叢桂園(そうけいえん)~熊大医学部にゆかりのある庭園

 

叢桂園は、熊本藩医学校”再春館”の師役をつとめた、村井家の別荘跡です。別荘跡ということで、無人ですが、無料で誰でも見学することができます。

 

村井家といっても、わからない人が多いと思いますので、説明いたしますと・・・。

 

第8代細川藩主・細川重賢(ほそかわしげかた)に、再春館の設立を進言したのが、当時まだ市井の一医師にすぎなかった村井見朴(むらいけんぼく・初代の再春館師役)でした。この、見朴の子、村井琴山が作庭し、その子・村井蕉雪の代で完成されたのが、この叢桂園なのですね。

 

ちなみに再春館は、いまの熊本大学医学部の前身にあたりまして、そして、日本初の公立医学校となります。

 

 

釣耕園(ちょうこうえん)の下手(しもて)にあたり、中で繋がっています。百梅園(ひゃくばいえん)も近いですので、見学されるのであれば、この辺をまとめて見学なされるとよろしいかと思います。

 

叢桂園は江戸時代肥後の分か、医学教育に貢献した村井家歴代の別荘跡である。
村井琴山(1733年~1815年)が工をおこし、その子蕉雪(1769年~1814年)の代に完成した。園の入口に「出者不逐入者不拒 山家自然妙境」と刻んだ石がある。
揚子江、洞庭湖を象った池があり遣水が流れている。頼山陽子はじめ多くの文人墨客が訪れた。村井琴山の父見朴(1702年~1760年)は藩主細川重賢に藩立医学校「再春館」設立を建議し、宝暦7年開講した。
「患者を身分貧富で差別せず、治療技術のみでなく学理を学ぶ、師弟関係を尊重する」を教育方針とした。村井琴山は京都の山脇東洋や吉益東洞の教えをうけ、古医方を唱え、医道二千年眼目編・和方一万方などの著書を残し多くの門下生を指導した。その子蕉雪も偉業を嗣ぎ再春館医学監を務めた。
【平成11年4月 日本東洋医学会 熊本県部会】(現地案内板より)

 

 

釣耕園から引き込んだ清流で曲水を造り、中国の洞庭湖に模した池も設けられています。この辺一帯はまとめて、「金峰山湧水群」として平成の名水百選に指定されています。

 

 

保存工事や補修などは特になされていないので、残念ながら、風化していたり、荒廃している部分も見うけられます。江戸時代の名園の当時の姿を想像して、楽しむのがよいでしょうね。

 

頼山陽が村井蕉雪を訪ねたときには、一日中庭づくりを手伝ったというエピソードが残っているそうです。

 

 

夏場はホタルを見ることができ、秋には紅葉が見事ですよ!取材したときは11月上旬だったために、紅葉にはすこし早かったようですね。

 

谷尾崎梅林公園(武蔵ゆかりの座禅石)

 

宮本武蔵関連の史跡としては、武蔵塚公園霊巌洞西の武蔵塚武蔵の引導石泰勝寺跡武蔵旧居跡などをご紹介して参りましたが・・・。

 

もっともマニアックなものをご紹介いたします。それが、この武蔵ゆかりの座禅石です!!

 

 

なにしろ案内板と平たい巨石があるだけで、墓碑などがあるわけでもないため、宮本武蔵に思い入れがないと、「えっ?この石だけ?」と言われてしまいかねないのですが・・・。

 

歴史好きのかたであれば、この石で座禅を組んでから霊巌洞に向かったのかなあ?とか・・・、歴史浪漫に思いをはせることができると思います。

 

 

梅林公園内にあるだけあって、座禅石に至る道には、さまざまな種類の梅の木がたくさん。梅のシーズンに、取材に来ればよかったですね・・・。

 

 

座禅石の傍らにある案内板。

 

