峠の茶屋公園

 

「熊本の観光地を勧めるのもいいが、もっと食べものをアピールしたほうが女性受けがいいんじゃないか」、というアドバイスをいただきまして。それでは熊本名物の「だご汁」のうまいところはないかと思い当たったのが、峠の茶屋公園でした。

 

 

峠の茶屋公園は、熊本県道1号を熊本市方面から河内方面へ車を走らせ、本妙寺(加藤清正公を祀る浄池廟のあるところ)を過ぎて5kmほどのところにあります。ハイキングコース「草枕の道」の沿線上でもありますので、金峰山のふもとから、漱石の足取りをたどって訪れるのがいちばん正当派な楽しみ方なのでしょう。(足腰が丈夫であれば、ですが・・・)

 

 

 

「草枕の道」とは、夏目漱石が友人の山川信次郎とともに、天水町の小天温泉へと旅へ出かけたときに通った道のことです。この旅のときの話を元にして、夏目漱石は草枕を書いたといわれています。このときに鳥越峠(とりごえとうげ)と野出峠(のいでとうげ)を超えるのですが、このときに立ち寄った茶屋が草枕に登場しています。上の写真にもあります、「『おい』と声をかけたが返事がない・・・」という有名な一節が、それですね。

 

 

鳥越峠と野出峠には、当時はどちらにも茶屋が存在していました。そして、漱石が立ち寄ったのがいずれかは、わかりません。現在は、野出峠の茶屋はなく、この鳥越峠の茶屋が再建されて存在しています。(野出峠の茶屋のあったあたりは、展望公園として整備されています。)

 

 

峠の茶屋記念館。峠の茶屋を再現された、たいへん趣のある建物です。

 

 

峠の茶屋記念館では、昔ながらのかまどなど、煮炊きに使われた古道具、夏目漱石の写真や解説文などが展示されていました。奥には五右衛門風呂もあります。

 

 

再現された五右衛門風呂。

 

 

宮崎駿もここを訪れたということで、峠の茶屋公園の各所に、宮崎さんの色紙が飾られていました。

 

 

庇にわらじが下げられています。草枕に「五六足の草鞋が淋しそうに庇から吊され屈託気にぶらりぶらりと揺れる下に駄菓子の箱が三つ許り並んでそばに五厘銭と文久銭が散らばって居る」という一節があるため、その様子を再現したのでしょう。

 

 

室内にもわらじが下げられていました。火鉢のある民家など、いまはもう無くなってしまいましたね。

 

 

峠の茶屋記念館は、実際に茶屋があった場所より一段低いところに作られていまして、実際の峠の茶屋があった場所には、石碑と古井戸が残されているのみです。

 

 

峠の茶屋跡の石碑の文言。

 

 

さて、そろそろ「だご汁の話はどこ行った?」となりそうですので、本題のだご汁の話に戻ります。この日は日曜日ということで、20人は収容できそうなお店にもかかわらず満席で、10分ほど待たされたのち、中に通されました。ここのだご汁を食べたくてやってくるお客さんはとても多いみたいですね。

 

 

わたしはあわ飯だご汁セットを注文。同行したカメラスタッフさんはだけのこ飯だご汁セットを頼んでいました。

 

 

2人分のだご汁。だんごは歯ごたえがあってプリプリしてて、食感も楽しいおいしい逸品です。野菜もたっぷりはいっていて、味付けもしょうゆベースの素朴なもので、なつかしい感じがします。おばあちゃん家で食べたような、熊本の一般家庭のだご汁の味そのもの、といった感じです。

 

 

茶屋まんじゅう。スイートポテトを揚げたようなお菓子で、全体的にやわらかくて、イモの甘みが存分に味わえます。コーヒーとのセットで頼んでも300円ということですから、ちょっとお茶したいときにはオススメしたいです。

 

 

金峰山は熊本市中心部からとても近いところにありながら、都市部の喧噪から逃れられる癒しのスポットです。団体ツアーではまず立ち寄られないようなところを、タクシーでゆったりまわるのもよいかもしれませんよ。ぜひ熊本のおいしいものを食べながらあちこち巡ってみませんか?今回は紹介していないおいしいだご汁屋はまだありますよ!

