白糸の滝

  
残暑厳しい日々が続きますね。今回は涼をもとめて、熊本空港の南東、西原村にある「白糸の滝」をたずねてみることにしました。マイナスイオンをたくさん浴びて涼しくなれる場所ですから、夏に水遊びをする場所として人気のスポットです。

ここは他の観光地・史跡と距離が離れてポツンと存在しているので、何かのついでに行くということがありえず、「どうしても白糸の滝に行きたい!」という明確な目的のある人でなければ、連れて行くことがないんですよね。
   

  
駐車場からは、結構な距離がありますので、スニーカー必須です!!行きは下りですが、帰りは上りになります・・・。

滝の間近にある交流館「糸舞季」にも、数台分の駐車場がありますが、すぐいっぱいになりますので、高齢者や身障者優先で使ってもらったほうがいいのかな、と思います。
   

   
熊本震災以降、原因不明の水がでているそうで、遊歩道が常に水浸しです・・・。施設管理者も状況は把握されているようですが、復旧の見通しは立っていないようです・・・。
  

   
ですので、交通安全上はよろしくないのかもしれませんが、遊歩道ではなく、舗装された車道を使って滝に降りたほうがよかったりします。靴が泥だらけになりますので、来訪者の多くが車道を使って行き来しているようでした。

行きは遊歩道を使いましたが、帰りは写真左の車道で帰りました。施設利用料100円を来訪者から徴収しているわけですから、遊歩道の水対策は、早急になんとかして欲しいですね。

  
交流館には、レストランとトイレがあります。施設管理人さんがいらっしゃったので、白糸の滝の由来をあらためてたずねてみました。

「白糸の滝」は、別名「寄姫の滝」とも呼ばれます。この滝に伝わる「寄姫伝説」から名付けられた別名です。
   

  
その昔、兵部という男が白糸の滝で雨宿りをしていたところ、美しい寄姫に出会い、たちまち兵部は寄姫に心奪われ、ふたりは結ばれました。

ところが寄姫は織物をすると言っては出かけることが多く、そのうち妙な噂がでることに。出かける理由を聞いても答えません。怒った兵部は刀で寄姫の胸をひと突きにしました。

寄姫は逃げましたが、血の跡をたどっていくと、洞窟のなかに血を流して横たわる大蛇の姿があったということです。
  

  
約20mから流れる滝は圧巻!!水しぶきがただよう滝のそばは、真夏でもヒンヤリします。
  

  
白糸の滝の近くで、水遊びに来ている人たち。ここに遊びに来るなら、サンダルをはいて、冷たい川に足を浸して涼をとるといいかもしれませんね。
  

  
昨今はパワースポットとしても人気のようですよ!当タクシーでお連れするときには、すぐ滝のそばまで車でつけますので、ご安心くださいね。
  

瑞巌寺跡(瑞巌寺公園)~ゲンジボタル育成地域

 
地元では瑞巌寺公園として、ホタル観測地として知られている場所ですが、瑞巌寺跡としての熊本市指定名勝史跡でもあります。寛文年間に本覚寺の光朝法印が瑞巌寺霊応山を創建したといわれています。

本覚寺といえば、加藤清正公の側室であった本覚院(菊池武宗の娘)を弔うために、妙永寺境内に本妙寺の末寺として建立されたと言われています。地元では六角堂と呼ばれることも多いですね。
 

  
毎年5月下旬~6月上旬にかけて、西浦川にはゲンジボタルを見ることができるそうで、その時期になると竹灯籠が灯され、多くの人でにぎわいます。

夜8時から9時までが見頃だそうで、近くの山林ではヒメボタルの生息地もあるということです。
 

 
瑞巌寺だと誤解されがちな地蔵堂。熊本市指定名勝史跡に指定されているのは、あくまでも瑞巌寺「跡」であって、こちらの地蔵堂ではございません。
 

 
敷地内にある岩下小学校跡の石碑。1876年(明治9年)に設立された岩下小学校は、1881年(明治14年)に徳王小学校が合併して日新小学校となりました。そのあと、周辺の小学校と合併し、いまの熊本市立西里小学校となります。

有名な卒業生としては、熊本市市長を務めた幸山政史さんがいらっしゃいます。
 

 
裏山には階段があり、こちらを登っていくと、当時を偲ばせるさまざまな石造物を見ることができます。

瑞巌寺跡は、平成18年の熊本水遺産にも登録されているほか、「金峰山湧水群」の1つとして、名水百選にも指定されています。
 

 
端坐洞(たんざどう)。端坐とは礼儀正しく坐る、座禅という意味で、当時の僧などがこのお洞で座禅を組んで修行したと思われる。(熊本市設置の現地案内板より引用)
 