伝 宮本武蔵ゆかりの座禅石

この巨石の上面は畳二枚敷位の広さがあり、昔から「座禅石」と呼ばれてきた。また傍の立石には地蔵の石像が納められていて、地蔵石と言われていたが、今は失われた。

この座禅石で、宮本武蔵も座禅を組んだとの伝承が強く残っており、そのため別名を「武蔵先生座禅石」とも伝えている。ここは昔の臨済宗隠軒の寺域で、座禅石があっても不思議ではない。武蔵は城下から岩戸観音にしばしば参禅しているから、まず妙解寺に詣で、ついでこの地で野外座禅を試み、古くからの山路をたどって岩戸観音に籠もったと考えることもできよう。

熊本市(※案内板より抜粋)

 

熊本市には宮本武蔵関連史跡が多くありますので、武蔵関連のところだけを効率よく1日で、一気にまわりたい!というようなときには、ぜひ加来タクシーにご用命ください。歴史に通じているタクシードライバーだからこそ、きっと歴史ファンにご満足いただけるツアーを行うことができると思いますよ。

 

清原神社~肥後守・清原元輔を祀る神社

 

女流歌人・桧垣と交流があったことで知られる、肥後国司・清原元輔。三十六歌仙に称される和歌の名人で、そして、かの清少納言の父でもあります。彼は都から肥後守として派遣され、寛和二年から正暦元年まで、肥後を治めていました。それから彼は都に戻ることなく、熊本で生涯を終えました。

 

都に戻れなかった清原元輔の霊を慰めるために、熊本市西区春日に、彼を祭神とする清原神社があります。交流のあった女流歌人・桧垣もともに祀られております。

 

 

ここは北岡神社の飛地境内ということで、北岡神社の境内社という扱いになるそうです。そのせいか、鳥居も祠も、一般的な神社と比べると小振りに作られていました。もともと北岡神社本社の敷地内にあったのですが、それが飛び地となっている理由としては、北岡神社本社と清原神社の間に道路が建設されたからとのこと。もともとはこの辺一帯は境内内の茶畑であったそうです。

 

なお、祇園社(いまの北岡神社)が1647年にこの北岡の地に移ってきたのですが、そのときに清原神社もこの地に移設されたということです。

 

 

清原神社の木碑。

 

そして右に見える手水鉢には、「奉寄進石盥 元文四年 呉服一丁目」と刻まれており、清原神社の歴史の長さを物語っています。

 

 

住宅地にひっそりとあるために、地元の人でも存在を知らないのではないかなあ・・・と思われます。特に案内看板があるわけでもないですので。

 

 

拝殿再建碑。大正十三年七月建とあります。なにかの原因で拝殿が損壊していたのでしょう。

 

 

清原公民館も境内内に併設されていました。

 

余談ですが、北岡神社は熊本城を見下ろすことができるとして、西南戦争時には薩軍の本営が設けられていた時期もございまして、境内内に「西郷隆盛先生本営の跡」なる石碑もたっていますよ。(やがて政府軍の砲撃により二本木に退くことになります。)

 

明徳官軍墓地~西南戦争関連史跡

 

明治10年(1877)の西南戦争にまつわる官軍墓地は各所にありますが、ここ熊本市北区明徳町にありますのは、2月22日~3月20日に行われた向坂の戦いの戦死者123柱の墓となります。

 

西南戦争では田原坂の戦いが有名ですが、この墓所のある旧北部町内も、軍事上の重要拠点でした。町内では254世帯の家が焼かれ、民間人の損害も少なくなかったといいます。2月22日の戦いでは、乃木希典率いる歩兵14連隊の軍旗が薩軍に奪取されるという事まで起きました。

 

 

犠牲者の所属別では、近衛歩兵第二連隊がもっとも多く71名。それから東京鎮台、熊本鎮台、大坂鎮台、広島鎮台とつづきます。

 

戦死者がいちばん多かった日は3月20日。つまり、田原坂が陥落した日です。政府軍はこの勢いにのって、一気に熊本城まで攻め込もうとしましたが、向坂で薩軍の猛反撃にあって抜くことができず、植木まで退くことになります。この墓所に埋葬される実に92名が、この日に亡くなりました。

 

 

