細川忠利公火葬場跡~阿部一族

 

かの細川忠利公を荼毘に付したとされる、熊本市西区春日の「岫雲院」(しゅううんいん)。1071年創建といいますから、実に1000年もの歴史を誇る由緒正しいお寺です。

 

ただし、春日に古くから在住のかたはご存じかもしれませんが、近年は荒れ果てる一方で、廃墟としか表現のしようのない荒廃ぶりでした。(当時の写真を撮っておけばよかった・・・)ところが、熊本駅新幹線口の区画整理の際に、岫雲院は綺麗に再建されていました!

 

 

岫雲院の一角にある、この石垣に囲まれたエリアは、細川忠利公火葬場跡として、市指定史跡になっています。

 

肥後細川藩初代 細川忠利公火葬場跡

ここに四面を石垣で築いた区画の中に、大小の石塊を積み上げ、その中央頂点に「妙解院殿前越州太守羽林雲五公居市神儀」と彫った石碑が建てられている。岫雲院という名は忠利の命名によると伝えられ、また忠利が生前に、自分が死んだらこの寺で火葬してくれと遺言していたため、寛永十八年三月にその遺骨を荼毘に伏した。そのとき忠利愛育の鷹二羽も同時に殉死したと伝えている。

 

 

火葬場跡に建てられた石碑。下の方で真っ二つに割れてしまっています。

 

 

細川忠利公火葬場跡を、少し引いたアングルから撮影したものがこちら。熊本震災の影響か、石が崩れています。

 

 

火葬場の正面階段がこちらですが、現在は駐車場になっていて、なんとこの階段を使って下に降りることができなくなっています・・・。あとからできた駐車場によって塞がれた恰好なのでしょうが、なんというか、残念なことになっていますね・・・。

 

 

こちらは、忠利公がなくなった際に、飼っていた鷹が殉死したとされる井戸。いまでは立派な屋根がついているので、これでは鷹が飛び込み自殺しようにもできないような気がします。

 

岫雲院春日寺
寛永年九年(1632年)に肥後の国主となった細川忠利は春日寺を再興して岫雲院の名を与えたので、以後は岫雲院が正式の名称となった。

忠利の死後、遺言によって遺骸をこの寺で荼毘に付したが、そのとき解き放たれた愛養の二羽の鷹のうち、「有明」は火葬の焔の中に飛び込み、「明石」は傍の井戸の中に飛び込んでともに殉死したという哀れな物語が伝えられている。

森鴎外の「阿部一族」で知られている忠利の殉死者十九名の位牌もこの寺に安置されている。

平成二十八年 熊本市観光政策課

 

 

細川忠利公が亡くなったあとは、19人が追い腹を切って殉死しました。その方々の位牌もこちらのお寺に安置されているとのことです(お墓は妙解寺跡、いまの北岡自然公園にあります)。

 

細川忠利公の殉死にまつわる話としては、「阿部一族」という森鴎外の小説が思い出されますね。忠利公に殉死を許されなかった阿部氏が、他の家臣が次々追い腹を切っていくなか、殉死せずにいままで通り奉公しつづけたことで周囲に責められたので、追い腹を切ったところ、「殉死まかりならぬ」との主君の命にそむいたとみなされて家格を下げられてしまい、ついには藩からの討伐隊に阿部一族が皆殺しにされるという、悲しいお話でした。

 

※もっとも、阿部一族はあくまで創作ですので、史実とは異なる部分もあるようです。記録では阿部氏は他の殉死者と同じ日に亡くなっているようですし、そもそも殉死の許可を出すのは、亡くなった主君ではなく、それを継ぐ新主君が行うことであり、つまりこのときは忠利を継いだ細川光尚が行うことだということです。そして、殉死者全員に「殉死まかりならぬ」という命が下っていたということでした。

補陀落渡海供養塔附石塔群~生きては戻れぬ捨て身行

 

補陀落渡海(ふだらくとかい)という捨て身行があることを、ご存じでしょうか。

 

観音菩薩の住処があるという南方の海の果て、「補陀落世界」を目指して、行者が、帆や艪(ろ)といった動力をなにも持たない木船に乗り込み、船出をするというものです。

 

船出といっても、沖まで曳航して切り離し、あとは海を漂うだけですので、生きて帰ることはありませんでした。

 

 