 
肥後国誌に「阿蘇大明神、瑞巌寺ノ懸崖ニアリ」とあり、崖面に陰刻された「阿蘇宮」などは神仏習合の名残と思われる。(熊本市設置の現地案内板より引用)
 

 
寺跡を思わせる建物の名残こそありませんが、石造だからこそこの時代まで残った当時の石造物を見てまわると、当時の僧たちがこの地で修行にいそしんでいた時代を想像させてくれますよ。

熊本城を間近で見られる空中回廊~熊本城特別見学通路 その2


熊本城特別見学通路 その1のつづき

熊本城の特別見学通路から見える、二様(によう)の石垣は、熊本城のみどころの1つ。勾配の緩いほうが加藤清正公の時代に築かれたものであり、勾配が急な手前側は、細川時代になって築かれたものです。

細川時代になって石垣積みの技術が向上し、より急勾配のものが作れるようになったということですね。時代の異なる石垣をならべて見ることができるのが、面白いところです。

隅部を見ると、手前の清正公時代のものは同じような大きさの石を重ねる「重ね積み」、奥側の細川時代は長方形の石を長いほうと短いほうを交互に重ねていく「算木積み」になっています。


本丸御殿建築の際に、細川時代に積み増されたというのが定説ですが、ここ最近になって、じつはどちらも加藤清正公による石垣では・・・?という新説も登場しました。

ここは熊本城と二様の石垣が、同時にフレームインできるということで、人気の撮影スポットだったのですが、特別見学通路からもバッチリ撮影可能ですよ。
 


崩落したままになっている、連続外枡形。

幾重にも折れ曲がって、防衛に有利な形状ということですが、これを地上6mの特別見学通路から見下ろせるというのがポイントです。

いままでは地上の高さ、すなわち攻撃側の視点でしか見ることができなかった連続外枡形を、6mの高さ、防御側の視点で見ることができるということなんです。
 


熊本城特別見学通路の終点。こちらから、本丸御殿横にのぼっていくことができます。
  


本丸御殿の近くにある井戸。加藤清正は朝鮮出兵のときに水の重要さを痛感したといわれ、熊本城には120余の井戸を掘ったそうです。そのなかで現存しているものは17基ほど。
 

 
現在、本丸御殿のなかに入ることはできませんが、その下の「闇り通路」(くらがりつうろ)を通ることができます。昼でも暗いので闇り通路と呼ぶわけですね。

本丸御殿は2つの石垣をまたぐ形で建っているため、地下空間を有する珍しい御殿建築物となっています。
 


闇り通路を抜けると、熊本城天守閣を目にすることができます。あたり一面を鉄板が覆い、おびただしい量の足場とクレーンが、深刻な現状をつきつけてくるようで、心が痛い感じがいたしますが・・・。

でも、熊本城復興もここまできたか!という前向きな気持ちがわきあがってきました。来年には天守閣にもはいることができる計画のようです。

 
城彩苑と熊本城の間は、無料のシャトルバスが運行されています。単に移動手段というだけでなく、バスであれば車両侵入禁止のところを車上から見てまわれるという意味でも、乗ってほしいですね。
 

熊本城を間近で見られる空中回廊~熊本城特別見学通路 その1

 
熊本地震以降、長らく熊本城は遠巻きに見るしか出来なくなりましたが、熊本城内に整備された特別見学通路がなかなかスゴい!というので、見学に伺いました。

熊本城に関しては、何度か記事で書かせていただいておりますので、よろしければ、熊本城の詳細については過去記事もあわせてご覧ください。

【関連】加藤神社から見える熊本城のいま

【関連】桜の馬場城彩苑近辺から見た、熊本城のいま
   

 
まずは二の丸公園内に設置されている券売所で、チケットを購入します。大人500円、子ども200円となっております。わくわく座・熊本博物館のチケットを兼ねたお得な共通入園券もありますよ!

