武蔵の引導石(むさしのいんどうせき)

img_6790

 

宮本武蔵は62歳でなくなるまでの5年間を、熊本で過ごしましたので、葬儀も熊本藩でとりおこなわれました。細川家より客分として招かれていたため、かなり盛大な葬儀だったと伝えられております。

 

img_6786

 

その葬儀の途中で、この引導石の上に棺をおき、泰勝寺の春山和尚が引導を渡したと言われています。(引導とは、死者が迷わず成仏できるように、僧侶が法語を与えること。つまり、死んだことをわからせる儀式のことです。)泰勝寺は、細川家の菩提寺として知られていて、残念ながら寺はもう残ってはいないのですが、この引導石のすぐ近くにある立田自然公園のなかに、その跡地があります。

 

img_6788

 

引導石を説明した木碑。単なる植え込みだと思って、知らずに通り過ぎてしまう人が多いのではないかと思います。

 

img_6793

 

 

このへんの黒髪四丁目のあたりは非常に道が狭く、バスの通行は困難となります。この道を通る必要がある史跡としては、立田自然公園やリデルライト記念館などがありますが、おそらくバスツアーなどでは飛ばされてしまうことかと思います。観光タクシーをご利用いただければ、歴史背景などを語りつつ、さまざまな史跡をご案内することができますよ!

 

img_6791

熊本市の地名「坪井」の由来~千躰仏報恩禅寺

img_6888

 

 

ローカルな話題になりますが…。熊本市には「坪井」(つぼい)という地名がありますが、実はこの由来になった、ある「もの」があるのです。今回はその「もの」があるという、千躰仏報恩禅寺(せんたいぶつほうおんぜんじ)を訪れました。

 

自由律俳句で有名な、種田山頭火(たねださんとうか)が出家得度し、禅修行したことで有名になった禅寺ですね。

 

img_6870

 

「けふも托鉢こゝもかしこも花さかり  耕畝」

 

全国に921箇所あるとされる、山頭火の句碑の1つがここにあります。耕畝(こうほ)とは、出家した際に改名した名前になります。本名は種田正一(たねだしょういち)。自由律俳句となりますので、季語もなければ句数の制約もありません。

 

img_6881

 

本堂の脇の道を通り、お墓のそばの路地を進むと…

 

img_6873

 

本日の目的である、「坪井(つぼい)」の由来となった井戸があります!熊本地震がありましたので、石塔や墓石などがあちこち倒れてしまっています。

 

img_6875

 

img_6879

 

これが坪井の地名の由来となった、「壷井」となります。加藤清正公が城下町つくりをした際に、境内の井戸が大きく、壷の形に似ているところから、この辺一帯を「壷井」となづけられたと言われています。(別名、雷封じの井戸といいます。かつての住職がここに雷を法力をもって封じたのだとか…)

 

img_6877

 

壷井の脇には、水神様も祀られていました。この壷井の水を飲むと病気が治ると言われて、重宝されていたようです。

 

img_6882

 

本堂も地震で被害を受けたようで、ビニールシートやベニヤ板で応急処置がしてあります。熊本市でよく見る風景ですが、工事業者待ちで、なかなか修繕が進んでいかないようですね…。

 

img_6885 img_6883

 

熊本の人を連れてくると、「坪井」に由来があったのかと驚いてもらえる場所です。全国的には種田山頭火由来の寺として有名なところですね。熊本は他にも種田山頭火ゆかりの地としては、熊本市植木の味取観音堂(1年間、堂守を勤めた)、熊本市横手の安国禅寺(分骨されたお墓がある)などがありますよ。

 

場所が細い路地にはいりこむ必要があり、駐車場も5~6台分しかないですので、ぜひ観光タクシーをご利用ください。きちんとした解説付きで、楽しい旅行中の貴重な時間を無駄にさせませんよ!

剣聖宮本武蔵旧居跡(千葉城跡)~武蔵使用の井戸

img_6916

 

 

熊本には、宮本武蔵ゆかりの史跡が多くあります。武蔵塚公園、霊巌洞(れいがんどう)、西の武蔵塚、立田(たつだ)自然公園…。その中でも、見過ごされがちな小さなスポットに目を向けてみたいと思い、今回は、熊本市中央区千葉城町にある、宮本武蔵旧居跡をご紹介いたします。

 

img_6915

 

細川忠利公より、客分として熊本に招かれた宮本武蔵は、千葉城跡の一角に建てられた屋敷に住んでいました。このとき57才。剣豪のイメージとは異なり、この屋敷では茶や禅、書画なども楽しんだとされています。このときの屋敷は既に残っておらず、その跡地に木碑が残されているのみです。