徳富記念園(徳富記念館)

 

徳富記念園には、徳富兄弟にまつわる資料や遺品が納められた徳富記念館と、彼らが幼少期を過ごした旧居、大江義塾跡があります。徳富兄弟のうち、兄の「徳富蘇峰」はジャーナリストであり、歴史家でもありました。その弟の「徳富蘆花」は、小説『不如帰』で一世を風靡しました。

 

 

徳富兄弟は、父・一敬(かずたか)が熊本藩庁出仕のため、水俣から熊本に越してきたのですが、そのときに住んでいたのがこの旧居となります。熊本地震に見舞われたため、倒壊防止のために四面を鉄パイプによる支柱が建てられています。

 

 

かの「神風連の変」で熊本市街が炎上する様子を、この中二階の窓から、当時9歳だった蘆花が見ていたといいます。蘆花はその様子を「恐ろしき一夜」という文章に残しました。

 

 

「神風連の変」で敬神党に襲撃され、首をはねられた熊本鎮台司令長官、種田政明旧居跡は、この旧居から川をはさんで100mほどの地点にあります。

 

 

大江義塾跡の碑。同志社英学校を退学して熊本に戻ってきた蘇峰が、自宅内で開いた私塾で、徳富家が東京に転居する4年10ヶ月ほどの間まで存在していました。塾生は一時は100名を越えるほどだったといわれ、漢学、英学、史学、文章学などが教えられたということです。蘇峰の弟である徳富蘆花も学び、宮崎滔天などを輩出しました。

 

 

同志社英学校での師、新島襄(にいじまじょう)から贈られたとされるカタルパの木(二世)です。贈られた木自体は台風で倒壊してしまいましたが、二世、三世の木が園内で存在しています。大江義塾は明治16年の徴兵制改正のあおりで塾生が激減し、存続が危ぶまれる事態となりましたが、そのときに新島襄より贈られたのが、アメリカから取り寄せたというカタルパの種だったということです。その後、大江義塾はふたたび勢いを取り戻したということです。

 

 

蘇峰に大江義塾を開くように薦めたのも、新島襄だったということです。新島襄といえば、妻の新島八重をモチーフとした大河ドラマ「八重の桜」で有名になりましたね。新島襄は同志社英学校の創始者で、これはいまの同志社大学にあたる学校です。

 

 

地震の影響で、訪問した2016年12月時点では入館無料となっていました。いま現在がどうなっているかは、訪問前にご確認ください。館内の撮影は館長さんよりNGということでした。

 

 

倒壊の危機にある旧居以外は、通常通り、記念館内部は見て回ることができます。徳富兄弟ゆかりの地めぐりなど、歴史知識豊富だからこそできる熊本の観光ガイドはぜひ、加来タクシーにお任せください。

小泉八雲熊本旧居

 

小泉八雲(こいずみやくも)、別名をパトリック・ラフカディオ・ハーンといいます。「耳なし芳一」、「雪女」、「むじな」といった怪談をテーマにした作品で有名になりました。彼が出雲から第五高等中学校(いまの熊本大学)講師として熊本に赴任し、はじめに住んだところが、この旧居となります。熊本時代の最初の1年をこの旧居で過ごしました。

 

 

訪問した昨年12月当時、熊本地震により建物の一部が立ち入り禁止となっておりましたが、施設の半分ほどは見ることができました。熊本地震では歴史のある建築物が軒並み倒壊してしまいましたが、幸運にもこの小泉八雲熊本旧居は倒壊に至ることはありませんでした。古い木造家屋でありながら、倒壊をまぬがれた理由としては、館長さんによると、このへんは地盤が強固だからではないか、ということでした。

 

現在はどうかわかりませんが、訪問当時地震により一部のみ公開となっていたため、入館料は無料となっていました。

 

 

玄関前のハーンの肖像の横で写真撮影。

 

ハーンは左向きの写真が多いのですが、それには理由があって、16歳の頃、イギリスの寄宿舎での遊戯中にロープが左目に当たり、それ以来隻眼となり、左目と右目で色が異なるようになりました。それを気にして、写真を撮影するときには必ず左を向き、左目が写らないようにしていたそうです。集合写真でみなが正面を向いているのに、ハーンだけ左を向いている写真もあるほどです。

 

 

奥の部屋には行けないようになっていることがわかるかと思います。地震の影響により、奥は立ち入り禁止となっていました。

 

ハーンは日本国籍を取得し、日本を題材にした文学を著し、日本名「小泉八雲」と名乗るほどですから、相当な日本好きと思われていますが、実は熊本に来たのちは、日本に幻滅してしまったということです。

 

 