この、補陀落渡海での航海の安全と、大願成就を祈願した石碑が、玉名市繋根木(はねぎ)の稲荷神社(繁根木八幡宮)にあります。つまり、玉名市を出発地として行われた補陀落渡海があったというわけですね。この石碑は西光坊が施主となって建立されたという記録が残っています。

 

肥後藩からの補陀落渡海は2例記録に残っており、ここ繁根木八幡宮のほか、もう1つは玉名市伊倉北方の報恩寺跡にもそのような石碑があるそうです(県指定重要文化財)。

 

 

写真の右側の石板が、補陀落渡海碑です。石碑の表面には、日、月、中央に阿弥陀、観音、勢至の阿弥陀三尊の線刻と、刻文があります。表面が風雨に削られ、わかりづらいと思いますので拡大してみましたが、それでもかなり分かりづらいですね。

 

なお、阿弥陀三尊の簡単な見分け方ですが、真ん中におわすのが阿弥陀菩薩、髻(もとどり)の正面に阿弥陀の化仏がおわすのが観音菩薩、髻の正面に水瓶があるのが勢至菩薩です。注意深く見分けてみてください。

 

 

玉名市指定重要文化財

補陀落渡海碑並びに宝塔塔身(昭和三十七年三月三十一日)

三基の板碑と一基の宝塔塔身があるが、これらの石造物のうち、向かって右側の阿弥陀三尊来迎図を刻んだ板碑が補陀落渡海碑である。

補陀落渡海とは、海上にあるとされる観音信仰における補陀落浄土を目指して往生(船出)することで、その供養として立てられたのが補陀落渡海碑である。

この補陀落渡海碑は、永禄十一年(一五六八)十一月十八日に、下野国の弘円上人、駿河国の善心、遠江国の道円らが補陀落渡海したのにちなみ、西光坊が施主となって建立したもので、現存の補陀落渡海碑は、本市の伊倉本堂山及び大阪府泉南市の一基、計三基だけである。

この補陀落渡海碑と並ぶ板碑二基の左端に、永禄四年(一二六七)銘の宝塔塔身がある。

平成九年三月 玉名市教育委員会

 

 

 

補陀落渡海碑がある稲荷神社ですが、実は稲荷山古墳の上に建っています。ただし、石碑の碑文にも記載されていますが、寿福寺の境内とするため削平したりしたため、いまとなっては外見上これが古墳だと判別できる人はほとんどいないと思います。(寿福寺は明治の廃仏毀釈により廃寺となりました。)

 

寿福寺は、このときの補陀落渡海を行った3人の渡海僧である、弘円上人(下野国)、善心上人(駿河)、道円上人(遠江)が身を寄せたお寺でもあります。そのあと、松の木川から出航しました。

 

史跡 稲荷山古墳

西暦六世紀頃この地に全長百米を超える玉名最大の前方後円墳が営まれた。この地点より東が後円部で西が前方部である。

後円部は中世寿福寺の境内となって削平されたので明らかでないが、前方部は葺石に覆われ、朝顔型を含む埴輪円筒列が二列めぐっていた。

縄文式時代の貝塚が南一帯にあり、弥生式末期の竪穴住居址が古墳の下から発見された。

また、奈良時代には立願寺瓦と同一の瓦を持つ薬師堂がその前方部に建立された。鎌倉時代大野荘の鎮守繁根木八幡宮が移建され、寿福寺はその神宮寺となり、室町時代には末社の稲荷堂がこの地にあった。

ここに並ぶ古墳碑は寿福寺境内にあったもので、特に永禄十一年(一五六八年)の板碑は観音の浄土である補陀落山へ入水往生し永遠の安楽を求めようとした熱烈な信仰を示す補陀落渡海碑で全国に珍しいものである。

昭和三十五年都市計画のため古墳の現状を変更するに当り学術調査を行い、諸事実を明らかにすることができたので、ここに碑を建訤する次第である。

昭和三十七年六月 玉名市

 

 

この補陀落渡海の習慣は江戸時代まで続きますが、末期になると、希望者がいなくなったため、すでに亡くなった人を流すという水葬の形に変わっていったそうです。

 

玉名ラーメンと、高瀬商店街

 

玉名にきたらラーメンば食べんといかんでしょ!ということで・・・。

 

近くのガソリンスタンドのお兄さんをつかまえて、おすすめのラーメン店を聞き出しました。それがこちら、千龍さんです。

 