 

img_6919

 

旧居跡には熊本西年金事務所が建っております。地元のかたでも、この年金事務所の片隅が、実は宮本武蔵旧居跡だとは、あまり知られていないのではないかと思います。

 

img_6921

 

 

木碑を拡大したもの。宮本武蔵が肥後藩に招かれた経緯や、当時の状況が記されています。

 

img_6931

 

ここから、坪井川のほとりにある細い路地をたどっていくと、宮本武蔵が使用したとされる井戸跡があります。

 

img_6924

 

千葉城が建っていたとされる高台には、現在、NHK熊本放送局が建っています。NHKの駐車場の片隅に、その井戸はあります。

 

img_6926

 

これですね。案内看板がすっかり木で埋もれていました。危険なので鉄柵がなされております。

 

img_6929

 

井戸跡の看板拡大。

 

img_6923

 

井戸跡を引き気味に撮影したもの。なお、前述の通り、この場所は宮本武蔵の使用した井戸跡であると同時に、出田秀信が築城したとされる肥後千葉城跡でもあります。千葉城としての遺構は何も残されておりませんが、地名に多く千葉城の名が残っております。

 

ここからは宣伝となりますが…

 

img_6920

 

観光ガイドタクシーは、基本的にはお客様の組み立てたプランで、観光地を移動していきます。しかし、時間に余裕があると見れば、お客様のお好みやご要望に応じて、こういった見過ごされがちな観光スポットや史跡をご案内いたします。せっかくの滞在時間を有意義に過ごしてもらうためには、移動の小回りがきき、小さな史跡をさっと追加できる柔軟さがある観光タクシーにお任せいただければと考えております。

立田自然公園(泰勝寺跡地)

img_6860

 

今回は立田自然公園を訪問しました。こちらには、肥後藩主・細川家菩提寺であった、「泰勝寺」(たいしょうじ)跡地、細川家の墓地である四つ御廟(よつごびょう)、茶室・仰松軒(こうしょうけん)などがあります。

 

img_6809

 

観光ガイドは入園料は要らないのですけど、同行するカメラマンさんの分を支払うべく、チケット販売所に立ち寄りましたが、誰もいらっしゃらない。そうこうしていると、小学生の集団が、入園料も払わずにどんどん自然公園にはいっているではありませんか。戸惑っていると係員が来て、「いまはいろんな施設が被災しており、見れるところも少ないので、入園無料で開放しております。」とのこと。

 

img_6808

 

このように、見学範囲制限が設けられておりました。仰松軒や宮本武蔵墓所などを見ることができなくなっていますが、四つ御廟や、みごとな庭園を見ることはできるようになっています。

 

img_6812

 

入場門をくぐって、すぐに右手に池が見えてきますが、そこも外周にまわる通路が封鎖されていました。しかし、外からでも池を見ることはできるようになっています。

 

img_6817

 

石畳をあるいていきます。この先に、細川ガラシャなどの墓である、四つ御廟があります。

 

img_6815

 

ふと横に目をやると、門の瓦が落ちたのでしょう、熊本でよく屋根にかかっているビニールシートが被されていました。立ち入り禁止区間より先は、きっともっと酷いことになっているのだろうと思われます。

 

img_6820

 

ふと後ろをふりかえってみました。背の高い立木がそびえたつ、豊かな自然に囲まれた庭園を見るだけでも、ここに見にくる価値は大きいと思います。

 

img_6828

 

苔園(こけえん)。見事に苔が表土を覆っており、緑の自然のカーペットとなっています。

 

img_6822

 

四つの廟、と書かれた、四つ御廟について書かれた石碑。細川藤孝夫妻と、2代目細川忠興とその妻玉子(明智珠子、またの名を細川ガラシャ)がこの廟に祀られています。

 

img_6858

 

同じ高さの、同じ造りの平屋が、平等に同じ高さで4つ、横並びになっているのが、この四つ御廟の最大の特徴となっています。男女や立場の区別なく、平等に祀られていることが、この時代ではとても珍しいことだったのではないか、と思われます。

 

img_6839

 

細川忠興の妻、玉子は、洗礼を受けているため、洗礼名として「ガラシャ」の名があります。そのため、後世では「細川ガラシャ」と呼ばれるようになりました。なお、細川ガラシャは明智光秀の三女であったために、本能寺の変のあとは、幽閉されていた時期もあります。

 

img_6837

 

御廟の中は、このように五輪塔が安置されています。

 

img_6831

 