ハーンが来熊した当時、熊本は西南戦争からの復興期であり、急速に文明開化(近代化)の動きが熊本で進んでいたのです。当時は熊本は九州の中心的存在でしたし、またワサモン好き(=新しいもの好き)の県民性もあいまって、西洋かぶれの風習や建築物、服装などが広まり、ハーンが愛した「古きよき日本」の姿は急速に失われていったのだろうと思います。

 

松江時代の友人にあてた手紙には、熊本嫌いの理由として「近代化されて、あまりに大きすぎ、寺院や僧侶や珍しい習慣がない」「文学的題材を得ることができない」といった理由をあげたそうです。

 

 

世界津波の日が第70回国連総会本会議(平成27年12月22日)で11月5日と決められました。この日が何をもとに決められたかというと、安政南海地震が発生した1854年11月5日にちなんだものとなります。そして、なぜ安政南海地震の日が世界津波の日に選ばれたかというと、ハーンの著作「A Living God」がかかわってきます。

 

「A Living God」では、大地震により津波がおしよせてくることを察したある村人が、収穫したばかりの稲むらに火をはなつことで、早期避難をうながした事例を紹介しました。この逸話は、日本では中井常蔵がハーンの原文を翻訳編集した「稲むらの火」(いなむらのひ)という作品として知られています。(戦前の国語教科書にも載っていたということです。)

 

「A Living God」が防災啓発の教材として、アメリカの小学校で副読本として採用されたりしていたり、いろんな言語に翻訳されて各国の防災教材として大いに活用されているために、この話のもととなった安政南海地震の日を世界津波の日と決めたということです。

 

 

小泉八雲熊本旧居も、当時のレイアウトがすべて残されているというわけではなく、度重なる災害などを受けて、残った部分が公開されているとのこと。

 

 

最後に、館長さんといっしょに写真を撮影していただきました。

夏目漱石旧居(旧大江村、第3の家)

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小説「草枕」では、漱石の小天温泉(おあまおんせん)への旅行がテーマになったとされていますが・・・。

 

それがここ!第三旧居から出発されたと言われています。

 

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この第三旧居は、旧大江村にあったものを、昭和47年にここ、水前寺動物園跡地に移築したものとなります。熊本市では、内坪井の第五旧居を夏目漱石記念館として位置づけていたために、第三旧居は長らく公開されることがありませんでした。管理人を配置するのにも予算がかかるのですから、仕方のないことだと思われます。

 

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第五旧居(内坪井旧居)が熊本地震で被災して、内部公開ができなくなったため、急遽、熊本市はこの第三旧居(大江旧居)に管理人をたてて、一般公開することにしたようです。夏目漱石生誕150年という節目にあたる今年にこの第三旧居をみることができるというのは、すばらしいことだと思います。(ちなみに去年が没後100年でした。)

 

大江旧居の庭先で、漱石先生を囲んで集合写真を撮影したものが残っていますが、それを撮影したのが、この廊下です。当時はもちろん、このガラス窓はなく、雨戸があるのみでした。(当時、国産のガラスなどありませんでした。)

 

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この写真ですね。左から2番目が夏目漱石です。いろんな漱石先生の写真が展示されていましたが、ご友人さんが撮影したとされる、漱石先生が寝っ転がっている写真なんかもありましたよ!

 

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解説パネルが展示されていて、夏目漱石の足取りをたどることができます。おそらくは被災した第五旧居から持ってきたのだろうな~と思うと、複雑な思いです・・・。

 

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当然ながら鴨居がとても低いですので、身長の高いかたは気をつけてくださいね!わたくしの身長もけっして高いほうではないですが、ぶつかるスレスレです。明治時代の日本人の平均身長が155cmくらいということですので、これくらいでも大丈夫だったのでしょう。夏目漱石は身長159cmだということですよ。

 

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外観。さきほどの漱石先生が集合写真を撮った場所ですね。

 

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入り口。左手は駐車場になっています。

 

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すくなくとも、第五旧居の復旧までは公開されているとのことでした。ただし、第五旧居の復旧後に、この第三旧居が公開されたままになるのか、ふたたび公開中止となるのかはそのときの熊本市の判断になりますので、わかりません。ご覧になりたいかたは、なるべく急がれた方がよろしいかと思いますよ。

 

【熊本市/経済観光局 文化・スポーツ交流部 文化振興課】 夏目漱石大江旧居(第3旧居)を公開しています!

https://www.city.kumamoto.jp/hpKiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=12987&class_set_id=2&class_id=186