 

焦がしニンニクと海苔、中細ストレート麺、濃厚豚骨スープが特徴となります。熊本ラーメンよりは細麺ですね。この年になると豚骨スープはなかなか重かったりもするのですが・・・、しかしとても美味でございました。

 

玉名ラーメンは、じつは熊本ラーメンのルーツとされています。かつて国鉄高瀬駅そばで営業していた中華そば店「三九」がその玉名ラーメンの元祖となるお店なのですが、ここの人気を聞きつけた熊本市の人たちが味に感銘を受けて、熊本市で提供されるようになったのが「こむらさき」「味千ラーメン」「松葉軒」といったお店だからなのです。

 

さらにいうと、三九はもともと久留米で営業していましたので、玉名ラーメンのルーツは久留米ラーメンということになるかと思います。

 

 

人気のお店らしく、待機用のテントが・・・

 

 

ラーメンで腹ごしらえしたあと、高瀬裏川の散策をしまして、そこから高瀬商店街へはいっていきました。まずは高瀬倉から。

 

 

高瀬蔵は、猿渡家から市に寄贈をされ、現在では玉名商工会議所が管理をしている多目的ホール兼飲食施設です。商店街の中核施設として位置づけられているそうです。

 

 

正面から見た高瀬蔵。飲食店としては居酒屋やインドカレー専門店などがテナントとして営業しています。多目的ホール(200名収容)ではいろんな行事が行われているそうですよ。

 

 

商工会議所が管理しているだけあって、玉名物産コーナーがあったり、観光パンフレットが置かれていたりします。下には明治当時の商家の名残りで、トロッコレールの跡が残っているのが実に面白いですね。

 

 

 

高瀬蔵を出たあと、商店街をねり歩きます。明治や昭和初期の頃の建物をそのまま生かしたようなお店が多くていいですね。

 

ここ柳屋茶舗は4代にわたってお茶屋を営んでいらっしゃいます。ここの会長さんが、高瀬裏川筋を愛する会の会長さんだったかと思います。

 

 

ここも古くから酢屋をいとなむ荒木直平商店。さまざまな酢を販売されています。

 

 

裏川沿いに明治8年に建てられた離れ”菖蒲庵”には、西南戦争のさいに征討総督有栖川織仁親王がお泊まりになられたということです。菖蒲庵も特別に見せていただいたのですが、うっかり写真を撮り忘れてました・・・

 

 

そのかわりに、見事なひな飾りの写真をば。

 

 

ちょうど時期だったので、花しょうぶ祭りのポスターが至るところに貼られていました。

 

裏川散策に来られたら、高瀬商店街を見ずに帰るはもったいないですよ!もちろん玉名ラーメンもぜひ食べてかれてくださいね。

 

高瀬裏川花しょうぶまつりと、石橋群

 

玉名での初夏の納涼イベント、高瀬裏川花しょうぶ祭りが今年も開催されました。平成29年でもう27回目にもなるんですね。今回はイベント開催前に、事前調査に来ました。花菖蒲は約6万5千本といいますから、かなりのものですよ。

 

 

訪問したのが5月24日で、イベント(5月26日~)の2日前だったため、花菖蒲はまだ、ぽつぽつと咲いているものがあるかな、くらいでした。アイラトビカズラも開花が遅かったですし、今年は全体的に花の開花が遅いのかもしれません。

 

 

本題にはいるまえに、玉名の地名の由来を軽くご説明しておきますと、日本書紀では「玉杵名邑」(タマキナムラ)との記述があるようです。和名抄には「多萬伊名」(タマイナ)との記述があり、天満宮託宣記(太宰府天満宮)には「玉井名」とあるようです。ここから、いまの「タマナ」という呼び方に変遷していったようです。(玉名市ホームページ「玉杵名の歴史」より)

 

 

江戸時代からある歴史ある石橋などもたいそう見事ですし、なにより水辺をきれいな花を見ながら散策するのは、心が洗われるようですよ。

 

7つの石橋からなる高瀬裏川石橋群のうち、高瀬眼鏡橋は県指定重要文化財となっています。

 

 

秋丸眼鏡橋。天保3年(1832年)に造られた、熊本県でももっとも古い部類にある石橋です。熊本県の石橋として最も有名な「通潤橋」よりも、さらに22年も古いものです。(ただし、いまの姿は裏川河川局部改良事業に伴い、解体・移築されたものです。)