公開時間は9時から17時までです。
 

 
二の丸公園駐車場から、徒歩で法華坂をあるき、特別見学通路に向かいました。歩きながら気づきましたが、これは城彩苑に駐めたほうが近いですね・・・。

熊本城は明治政府に対する士族反乱「神風連の変」の舞台ともなりましたので、神風連討入口や、神風連首領 太田黒伴雄奮戦之跡などもルート上にあるので、一緒に見てまわれます。

【関連】熊本城周辺の「神風連の変」史跡
   

 
道中、まずは未申櫓(ひつじさるやぐら)を見ることができます。未申は方角でいうと南西をあらわしますので、天守から見て南西の櫓ということで名付けられたようですね。

江戸中期以降には、「諸帳方」と呼ばれる藩の文書の保存や管理を行なうための部署が利用していたようです。
 

 
二の丸公園から5分ほど歩くと、見たことがない黒い建物があらわれました。こちらが特別見学通路の受付のようで、入園券を確認されました。

コロナウイルスがまだ落ち着いているとはいえませんので、当然ながらサーモグラフィーカメラによる体温チェックがなされているようでした。

入場・退場のゲートも、しっかり分離されています。ゲート付近はどうしても人の流れがよどみますから、感染予防対策がなされているのだと思います。 
 

 
この熊本城特別通路で驚くべきは、「地上6mもの高さで、熊本城を間近に観覧するための通路が作られた」ということなんです。

つまり、震災前にはむしろ見ることのできなかった視点で、熊本城を見ることができるのだということです。「震災前の完全な姿じゃないなら、見なくていい」、そう思っている人がいたとしたら、それは間違いだと言ってあげたいです。
 

 
入場ゲートから階段をのぼってまず見えるのが、奉行丸です。細川氏の時代に奉行所が置かれたことから、そう呼ばれるようになりました。明治時代には火薬庫が置かれていました。

現在は、熊本地震で崩落した石垣の、石置き場になっています。熊本地震では、石垣全体の約3割で修復が必要となりました。
  

 
熊本市の市政100周年を記念して復元された、数寄屋丸二階御広間。数寄屋丸とは、豊臣秀吉が築城した大阪城の「山里丸」の流れをひくものです。建物の基礎となる部分の石垣が抜け落ちています。

熊本城において茶会や能、連歌などが行われ、文化的施設として活用されていたと思われます。
 


その2に続きます。

西浦荒神社

 
荒神信仰をご存じでしょうか。激しい霊威・神威をもたらす「火」にまつわる神である火の神、竈(かまど)の神を荒神と呼び、家の守護神、作物の神として、古くから信仰されてきました。

加藤清正公が荒神様の熱心な信者であったとのことで、熊本城築城に際してお城の守り神として荒神様が祀られていたそうです。
  

 
そして、およそ300年前に細川綱利公が西浦の地に別荘を作ったさいに、別荘の鬼門にあたる場所に、方除神として熊本城から荒神様が移されたのが、今回ご紹介いたします西浦荒神社であると言われています。
    

 
この火の神・竈の神を祀る荒神信仰に、仏教・修験道の三寳荒神信仰が結びついたものが、台所など屋内で祭られる荒神信仰(三寳荒神信仰)となりました。これとは別に、屋外に祀られている荒神もあり、こちらは地域共同体で祀る「地荒神」というものです。
 

 
三寳荒神は、仏教において日本独自の信仰対象となっているもので、本来の仏典には根拠がありません。荒神の形成にはわからないことが多く、その成立にあっては、日本の土着信仰を核として、密教、道教、陰陽思想、陰陽道が複雑にからみあっているものと思われます。
 

 
熊本県の荒神信仰は、屋敷荒神と三月荒神がありますが、なかでも熊本県北部地域で信仰される三月荒神は、熊本の荒神信仰でもっとも特色があるものです。

これは、三月ごとにいらっしゃる方角を替える方位神としての性質を持ち、移転、新築、増改築、土木工事、開店等で、この荒神の方角に向かうと祟りがあると考えられています。
 

 
三月荒神は成立時期や祭神など不明点が多く、信仰を受けついだ神社によって考え方が異なっている部分が見受けられます。

たとえば、荒神の移動について、西浦荒神社は「旧暦の1月から東、4月から南、7月から西、10月から北」「三ヶ月間は同じ方角にとどまる」という考え方のもと、信仰なされています。

しかし、神社によっては、時計のように日々移動しつづけている(1年かけて全方位を1周する)とするところもあります。
 

 
新しく家を建てるときなどは、荒神様の方角を確認していただき、もし荒神様の方角に向かう方角にあたる場合などは、こちらの西浦荒神社へ参拝し、荒神様へのお断りのお祓いをしてもらうとよいかと思います。

肥州高野山・独鈷山稲荷神社

   
独鈷山とよばれるこの山、一般的には「 独鈷山霊園」のテレビCMで熊本県民にはよく知られていますね。こちらに、肥州高野山があります。
 

 
この山の名は、弘法大師が占いで投げた 独鈷杵 が、この山の松の木の 梢に飛来したことに由来しているそうです。(※諸説あります)
 