後藤是山(ごとうぜざん)記念館

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後藤是山(ごとうぜざん)と聞いても、地元・熊本の人ですら、なかなか名前を知る人が少ないのではないかと思います。九州日日新聞社(現・熊本日日新聞社)のジャーナリストとして、熊本の文化的発展に寄与した人物となります。文化人・ジャーナリストとしてだけでなく、俳人、郷土史家としても功績を残しています。

 

まだ郷土史がほとんど手付かずであった当時、「肥後国誌」「肥後の勤王」といった、熊本の郷土史を学ぶ上で必読書といわれる著書を書きあげました。

 

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熊本地震により、資料館の周囲には足場が組まれていて、補修工事が行われている最中でした。

 

ここでは与謝野鉄幹・晶子夫妻の短冊など、新聞記者として後藤是山と交流があった著名人たちの、貴重なものが多く収蔵されております。「熊本に記念館があっても、肝心の収蔵品がレプリカばかりで、現物は東京などの美術館などにある」というパターンが多いものですが、こちらにはレプリカでない現物を多く見ることができました。

 

収蔵品としては、著名人からの手紙などもありますが、その差出人を見れば、与謝野鉄幹・晶子夫妻をはじめ、堅山南風、中村汀女、徳富蘇峰、徳富蘆花、安達謙蔵、朝倉文夫、若山牧水といった著名人が多く見られ、当時の交友関係の広さが伺い知れます。その他、写真、原稿、蔵書、古文書、短冊、掛け軸などが収蔵されておりました。

 

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入場料も200円ととても安くはいれて、よいものが見れるので、あまり知られていないのが残念でならないのですが…。なお、駐車場が2台分しかないので、ご注意ください。

 

後藤是山は、九州日日新聞社に記者として配属された翌年、東京の国民新聞社に留学し、徳富蘇峰(とくとみそほう)から直接指導を受け、東京の文化人たちから多くの感銘を受けたといいます。熊本に戻って復職したのちは、その経験を活かし、東京の著名な画家や俳人、歌人などを積極的に紙面に登場させるなどし、おおいに紙面を充実させ、熊本の人を驚かせました。

 

いまでは当たり前の紙面構成のように思えるかもしれませんが、当時の新聞というのは、「政治と経済、三面記事」で構成される、政党新聞の特色が見えるもので、俳句などの文学を紙面に載せるなどは軟弱だと思われるような時代だったのです。

 

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なお、実は後藤是山は大分県の久住町の生まれなのですが、実は久住町は江戸時代までは細川藩の領地(飛び地)だったところなのです。そのため、後藤是山は熊本人という意識を持っていたといわれていますね。

 

記念館の外観は、そこまで深刻なダメージを受けているようには見えませんでしたので、再開はそこまでかからないのではないかと思いますが…。再開を心待ちにすることとしましょう。後藤是山を知らなかった人は、これを機に覚えてくだされば…と思います。

 

※2/4 追記

2017年2月1日より、平常どおりの開館となったということです。

http://www.k-yokatoko.com/main/119.html

 

横井小楠記念館、四時軒(しじけん)、小楠公園

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幕末~明治初期にかけての肥後藩の思想家・政治家、横井小楠(よこいしょうなん)。

 

歴史ドラマなどで名前が出ることのない人物ですが、明治政府では参与として指南役をつとめており、岩倉具視(いわくらともみ)は、参与のなかでも小楠を特に頼りにしていたそうです。また、その先進的な思想は、当時の英傑へと与えた思想的影響は大きなもので、坂本龍馬、勝海舟、吉田松陰らも彼を尊敬していたといいいます。熊本市東区沼山津(ぬやまづ)には、横井小楠旧居である四時軒(しじけん)をはじめ、横井小楠記念館、遺髪を収めた小楠公園などが立地しております。

 

「おれは、今まで天下で恐ろしいものを二人みた。それは横井小楠と西郷南州だ。」(勝海舟「氷川清話」より)

 

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熊本地震の爪痕は、ここにも色濃くでておりまして…。いや、横井小楠がらみのものに限らず、熊本市の史跡の多くが同じ状況にあるのですが、現段階では見ることができるものが、ほとんどない状態です。

 

まずは、横井小楠旧居、四時軒を見てみましょう。ここは、坂本龍馬が横井小楠に会うために、三度訪れたと言われています。

 

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倒壊しております。四時軒とは、四季の眺めを楽しむところから名付けられており、当時としては珍しいギヤマン障子(=ガラスのはめこまれた障子)が使われていたりして、冬でも障子を開けることなく外の眺めを楽しむことができたりしたようですが…。