初代細川藤孝の墓所。

 

img_6841

 

宮本武蔵の墓もあるのですが、この先は行き止まりとなっていました。残念ですね。

 

img_6832

 

見れる場所は限られるとはいえ、主だったところは見て回れることから、訪れて損をすることはありません。なお、駐車場は広く30台くらいは入る大きな駐車場があります。バスも止まれる大きさかと思いますけれど、この辺は道幅が狭いためにバスの通行は難しく、観光タクシーであれば、入口手前まで乗せていくことができますよ!立ち入り禁止区間がありますが、はいれないところに関しては観光ガイドであるわたくしが補足説明をさせていただきますので、十分歴史ロマンに浸ることができると思います。

夏目漱石内坪井旧居

img_6912

 

新婚時代を熊本ですごした夏目漱石。この「内坪井(うちつぼい)」の家は、漱石が熊本で5番目に住んだ家で、住んだときの場所に、住んだままの姿で残されている貴重な史跡です。こういう旧居は、保存されていても、当時とは違う場所に移築されることが多いですからね。(漱石の第三旧居(大江旧居)は、ジェーンズ邸敷地内に移築されています。)

 

img_6907

 

 

この家で、夏目漱石と鏡子婦人のあいだに長女、筆子が生まれ、漱石は父親となりました。これは、筆子が生まれたときの産湯として使った井戸だそうです。

 

img_6908

 

現在、熊本地震で旧居自体は被災したため、このようにバリケードが敷かれており、庭園だけが解放されて、誰でも無料で見ることができるようになっております。いまの熊本県内には、このように被災したために一部のみ無料開放している施設が多くあります。なお、被災前は、漱石資料館にもなっておりました。

 

img_6914

 

資料館として使われていた洋館部分。こちらは漱石が住んでいた頃にはなかったと言われており、のちに住んだかたが増築したものだということです。

 

img_6900

 

残念ながら、漱石の住んだ家のなかを見ることは、いまはできないのですが、素晴らしい庭を見ることはできますし、句碑も設けられています。

 

img_6906

 

内坪井旧居は、普通車駐車場が5台ほどあるのみで、観光バスが止まることはできません。手前味噌となりますが、こういう旧居巡りには観光タクシーを使っていただいたほうが便利かもしれません。

 

この内坪井旧居の近くには、夏目漱石が熊本を見下ろし「森の都」と言ったとされる、「新坂(しんざか)」もあります。

 

 

img_6893

 

新坂の由来。当時は新しい坂だったのでしょうけど、いまは名前に残るのみで、熊本市民にとって新しくもなんともありませんが…。夏目漱石が「森の都」といったということで有名なところですね。

 

img_6894

 

ちなみに…。そのときの漱石が見下ろした風景がこちらとなります。

 

img_6895

 

熊本も開発が進み、森の都といわれた風景はもはや残ってはいませんが、この場所で漱石が熊本を見下ろしたとされる場所には、ご案内できますよ!このような細かい歴史スポットが熊本には無数に点在しておりますから、熊本の歴史や地理に詳しい、加来タクシーをなにとぞご指名くださいますよう、よろしくお願いします。

再春館製薬所の最後のイルミネーション

ドモホルンリンクルのテレビCMでおなじみ、再春館製薬所は熊本県益城町にあります。そこでは毎年恒例で、クリスマスイルミネーションが実施されておりまして、昨年(2015年)がサンクスイルミネーションが最後だったのです。そのときのイルミネーションの写真を見つけましたので、せっかくなのでアップしてみます。

 

cimg0633

 

再春館製薬所は熊本地震で最も大きな被害を受けた益城町に本社があるため、当然ながら、熊本地震では、工場の壁、コールセンターの天井、工場の保管商品等にはかつてないほどの被害を受けたのだそうです。4月28日(木)には通常体制に戻るまで、2週間ほど休業を余儀なくされたようです。

 

cimg0634

 

 

益城町はいまだ倒壊した家屋の多くがそのままであり、復旧の道のりは長い、と思っております。復旧が終わるまでに人々の記憶から風化していってしまうのではないか、ということが気がかりでなりません。益城町の現状を見ておくべきだと思われるときには、わたくしのような観光タクシードライバーにお任せくだされば、解説をつけて益城町を視察できるかと思います。

 

それでは、残りの写真もお楽しみください。

 

cimg0627

 

cimg0629

 

cimg0638

 

cimg0637

 

cimg0635 cimg0634

 

cimg0626

飯田丸五郎櫓の倒壊防止工事

cimg0793

 