 
いただいた御朱印。コロナ渦中のため、こちらでもすでに書いてあるものを配布するという形式にかわっていました。
 

 
肥州高野山に隣接している、独鈷山稲荷神社。
 

 
檀家さんごとに小屋が建てられているようで、のぞいてみますと、遺影が飾られていたりします。ただ、ところどころ熊本地震で被害を受けている小屋もあるみたいでした。
 

 

来迎院で見られる松本喜三郎の生人形


松本喜三郎は、 文政八年(一八二五) に熊本の 井手ノ口町(現在の熊本市中央区迎町)に生まれた、当時、一斉を風靡した生(活)人形師(いきにんぎょうし) です。

生涯に数百体を作り上げたとされていますが、現存しているのは10点ほどにすぎません。そのうちの貴重な1体を保管・展示されている、来迎院に今回はお邪魔いたしました。


20代のころ、生きた人間と見紛うような、等身大の人形を作ったことから、生人形師と呼ばれるようになりました。現実の人間を再現するという、リアリズムあふれる作風で人気をはくし、 若き頃から地蔵祭りの「造りもの」で名を馳せ、やがて大阪難波新地や浅草奥山へと活動の場を移していきます。

そこで 「浮世見立四十八癖」、「西国三十三所観音霊験記」などの見世物興行で 、生きているかのような等身大の生人形で世間の人を驚かせました。
  


こちらが来迎院に保管されている「聖観世音菩薩像(しょうかんぜおんぼさつぞう)」です。1887年の作品とされており、高さは110cmあり、喜三郎の代表的な作品といえます。実物を前にすると、その生人形の精巧さ、瑞々しさに、目をみはることになります。

しかし、西洋のものがもてはやされる西洋崇拝の世相のなか、 しかも見世物細工となれば低俗なものだと見られてしまうこともあり、松本喜三郎の名は忘れ去られていくこととなりました。


なお、日本ではじめ義足を作ったのも、松本喜三郎であると言われています。歌舞伎役者の三代目田之助のために作ったものがそうなのですが、外観こそ完璧だったものの、適合が悪く使い物にはならず、それを恥じて代金は受け取らなかったと言われています。

彼は東京大学の前身である東校から、人体模型制作の依頼を受けたさい、そのあまりの見事な出来栄えに対し、「天物天真創業工」という賛辞が贈られたとされます。


御朱印をいただいているところです。こちらでは、写経・写仏カフェなるものも定期的に開催されておりますので、ご興味のあるかたは公式ホームページを訪れてみてくださいね。

①毎月第3土曜日 『写経カフェ×お抹茶』

②毎月不定期『写経カフェ』(毎月開催日が変わります)
*HP、SNS等で事前に告知いたします。10時〜18時(受付17時まで)


木造閻魔王坐像(天保4年・1833年)。来迎寺には、松本喜三郎の作品以外にも、歴史のある宝蔵品が多数保管されています。


来迎院は、熊本市春日の万日山の中腹にありますが、奈良時代に創建されたとされています。

もともとは法相宗で松山(西万日山)に奥の院を持つ三十六坊の大寺院で、山上に本堂があり、かつて僧房があった場所にこの来迎院が建っていると言われています。

フェアトレードや子どもサポート事業など、さまざまな社会貢献活動も行われていて、写経体験などもできる、開かれた活発なお寺さんですから、松本喜三郎の作品に会いに行くもよし、仏教体験に行くもよし。ぜひ訪問されてみてはいかがでしょうか。
 

六殿神社~釘無しの楼門

 
以前ご紹介させていただきました木原不動尊(長寿寺)と同じ雁回山(木原山) にある神社「六殿神社」

こちらにある楼門は、1907年に熊本県の建造物としては初めて国の重要文化財の指定を受けました。
 

 
この丹塗の入母屋造りの楼門は、天文18年(1549年)に名和顕忠が建立したと伝えられています。屋根は茅葺きとなっており、棟高は7.8mあります。

三間一戸楼門という形式の門であり、用いられている技術の高さは、 斗栱(ときょう)と呼ばれる組物からも見てとれます。(縁の腰組が二手先、上重が三手先となっており、軒を二軒本繁垂木としています。)
 

道の駅 不知火(しらぬひ)

  
松合白壁土蔵群を訪ねたさい、道の駅「不知火」にもたちよって、お昼ご飯をいただきました。ここにあるレストラン「 しらぬひ亭 」では、とんでもない大盛りの貝汁定食がありまして、これはちょっとよそでは見ないボリューム感です。
 

