにすると、その部分の病がいやされるといいます。大仏像の近くにある建物のなかに、涅槃像のおびんずる様もいらっしゃいますよ。