 

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斜めに傾いた建屋。奥に見えるのは横井小楠記念館となりますが、こちらも閉館中の札がかかっていました。記念館のほうは、建物自体は問題ないように見えますが…。

 

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四時軒は、秋津川のほとりにありますが、秋津川沿いには重しが延々と置かれており、川沿いの道路の、地震による崩壊を防いでいるのかと思われます。これのせいで道路も少し狭くなってしまってます。

 

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小楠公園も四時軒の近くになりますが、これも似たような状況であり、倒壊した設備にはビニールがかけられていて、横井小楠の銅像も見ることはできません。

 

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小楠公園は、純粋に子どもたちが遊ぶための公園としては使えるようにしてありますが、現段階では史跡としての小楠公園の姿を見ることができません。工事業者さんが入っておられたので、時期がたてばまた小楠先生の銅像も見ることができるのではないかと思っております。そのときには、またここでご紹介できればいいと思います。

足手荒神(あしてこうじん)・甲斐神社

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奉納された手形・足形。本殿が被災したため、テントで拝殿が作られています。

 

足手荒神は熊本を中心として、福岡、大分などで信仰されている、手足の神様のことです。手足の病気や怪我の治癒・回復を祈願するもので、神様に手形・足形などを奉納します。

 

特にこちらの甲斐神社は、足手荒神信仰の総本山と言われているもので、九州各地に分社が存在しています。

 

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甲斐神社の祭神は、甲斐宗立(かいそうりゅう)公と、その父、甲斐早雲(かいそううん)公をはじめとした甲斐一族となります。そのなかでも足手荒神とされているのが、甲斐宗立公です。肥後国人一揆で破れた御船城主であった彼は、この嘉島町上六嘉に落ち延び、里人より手厚い手足の治療を受けたとのことです。これにいたく感銘をうけた甲斐宗立公は、その後、以下の言葉を残して亡くなったとされています。

 

魂魄この世に留まり子々孫々を見守り、手足に苦しむ者を救いやるであろう

 

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手形足形授与所

 

 

こちらに筆記具が用意されていますので、授与された手形・足形に住所、氏名、年齢、願い事を書き、手形・足形で手足をさすり、拝殿に納めることとなります。

 

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実際に拝殿に積み上げられた手形・足形。崩れんばかりに積み上がっています。それだけ、手足の病に悩み、甲斐神社の御利益を受けたいという人が多いということなのだろうと思います。

 

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板状のものだけでなく、このように立体的な彫刻を施された手足もありましたが、これは奉納されるものではないようですね。

 

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この甲斐神社も、熊本地震により被災したため、寄付を募って再建を目指しているとのことです。崩壊した拝殿の写真がとても痛ましいです。

 

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甲斐神社の由来。ことのはじまり、甲斐宗立が手足を怪我をする原因となった、肥後国衆一揆のことを丁寧に解説されています。豊臣秀吉による九州征伐後、肥後藩主となった佐々成政が、着任早々に太閤検地をはじめたことが、国衆(国人)の反乱を招いたとされていますね。その当時の肥後藩は国衆の力がとても強く、難治の国とされていました。秀吉はそのことを知っていたので、成政には「三年は検地はするな」と言っていたそうですが…。

 

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手水場

 

スポーツ選手なども訪れるそうですよ。手足に不安を抱える方は、手形足形を奉納されてみてはいかがでしょうか。

 

嘉島町湧水公園天然プール

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まったく冬場にする話題ではないですが…。先週の浮島神社を取材したときに、その近くにある嘉島湧水プールも訪れましたので、ご紹介します。

 

ここはですね、なんと!湧水地を仕切って、天然のプールにしてしまった…という、全国的に見ても珍しいものです。かつて学校にプールがなかった時代には、ここで水泳の大会なども行われました。ここで練習して、オリンピック銅メダル選手(田中聡子選手)も産んだといわれています。

 

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湧水地を木材で区切っただけのプールですから、魚もふつうに泳いでいますし、水温は年間をとおして18度くらいだそうで、夏場でもちょっと冷たいですね。当然のことながら、冬なので誰もはいっている人はおりませんでした。お子さんがいらっしゃる方は、こういう自然のプールで子どもを遊ばせると、きっと喜ぶと思いますよ!