 

水流調節を行う分流板を備え、洪水時の逆流による冠水から畑を守る役割を果たす、技術的にとても秀でている珍しい橋となります。

 

 

風情ある石畳に、苔むした石垣・・・この風情がたまりません。夜間はライトアップされて、また違った美しさが際立ちます。

 

 

もっとも幅が広い土戸橋。

 

上流部には、周辺商家の石垣に合わせ、当時の商人達が、荷物の搬出入のために築いた石橋群を見ることができる。この石橋のいくつかには、橋台に荷車用の車溝がほられており、当時の商人の知恵と工夫を見ることができる。(案内板より)

 

 

小崎橋。

 

 

小崎橋。車溝がついているのがわかります。人がすれ違うのがやっと、荷車などは交互に通さないと無理ですね。

 

 

酢屋橋。

 

 

酢屋橋。車溝はなく、中央がくり抜いてあるのがわかります。橋によって作りが違うのが面白いですね。

 

 

高瀬眼鏡橋。嘉永元年(1848年)、町奉行の高瀬寿平らによって架けられました。

 

 

高瀬眼鏡橋は歩行者専用道路として、いまでも機能しています。

 

 

お祭り期間中は、コンサートの開催などもあり、毎年20万人がおしよせるイベントとなっております。高瀬地区では西南戦争の遺跡なども多く存在しますので、お祭りのついでにいろいろ歴史的史跡を見て回りたい、という方は、観光ガイドタクシー「加来(かく)タクシー」をご利用くださいませ。

 

高瀬船着場跡~俵ころがし場

高瀬大橋

 

玉名市の高瀬船着場跡を、今回はご紹介いたしますね。古くは高瀬津と呼ばれており、南北朝の時代にはすでに港としての体裁は整っていたそうです。加藤清正の時代になると、河川の治水工事と米の集積場としての大規模な整備を行い、交通の中心として、重要な港として栄えました。

 

 

その後、細川忠利公により高瀬は肥後五ヶ町に指定され、町奉行所や税関、造船や建設の役所、海軍などの重要施設なども置かれるようになりました。

 

玉名市指定史跡 高瀬船着場跡

加藤清正は天正16年(1588年)肥後入国後、高瀬川(菊池川)堀替工事を天正17年~慶長7年(1589~1602年)に行い、この地に菊池川流域産米の集積、大坂(阪)への移出のための米倉(御蔵)と港を造った。次代の細川氏は更に施設の整備拡充に努め(天保12年~1841年頃)、年間24万俵に及び藩米を移出する藩内第一の拠点としていた。

「御蔵」は西南の役で焼失したが、俵ころがし場や揚場は往時のの港がしのばれ、玉名市の近世歴史を知る上で貴重なものである。(玉名市教育委員会)

 

 

米の移出に用いられた俵ころがし場(新渡頭)です。坂を下りきったところにある出っ張りが、俵受けです。

 

 

俵ころがし場を上から見たところ。石はとてもつるつるしていて、この日は雨天だったこともあり、歩いて上ろうとしたら滑って転びそうになりました。

 

 

図説。点線の四角は、西南の役で焼失した御蔵の想定される配置図です。現在は御蔵の名残を残すものは何もありません。

 

 

かつては船着場としてにぎわったようですが、いまではこの周辺は低層住宅地帯で車通りも少なく、とても静かなものです。

 

 

俵ころがしを市街方面から見に来ようと思うと、鹿児島本線の鉄橋の下をくぐることになります。

 

この鉄橋の橋脚部に使われているレンガの積み方を、フランドル積みといいます。長手と小口の煉瓦が交互に積まれるのが特徴で、明治初期まではこの積み方が一般的でした。その後はイギリス積みのほうが堅固であるとして、イギリス積みが主流になってきます。このように、レンガの積み方1つでも、造られた年代を推定することができます。

 

 

高瀬裏川筋歴史散策マップ

高瀬地区は、かつて水運の発展から、上流域で収穫された高瀬町(菊池米)の集積地として発展してきた町である。現在も当時の御蔵や、神社、史跡等が多く残り、情緒ある古い町並みを目にすることができる。高瀬は、南北朝の時代より高瀬の津(たかせのつ)と呼ばれる軍港があった町であり、菊池一族が、朝鮮との交易を始めたことから、物資の集散地として発展してきた。朝鮮の史書である「海東諸国記」や明の書物である「図書編」にも”達家什(たかせ)”として紹介されている。

