敬神党五士自刃の遺跡

    
鳴岩(なりわ)の湧水を今年はじめにご紹介させていただきましたが、そのすぐ道向かいにありますのが、敬神党五士自刃乃遺跡(神風連五士自決の地)です。

神風連の変は、明治政府の欧化政策に反発する敬神党(熊本)が決起した士族反乱で、のちの西南戦争につづいていきます。神風連の変はなんどかこのブログでも取り上げておりますので、よろしければそちらも合わせてご覧ください。

◆熊本城周辺の「神風連の変」史跡

◆神風連資料館(桜山神社)
◆花岡山陸軍埋葬地~神風連の変
    

  
鳴岩の敬神党五士

明治九年十月三十一日の夕刻、再挙に望みをかける敬神党の五士は快く柿原の地にかくまってくれていた大矢野源水との協議の結果、再挙の見込みはないと判断し、鳴岩で潔く腹を切ることで合意すると鳴岩からほど近い大矢野宅にて、訣別の宴を開いてもらいます。

酒肴がふるまわれての訣別の席では、樹下一雄は丁重に食事を断り「切腹のときに食べたものが腹から出ては見苦しい」と申し上げれば楢崎楯雄は「では自分は立派に食い納めて見せよう」と食事するなど朗らかに各々が最後のときを過ごし、大矢野氏に厚く御礼を述べると敬神党五士はこの地に赴き、悠然と見事な自刃と遂げます。

宴のあとの夜空は五士の潔さを照らすように秋の月が誠に美しく、鳴岩からは岩の割れ目より鳴りて湧く、名水が流れていました。

現地案内看板より引用
    
敬神党五士と辞世の句

樹下一雄(二十五歳/神官/六嘉神社)

久方の 天に昇りて 今日よりは
神の御軍の 魁やせむ

若き子を けふ先立つる 父母の
心おもへば かなしきろかも

世の常の 手向けは受けじ 軍して
我が亡き魂を なくさめよ君

楢崎楯雄(二十六歳)

たらちねの 植えし小松も 年をえて
皇御国の 御楯とぞなる

我が魂は 天に昇りて 夷等を
攘う忠人の 身を守りなむ

椋梨武毎(二十六歳)

大丈夫が 心の内や いかならん
君の御為と おもふばかりに

国のため 君の御為と おもひしは
けふこのところ すてどころなり

織田寿治(二十歳)

梓弓 放つ矢さけび とどろきて
世にかぐはしき 名をや残さむ

井村波平(三十五歳)

なし

   
皇威無窮とは、すなわち「天皇の御威光は永遠に続く」、という意味になろうかと思います。

明治維新により鎌倉時代より続く封建時代が終わり、王政復古が行われ、天皇制となり、いにしえからの神道にもとづく政治がようやく行われるかと、彼らは期待していたのだろうと思います。

次第に欧米式に改められていく制度、失われていく日本文化を憂いて、あえて勝ち目のない刀や槍を持ち、近代式の小銃や大砲で武装した熊本鎮台を襲撃した事件です。はじめから勝利が目的ではなく、国体護持のためいかにして死ぬかということを考えていたようです。

後世、国を憂いて行動をした忠義を認められ、大正時代には名誉回復のための措置もとられました。国のため命をかけた若者たちがいたことを、けっして忘れてはいけないと思います。