 

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底には砂利が敷き詰めてあり、きちんとライン引きされている25mプールです。利用料金は無料ですが、夏場は駐車場利用料だけが500円取られるということです。営業時間は10時~18時。

 

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プール手前は別に区切ってあり、地元の方が生活用水として使うために立ち入り禁止になっています。

 

こちらの湧水は、「浮島・六嘉湧水群」として、平成の名水百選にも指定されています。先週紹介した、浮島神社の「神の池」も、このくくりですね。

 

 

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オフシーズンのため見あたりませんでしたが、貸し出し浮き輪・軽食・トイレ・更衣室もあるそうです。熊本震災直後の昨夏は、どこのプールも使用不可になっておりましたので、この天然プールの存在は貴重だったのではないかと思いますよ。ぜひ訪れてみてくださいね!

浮島熊野坐神社(水郷・浮島さん)

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新年あけましておめでとうございます。今年も加来タクシーをよろしくお引き立ていただきますよう、よろしくお願いします。

 

新年1回目は、初詣の時期ですし、風光明媚な浮島神社のご紹介をいたします。特長である神社を取り囲む「神の池」は、川から流れ込んだ水でできているのではなく、湧水として自然に沸き上がったものになります。名水百選や、水の郷百選にも選ばれており、湧水量15万トン(/日)、池面積6,000坪の広大な池で、これだけでも見応えがありますよ!水もとても澄んでいて、魚も見えるほど。

 

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正式名称は「浮島熊野座(うきしまくまのます)神社」といいますが、なぜ「浮島さん」というのか?

 

それは、この写真を見ていただければ一目瞭然かと思います!周囲を湖で囲まれており、まるで湖面に浮かんでいるような姿から名付けられたんですね。ホームページも通称の「浮島神社」表記になっています。

 

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今年も無事故で、商売繁盛になりますように。

 

主祭神は「イザナギの尊・イザナミの尊」の夫婦神。創建が長保3年(西暦1001年)といいますから、なんと1000年以上の歴史を持ちます。また、こちらの宮司さんは自転車歴20年というほどの自転車好きのため、自転車のお守りなどがあることでも知られています。(ホームページでは、人気自転車漫画「弱虫ペダル」のサイン色紙の画像も掲載されています。)自転車乗りの聖地と言う人もいますね。

 

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敷地も広大で、湖もきれいで、心もとても落ち着く場所です。マイナスイオンが満ちているのでしょうか、疲れているときなどに来ると、不思議ととても心が安まって、よろしいかもしれませんね。湖を見渡せる場所には、ベンチも用意してあります。

 

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水面には、水鳥もたくさん。

 

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毎年1月7日の七草がゆの日には、おかゆの振る舞いが行われているのですが、今年は臨時駐車場の確保が難しいことなどから(震災の瓦礫置き場になっているとのこと)、中止がアナウンスされております。まだまだ、熊本は地震の爪痕が残されているようです。地震に負けないよう、加来タクシーほか、われわれ地元の業者が頑張って地元を盛り上げていきますので、みなさん応援よろしくお願いいたします。

ゴッホひまわり園

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熊本地震で被災したサントリーのビール工場が、ようやく再開したという話がありましたね!忘年会シーズンになんとか間にあったようで、よかったです。じつは先月、嘉島町に伺ったときには、まだ工場は閉鎖されており、見学もできなかったんですよね…。まだ工場見学はできないようですけど、そのうち再開されることを期待しましょう。

 

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さて、嘉島町にはゴッホひまわり園というのがありまして、それはそれは見事なひまわりが咲くのですが、これが一風変わっていまして、なんと秋に咲くというのです。訪れたときには、まだ11月上旬でしたけれど、満開に咲き誇っています!

 

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嘉島町鯰に住む自営業、中島憲行さんが21年前から育てはじめたということです。この日は天気もよかったので、観光客がちらほらと訪れておりました。特に入園料などは取られておらず、自由に観覧することができます。

 

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かつては6万本ということだったのですが、熊本地震の影響もあってか、今年は4万本ということでした。それでも見事なこととその美しさはかわらず、訪れた人の目を楽しませてくれました。

 

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今年は咲き始めたのが10月26日頃だとのことでした。嘉島町は地震の被害も大きかったところになりますが、このような花畑の存在は大きな癒しになると思います。続けてくださっている中島さんには感謝しなければなりません。

 

 

今年は加来タクシーのホームページをご覧いただきまして、ありがとうございました。1週間に1本程度ずつですが、これからも熊本の面白いところ、見逃されがちなところを紹介していきたいと思っております。今後ともよろしくお願い致します。