 

 

玉名は、西南の役の舞台ともなりました。高瀬大会戦といいまして、この戦いで西郷隆盛の末弟である西郷小兵衛が戦死しています。高瀬船着場跡から歩いて行ける距離にありますので、あわせて訪れられるとよいかと思います。

青木磨崖梵字群~青木熊野座神社

 

崖に巨大な梵字が数多く彫られている場所が、熊本県玉名市青木にあることをご存じでしょうか。

 

これは、青木磨崖梵字群(あおきまがいぼんじぐん)といって、平安末期から室町時代にかけて彫られたものではないかと推定されています。500~800年ほど前に当時の修験者が彫ったものとされており、梵字1文字が仏様や菩薩様を意味しているといいます。

 

 

梵字と、仏様や菩薩様との対応表も掲示されていました。どんな史跡でもそうですが、正しい意味や背景がきちんとわかった上で見ないと、やはり面白くないのではないか、と思います。それゆえに、こういう掲示があるのはうれしいですね。

 

 

梵字自体を神聖な文字として崇められてきたのは、仏教伝来とともにはいってきた梵字が、あまりに難解であったためではないか、と言われています。

 

 

青木熊野座神社では磨崖梵字群も見応えがあるのですが、3本のナギの大木もたいへん見事です(玉名市指定天然記念物でもあります。)。樹齢400年といい、不動明王のご神体として奉られています。

 

青木磨崖梵字群(熊本県指定史跡  昭和50年3月24日指定)
梵字は、古代インドの表音文字で、中国や日本では、梵字のもつ呪術的威力が強調され、梵字1字が一定の仏や菩薩を表すようになった(種子という)。
ここに見られる巨大な梵字群は、平安末期から鎌倉~室町時代に盛んになった修験者によって刻まれたものと推定されている。
高さ約9mの凝灰岩の切り立った崖に力強い薬研彫りで陰刻された種子は、落下した岩の中に認められる8字を含め、20字が確認される。なかでも、最大の梵字、(倶利伽羅龍王の種子)は、蓮華座を含め3.8mの長さをもち、中心に剣を貫き、当梵字群中最も素晴らしいものである。

 

 

500年以上もの風雨に晒され、耐えているのですから、ものによっては認識が難しくなっているものもあります。右は釈迦如来を意味する梵字です。

 

 

 

梵字群最大規模の梵字、剣不動明王。2つの梵字を剣がつらぬき、一体化させたもので、梵字群の中心となるものです。

 

 

丸3つで構成されている梵字群は、阿弥陀三尊を意味します。いちばん上の丸内の梵字がキリクといって、阿弥陀を意味しています。

 

阿弥陀三尊と剣不動明王にはさまれたものが、梵字群最小のものとなる、大日如来を意味するアーンクです。こちらも、阿弥陀三尊と同じように丸で囲まれていますね。

 

 

残念ながら、このように崩れてしまって判読不能なものもいくつもありました。500年以上の風雨や地震などに耐えてきたのですから、むしろここまで残っていることが奇跡なのかもしれません。

 

 

途方もない年月を経ている梵字群とナギの大木は見応えがありますよ!熊本にこんな風景があったのかと驚かれるはずです。

 

海軍体操の創始者・堀内豊秋海軍大佐(御馬下の角小屋資料館)

 

御馬下の角小屋資料館では、堀内家最後の当主となった、海軍大佐・堀内豊秋(ほりうちとよあき)氏の資料も数多く展示されていました。堀内式海軍体操の考案者で、日本初の落下傘部隊の隊長でもありました。

 

 

資料館にある堀内豊秋氏の展示物は、もともとは御馬下の角小屋の2Fにあったものでした。ですが、ごらんの通り、古い日本家屋特有の急階段、ご年配のかたなどが上るのがとても大変だということで、2Fにある展示物の一部を資料館に下ろしたり、複製品を資料館で展示したりしているそうです。

 

 

御馬下の角小屋の間取り図です。茶の間の階段からあがった2Fが、堀内豊秋氏の記念館になっています。

 

 

