小泉八雲熊本旧居

 

小泉八雲(こいずみやくも)、別名をパトリック・ラフカディオ・ハーンといいます。「耳なし芳一」、「雪女」、「むじな」といった怪談をテーマにした作品で有名になりました。彼が出雲から第五高等中学校(いまの熊本大学)講師として熊本に赴任し、はじめに住んだところが、この旧居となります。熊本時代の最初の1年をこの旧居で過ごしました。

 

 

訪問した昨年12月当時、熊本地震により建物の一部が立ち入り禁止となっておりましたが、施設の半分ほどは見ることができました。熊本地震では歴史のある建築物が軒並み倒壊してしまいましたが、幸運にもこの小泉八雲熊本旧居は倒壊に至ることはありませんでした。古い木造家屋でありながら、倒壊をまぬがれた理由としては、館長さんによると、このへんは地盤が強固だからではないか、ということでした。

 

現在はどうかわかりませんが、訪問当時地震により一部のみ公開となっていたため、入館料は無料となっていました。

 

 

玄関前のハーンの肖像の横で写真撮影。

 

ハーンは左向きの写真が多いのですが、それには理由があって、16歳の頃、イギリスの寄宿舎での遊戯中にロープが左目に当たり、それ以来隻眼となり、左目と右目で色が異なるようになりました。それを気にして、写真を撮影するときには必ず左を向き、左目が写らないようにしていたそうです。集合写真でみなが正面を向いているのに、ハーンだけ左を向いている写真もあるほどです。

 

 

奥の部屋には行けないようになっていることがわかるかと思います。地震の影響により、奥は立ち入り禁止となっていました。

 

ハーンは日本国籍を取得し、日本を題材にした文学を著し、日本名「小泉八雲」と名乗るほどですから、相当な日本好きと思われていますが、実は熊本に来たのちは、日本に幻滅してしまったということです。

 

 

ハーンが来熊した当時、熊本は西南戦争からの復興期であり、急速に文明開化(近代化)の動きが熊本で進んでいたのです。当時は熊本は九州の中心的存在でしたし、またワサモン好き(=新しいもの好き)の県民性もあいまって、西洋かぶれの風習や建築物、服装などが広まり、ハーンが愛した「古きよき日本」の姿は急速に失われていったのだろうと思います。

 

松江時代の友人にあてた手紙には、熊本嫌いの理由として「近代化されて、あまりに大きすぎ、寺院や僧侶や珍しい習慣がない」「文学的題材を得ることができない」といった理由をあげたそうです。

 

 

世界津波の日が第70回国連総会本会議(平成27年12月22日)で11月5日と決められました。この日が何をもとに決められたかというと、安政南海地震が発生した1854年11月5日にちなんだものとなります。そして、なぜ安政南海地震の日が世界津波の日に選ばれたかというと、ハーンの著作「A Living God」がかかわってきます。

 

「A Living God」では、大地震により津波がおしよせてくることを察したある村人が、収穫したばかりの稲むらに火をはなつことで、早期避難をうながした事例を紹介しました。この逸話は、日本では中井常蔵がハーンの原文を翻訳編集した「稲むらの火」(いなむらのひ)という作品として知られています。(戦前の国語教科書にも載っていたということです。)

 

「A Living God」が防災啓発の教材として、アメリカの小学校で副読本として採用されたりしていたり、いろんな言語に翻訳されて各国の防災教材として大いに活用されているために、この話のもととなった安政南海地震の日を世界津波の日と決めたということです。

 

 

小泉八雲熊本旧居も、当時のレイアウトがすべて残されているというわけではなく、度重なる災害などを受けて、残った部分が公開されているとのこと。

 

 

最後に、館長さんといっしょに写真を撮影していただきました。