 
KABテレビの夕方ワイド番組「くまパワ」でも紹介されたことがあるようです。大盛りの貝汁にてんぷら、茶碗蒸しにお新香もついて1,000円なら安いと思います。
 


新型コロナウイルスの影響により、4月20日からしばらく休業されているようですので、訪ねる際にはホームページで状況確認をされたほうがよろしいかと思います。

  
ソフトクリームはふだん食べるほうではないですが、ご当地ソフトとなってくると、食べる機会がそうそうないかもしれないと思うと、つい食べてしまいますね。
 

  
不知火町はデコポン発祥の地となります。「デコポン」は 熊本県果実連のブランド名となり、品種名としては「シラヌヒ」となります。

「清見」と「ポンカン」の交配により作られた品種で、 日園連傘下の農業団体が出荷する糖度13度以上、酸度1度以下のもののみが 「デコポン」として出荷できるわけですね。
  

 
デコポンソフトクリーム!柑橘系のさわやかな香りがして、シャーベットみたいで冷たくておいしいです。

松合食品の工場見学のときも 丸大豆しょうゆソフトクリームを食べましたが、取材日が同日ですので、この日はソフトクリームを2個食べたことになります。
   

  
ロマンの湯「不知火温泉」。こちらも4月20日から臨時休業されていたかと思います。

なお、地名である「不知火」の由来は、景行天皇が不知火現象を目にした際、地元のものたちが誰もあの現象を説明できず、「知らぬ火」→「 不知火(しらぬい) 」と変遷していったと言われています。
 

 
デコポン発祥の地の碑。

天草方面へ行く際に通過することになる不知火町ですが、ここ1ヶ月のブログを見ていただくとおわかりのように、見どころが多くあります。熊本市方面から小旅行をされるなら、面白いタクシー観光プランを立てて差し上げられますので、どうぞお声がけくださいね。
 

松合白壁土蔵群


宇城市不知火町・松合地区は、”松合白壁土蔵群”と呼ばれる、かつての醸造と漁業で栄えたときの町並みが残されています。

なぜ白壁土蔵の建物が、この地区で多く見られるのでしょうか。

地形や建物の密集により、江戸時代に連続大火に見舞われたのです。大火後の街造りを主導した惣庄屋により、町筋の建築物は火災に強い土蔵・白壁のものへ改修されていったのです。道をひろげて防火道路( 火除道 )を作るなど、計画的な防災都市が形作られました。
  

過去の記録をひもといてみますと、このような記録が残っています。1826年~1854年にかけてが連続大火といわれるものです。仲区の薬師堂も火災焼失しています。

1781年   火災  1000戸焼失
1826年11月 火災   229戸焼失
1828年12月 火災   269戸焼失
1830年 4月 火災   335戸焼失
1834年   火災   38戸焼失
1854年 9月 火災   141戸焼失
  


松合地区は、江戸時代より宇土半島南浦の津として漁業で繁栄してきました。良質な湧水と温暖な気候に恵まれていたため、醸造業も盛んで、江戸時代には4軒の酒造家がありました。

酒造家は廻船(海運)や相物(海産物加工品)問屋も手がけて財をなしたそうです。
   


松合郷土資料館は新型コロナウイルスの影響で一時閉館となっていました・・・。緊急事態宣言前でしたが、いちはやく予防措置をとられたようです。また、あらためて訪れたいと思います。

※新型コロナウイルスの影響により、ここ2ヶ月間は取材を中止しております※
  

明治維新後などは出船入船千艘といわれ、天草や島原、五島や薩摩からも魚が水揚げされていましたが、鉄道三角線が開通し、際埼港(現在の三角港)が竣工したことによって、急激に衰退していきました。

また、もう1つの要の産業であった醸造業も、農地開放政策により衰退していくことになりました。
 

 
御船千鶴子生家跡も、この松合地区の一角にあります。千里眼の持ち主として知られる人物で、三井合名会社の依頼で大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱を発見しました。このときに得た謝礼は2万円、現在の貨幣価値でいうと約2000万円とのこと。

その場所を訪ねてみましたが、看板のある場所には駐車場が広がるのみで、説明文も何もありませんでしたので、よくわかりませんでした。
 

  
白壁土蔵の建造物は地元有志の努力により多く残されており、現在も店舗や住居として使用されていることから、手入れもされているようです。

今回は開いてませんでしたが、訪問時はまず松合郷土資料館 を訪ねてみられるといいと思います。