オランダ領インドネシアのメナドを落下傘部隊で制圧し、オランダ軍に従属させられていたインドネシア人を解放しました。メナド制圧後、堀内はそのままインドネシアで現地司令官として軍政を敷きますが、「女子供には手を出すな、弱い者いじめをするな」という信念のもと、善政を敷いたので、とても住民に慕われたということです。

 

海軍大佐 堀内豊秋

明治33年(1900年)熊本に生まれる。

大正11年(1922年)海軍兵学校卒業(50期)海軍砲術学校に共感として在職中、かねてより痛感していた海軍体操改正の必要性を認め、自らデンマーク体操を日本人向けに改良した堀内式体操を考案、海軍体操の全面的改正に貢献した。

明治12年(1937年)に始まった日華事変に際しては、陸戦部隊指揮官として南シナ海の厦門(アモイ)に進駐、2年間軍政に携わり、その間現地住民の信望を一身に集め、堀内部隊交代の報が伝わると、住民はこぞって同部隊の駐留継続嘆願書を現地の最高司令官に提出した。

昭和15年、部隊が同地を去るに当たり、住民は、「忘恩碑」と銘した記念碑を建立し大佐の徳を偲んだ。

第2次大戦では、昭和17年1月、日本初の落下傘部隊の先頭に立ち活躍、成功を収め、内地期間後、天皇陛下に異例の単独拝謁を許される栄誉を得た。

終戦後、メナドにおける部下の過失に対知る責任を問われてオランダ軍事法廷に召喚され、現地弁護人の懸命な努力にも拘わらず、昭和23年9月25日刑死、48年の生涯を閉じた。

オランダ軍は刑執行に当たり、特に儀仗兵を配して武人に対する最高の敬意を表したという。

 

 

ここからは、御馬下の角小屋2階の堀内豊秋関連の展示スペースです。足腰が丈夫なかたは、ぜひこちらもご覧くださいませ。記念館においてある資料の原本などがあります。

 

 

インドネシア・バリ島の住民から贈られた、樹脂と蝋で描かれた﨟纈染めの絵画。花のように見える白い模様は落下傘を表しており、白馬が天から現れて民衆を助けてくれるというメナドの伝承を暗喩したものと見られます。

 

 

これもインドネシアの住民から贈られたという釣鐘ドラ。故人愛用の品だということです。

 

 

 

堀内大佐のお言葉

九月二十三日、突然刑執行の通知を受け、二十五日午前八時に執行されることになった。
この二日間、インドネシア人から尊敬を受け、何物かを残した。
妻よ、子供たちよ、桜花よりも清く、少しの不安もない。
兄弟たちよ、力をあわせて母上に孝養を尽くしてくれ。
人を頼ってはならない。あくまでも清く正しい生活をなせ。
不幸な妻よ子供よ、父はなくとも決して自暴自棄すること勿れ。
人は自分を信じ努力を続ければ、必ず偉くなれる。
さようなら

 

堀内大佐は戦後、オランダ政府よりB級戦争犯罪人容疑指名により、巣鴨刑務所に収監されます。罪状は投降したオランダ兵を虐待した罪だということですが、これは同じく戦犯裁判にかけられていた12名の部下の罪をかぶったものとされています。

 

 

また、堀内大佐が制圧したメナドの守備隊長が自ら裁判官になっていたり、堀内大佐の弁護人を裁判長が恫喝したり、復讐裁判としかいえぬものでした。(「私は裁判長から、堀内大佐を弁護するとあなたのためによくないよ、といわれ、判決日を俟たずに帰国させられました」堀内大佐の弁護人・井手諦一郎氏の証言)

 

 

なお、資料館には堀内大佐の資料のみならず、堀内家に伝わる、江戸時代から昭和にかけての歴史資料が多数展示されています。しかも、これで入館料無料なのですから(かつては大人200円だったはず・・・)、見に行かない手はないですね。

 

御馬下の角小屋~豊前街道

 

大河ドラマで知られるようになった「篤姫」さまが、江戸参府においてご休憩なされたということで、一躍注目されるようになったのがここ、御馬下の角小屋(みまげのかどごや)です。国道3号沿い(四方寄町)にありますので、熊本の人でしたら、中に入ったことはなくても、一度はこの通りを通ったことはあるのではないでしょうか。

 

御馬下(みまげ)とは、このあたりの古い地名で、いまでもバス停などでその名を見ることができます。

 

 