熊本城の、大天守と小天守をならべて撮影したもの。地震で瓦が落ちてしまっている、熊本城の現在の姿です。

 

 

熊本地震後、熊本城は立ち入り禁止となってしまったため、大天守にあった、熊本博物館分室としてのさまざまな展示物も見ることができなくなっております。

 

 

この熊本城では、天守だけでなく、さまざまや櫓、塀、石垣も倒壊の被害にあいました。

飯田丸五郎櫓もその1つで、石垣は崩れてしまい、隅石1本で櫓を支えている状態でした。

 

 

そこで、熊本城近くを訪れたとき、たまたま見かけたのが飯田丸五郎櫓を取り囲む羽、緑色の巨大なアームでした。

cimg0786

この緑色のアームは、仮受構台といって、このアーム状の鉄骨で崩れかけた櫓が倒壊しないように支えているのです。詳しくは熊本城公式Facebookページで工事の様子が公開されていますので、そちらもぜひご参照ください。

 

 

熊本城復旧は難しい工事になると思いますが、熊本の宝をぜひ後世に残していただけるように、頑張っていただきたいと思っております。

 

 

ここからCMとなりますが・・・

 

 

熊本市内観光には、個人観光タクシー「加来(英)タクシー」(090-2852-1466)を、ぜひご利用くださいませ。

 

熊本城敷地内に立ち入ることはできませんが、熊本城を外から見ることは可能です。自然の猛威によって傷ついてはおりますが、あえて、いまの、この熊本城を見ておく意味もあるのではないかと思います。熊本城に付随する大型観光施設である「桜の馬場 城彩苑」は営業中ですから、ここでお土産を選ぶのも楽しいですよ。水前寺成趣園(水前寺公園)もすぐ近くですのでタクシーなら効果的にまわれると思います。

 

料金は、人数問わず1時間4,000円ですので、大人数での乗り合わせがお得ですよ!観光知識には、誰にも負けませんので、ベテランガイドをお探しであれば、ご用命くださいませ。ただし、パソコンやメールは苦手ですので(ブログもかわりに打ちこんでもらっています。)携帯電話(090-2852-1466)をに直接、お電話ください。

阿蘇神社と熊本地震

CIMG0065

ありし日の阿蘇神社の楼門(ろうもん)。7年前に撮影したものが、カメラに残っておりました。

 

平安時代に編纂された「延喜式」(えんぎしき)にも、【健磐龍命神社】(たけいわたつのみことじんじゃ)として、名前が登場するほどの歴史ある神社。2300年の歴史があるとのこと。

 

阿蘇神社の楼門といえば、日本三大楼門の1つ。楼門としては珍しい二重屋根タイプで、江戸末期(1849年)に建立されました。国の重要文化財に指定されています。

CIMG0742

この楼門を、熊本地震(2016年4月16日)のあととなる、6月16日に撮影したものがこちらです。地震で楼門が倒壊してしまっております。

 

4月16日に熊本県を襲った、マグニチュード7.3、最大震度7の大型地震は、阿蘇神社も大きく被害をうけることになりました。

 

楼門のほか、拝殿も倒壊し、三つの神殿も大きく損傷してしまっております。阿蘇神社の復旧には、工期10年、20億円もの費用がかかると言われており、重要文化財指定を受けていない拝殿に関しては、神社が自費で立て直さなければならないとか…。

CIMG0746

屋根が壊れているところには、ビニールシートが被せて応急処置が施されています。熊本県民としては、このような阿蘇神社の姿を見るのは忍びないです。阿蘇神社の1日も早い復旧を願っています。阿蘇神社では、復旧のための奉賛(募金)を募っておられますので、余力のあるかたはぜひ、阿蘇神社復興に力をお貸しくださいますよう、お願い致します。

 

熊本・阿蘇が立ち直るためにも、ぜひ阿蘇に遊びに来ていただきますよう、お願い致します。

 

ここからCMとなりますが・・・

 

阿蘇観光には、観光タクシー「加来(英)タクシー」(090-2852-1466)を、ぜひご利用ください!!

1時間4,000円ですので、大人数での乗り合わせがお得ですよ。観光知識には誰にも負けませんので、ベテランガイドをお探しであれば、ご用命くださいませ。ただし、パソコンやメールは苦手ですので(ブログもかわりに打ちこんでもらっています。)携帯電話に直接、お電話くださいね。

西南の役

植木町荻迫神社

 

CIMG0661 CIMG0660

 

西南戦争の弾痕

 

 

CIMG0667 CIMG0666 CIMG0665 CIMG0664 CIMG0663