ドラマでは篤姫様ご一行は、瀬戸内海を海路で進んだことになっているのですが、実際には陸路を進んだと思われる古い記録が見つかっているのだそうです。そして、1853年8月29日に御馬下の角小屋に立ち寄り、この「御成りの間」(おなりのま)にて、ご休憩なされたということです。

 

 

御成の間の説明書き。篤姫様のみならず、豊前街道(ぶぜんかいどう)を参勤交代で通るお殿様などが、ご休憩のために立ち寄られています。

 

嘉永5年(1853年)8月29日に薩摩島津の篤姫が立ち寄り、休息したといわれる部屋です。この年の6月には、浦賀沖にペリーが開国を求めて黒船4隻を率いてやってきています。

 

 

手前が高貴な方がお休みになられる御成の間、奥が、次の間です。

 

篤姫さまが立ち寄った日は、残暑の厳しい夏の時期であり、スイカを食べたがられて、たくさんのスイカをお召し上がりになったそうです。

 

 

殿様専用の便所です。糞尿を受ける壺などはなく、くり抜いた床の下に置かれた砂箱を毎回交換するという方式です。この仕様になっているのは大きな理由がありまして、下手に糞尿受けなど置こうものなら、暗殺者などがそこに潜むなどということができてしまうからですね。

 

この便所は、殿様専用の便所です。便所の下には砂を厚く敷きつめた砂箱が置いてあります。

殿様は、この砂の上に便をされました。大便はそのたびごとに、ご典医が調べたそうです。

なお、便所の横には、常に警護の武士が待機していたとのことです。

 

 

殿様が便所を利用されている間、警護の武士が待機していた場所です。この下の隙間から、砂箱を取り出しました。

 

 

実はこの屋敷、旅籠(はたご)ではありません。問屋と質屋を営んでいた、庄屋の堀内家のお屋敷なのです。とても立派な屋敷であるがゆえ、お殿様などが参勤交代でお休みになるときに利用されていたということなのです。

 

 

篤姫さまがお召し上がりになったスイカを冷やしたと言われる井戸。熊本水遺産に指定されています。

 

 

質屋や問屋を営んでいたときの古道具なども数多く所蔵されており、しかもガラスケースにも入っておらず触れることもできますから、こういった古道具が好きな人にはたまらないのでは・・・と思います。

 

 

いまでいうところの、手提げ金庫についてるコインカウンターでしょうか。お金を素早く正確に数えるためにこんな道具があったんですね。

 

 

大福帳。商家での売り買いを記録した帳面です。

 

 

さおばかり。このほか、とても紹介しきれないほど多くのものがありますので、あとは実際に訪れて見てください。古道具を歴史ロマンにひたりつつ、味わってみはじめようものなら、ここは1日かかっても堪能しきれません。

 

 

 

日本初の落下傘部隊隊長である、堀内家最後の当主、堀内豊秋氏に関しての資料も数多く収蔵されているのですが、それはまた次回。

 

歴史公園鞠智城(きくちじょう)・温故創生館

 

今回ご紹介させていただく鞠智城(きくちじょう・くくちのき)は、朝鮮式山城という方式の古代山城です。戦国時代に活躍した日本式のお城とは異なり、朝鮮によってもたらされた築城技術を用いているのが特徴です。

 

まずは、鞠智城の資料館である、温故創生館にお邪魔しました。

 

 

鞠智城イメージキャラクターのころう君がお出迎え。なかなか可愛らしいデザインです。鞠智城内には、国内の古代山城で類を見ない、4つもの八角形鼓楼跡が見つかっていまして、それから名前を取ったのだろうと思います。

 

 

八角形鼓楼の模型です。日本ではまず八角形という形状の建築物は見られませんので、当時同盟関係のあった、百済の朝鮮人からの指導があったものと思われます。その特別な形状から、見張り台として用いられたのか、太鼓などで時を知らせる役割があったのではないかと考えられています。(イベントで、ころう君がそう言っていました。)

 

 

古代山城は大別すると、「朝鮮式山城」「神籠石式(こうごいししき)山城」の2つにわかれます。分け方は、日本書紀や続日本紀などに記載があったかどうか、という1点のみです。鞠智城は、続日本紀に記載がありますので、朝鮮式山城となります。(「大宰府をして大野、基肄、鞠智の三城を繕治せしむ」)

 

いずれも外国勢の侵略からの防衛拠点として作られたのだと考えられていますが、神籠石式はこれほど大規模な土木工事、しかも防衛拠点の整備という国家プロジェクトであるにもかかわらず、日本書紀などに記載がないというのは、とても不思議な感じがします。そのため、長年にわたって、神籠石式山城は、「霊域説」と「山城説」にわかれて議論されてきました(神籠石論争といいます)。いまでは、山城説が定説となっています。

 

古代山城は、熊本城のような戦国時代に活躍した日本のお城とは違い、国家をあげて整備したものであるという点が特徴です。鞠智城は大宰府の防衛のための兵站基地としての役割があったのだと考えられます。

 

 

ではなぜ、古代山城のごとき対海外の防衛拠点が当時必要だったのでしょうか。

 

長年、倭国の同盟国であった百済は、660年に唐・新羅連合軍に滅ぼされたわけですが、その滅亡した百済残党による百済復興運動に援軍を派遣したのです。その結果、白村江(はくすきのえ)の戦いで、百済残党と倭国の連合軍は大敗してしまいました。

 

その結果、倭国は唐・新羅による追撃を懸念しなくてはならなくなったわけです。国史上はじめて、日本は海外からの脅威にさらされることになります。これにあわてた大和朝廷は、大宰府防衛のため古代山城の築城をすすめ、烽火(のろし)を用いた通信手段を整備し、防人を東日本から九州に派遣したのです。

 

 

古代山城サミットでは、当時の主要な通信手段であった烽火(のろし)を用いたリレーを行いました。

 

 

2011年に行われたリレーでは、大宰府から鞠智城までの100kmを、わずか47分でつなぎました。

 

 

館内では、ころう君とくまモンのツーショット写真がたくさん展示されていました。

 

 

ころう君は週1回ほど館内に登場するようですが、今回はその日程ではなかったので、実際に見ることはできませんでした。どうしても会いたいという方は、事前に確認したほうがよさそうですね。

 

 

2Fは展示スペースとなっていました。復元された八角形鼓楼や米倉、兵舎が一望できます。朝鮮式の城は非常に広大な敷地を持つために、時間的制約もありましたので、城跡を歩いてまわるのは断念しました。家族で子どもさんを連れて、ハイキングがてら歩き回るといいんじゃないかな、と思います。

 

 

貯水池で見つかった菩薩立像。左が発見当時のもののレプリカ、左が当時の状態を復元したものです。なんのために貯水池に沈んでいたのかは、まだわかっていません。

 

 

鞠智城のことがわかるショートムービーの上映もされています。

 

 

そうそう、刀剣女子に人気の同田貫正国(模造刀)の展示もありましたよ。鞠智城とは時代がかなり違うのでは?と首をひねりましたが、同田貫はこの鞠智城跡のすぐ東側の、稗方地区で作られていたために、特別に展示しているそうでした。

 

 

古代山城は時代が1300年も遡るために、わからないことも多く、建物も現存しておらず、研究途上のようでしたが、発見された当時の遺物・遺構をつなぎあわせ、当時の姿を考えてみるのもいいなと思いましたよ。

菊鹿の栗まんじゅう(相良茶屋)

 

菊鹿地域では、くりまんじゅうが名物となっています。先日おとずれた相良寺でも、参道添いにはこのように、くりまんじゅうを扱うお店が建ち並んでおります。

 

こちらは泉水園さんの店舗です。

 

 

こちらは相良茶屋さん。

 

さて、どっちにはいったものか迷ったあげく、「こっちは元祖と書いてありますよ!」と同行のカメラマンさんがいわれるので、こちらに入ってみました。

 

 

TKU(テレビ熊本)の「ぴゅあピュア」で紹介されたことがあるそうで、外には看板もたっていました。

 

 

「ピュアぴゅあ」のほか、「英太郎のかたらんね」「熊本日日新聞」なども取材に来ているとのこと。

 

栗まんじゅうは8個入りで640円とお手頃!とりあえず、1個ずつ頼んでみました。

 

 

店内で食べていいかとおばあちゃんに尋ねたら、お茶まで出してくださいました。

 

風味付けのハッカの香りが食欲をそそり、また、栗の自然で上品な甘さがたまりません。

 

 

ハッカの葉がこのようにはりつけてあります。

 

 

相良茶屋の名物おばあちゃんと記念撮影。

 

気さくに対応してくださった、やさしいおばあちゃんです。今回は取材協力ありがとうございました。