よく見ると、墓石の高さが微妙に違うのがわかると思います。北を正面として据えられた墓石は、頭のとがった四角柱で、士官124cm、下士官87cm、軍夫40.5cmとのことです。(熊本市北部商工会調べ)

 

この近くの寄鶴地区には、軍夫30名を合葬した墓所もありますが、出身地や氏名などは一切不明となっています。

 

被葬者出身地
埼玉24、島根13、石川11、熊本7、和歌山7、三重7、神奈川5、長崎5、兵庫5、京都5、福岡5、山口5、岡山5、愛媛4、長野4、高知3、愛知3、岐阜3、新潟3、東京3、栃木3、福島3、山形3、大分2、広島1、群馬1、大坂1、千葉1、不明1 (計123)

 

 

官軍墓地共通の特徴ですが、氏名、出身地、死亡場所、死亡原因が石に刻まれており、手厚く葬られているのがわかります。

 

 

西南戦争関連史跡は総じて場所がわかりづらいですので、加来タクシーまでご用命いただければ、わかりやすい現地ガイドつきでご案内させていただきます。

 

八千代座資料館・夢小蔵

 

八千代座の道向かいに立地する夢小蔵。実はこの建物、明治20年に洋品店の蔵として建てられたものを、平成4年に八千代座資料館としてリフォームしたもので、明治43年竣工の八千代座よりもよほど古いものだったりします。

 

八千代座の見学チケットはこちらで購入することができ、八千代座見学の際には、まずこちらの夢小蔵を案内されます。八千代座の成り立ちについてのビデオ上演がありましたが、こちらは写真撮影不可とのことで割愛。

 

 

1F受付。こちらでお土産品なども買うことができますよ。右にちらっと見える緑色のキャラクターが、八千代座のゆるキャラ、チヨマツくんです。八千代座100周年を記念して作られました。

 

チヨマツくんは、八千代座舞台背景 の松羽目(まつばめ)をイメージして作られたそうで、山鹿市のホームページにはチヨマツくん応援ソングも無料ダウンロードできるようになっています。

 

 

1Fでは、坂東玉三郎丈が使用された「鐘ヶ岬」の衣裳やポスターなどを展示中です。

 

 

 

2Fの資料室。八千代座で実際に使用された甲冑や銃、槍、傘といった、150点もの小道具が所狭しと展示してあります。

 

 

芝居小屋として生まれた八千代座ですが、昭和の時代にはいると娯楽が多様化し、テレビなどの時代になったこともあり、八千代座で映画の上映なども行われたといいます。そのときに用いられた映写機。

 

 

当時の決算仕分帳。こういった帳簿関係も見ることができました。

 

 

当時のポスター類。

 

 

八千代座に登壇した俳優さんたち。大物さんたちばかりですね。

 

 

しっかり堪能しようと思えば、夢小蔵だけでもかなりの見応えがあります。

 

大人520円(420円)、小・中学生260円(210円)ですが、八千代座見学ができない場合で、夢小蔵資料館のみ見学の場合には大人210円(168円)、小・中学生100円(80円)となります。山鹿灯籠民芸館との共通入館チケットが安いですので、両方まわる時間があるときには、そちらをオススメいたします。

 

国指定重要文化財・八千代座~るろうに剣心ロケ地

 

山鹿灯籠民芸館の取材のとき、入場券を買うさいに、「八千代座にもはいれる共通入館券がお得ですよ!」と言われましたので、せっかくなので、八千代座も見学していくことにいたしました。明治43年から続く、国指定重要文化財でもある芝居小屋です。ちなみにこの共通入館チケット、さくら湯の割引券にもなるという、何重にもお得なチケットなんですよ。

 

というわけで、八千代座にやってきました。まずは正面の瓦に注目していただきたいですが、この広い屋根には約33,000枚という瓦がひかれておりますが、実は大部分が平成の大修理で新しいものに取り替えられております。しかし、正面の約1,500枚だけは、当時の古い瓦がそのまま使われているんですね。

 

 

明治43年、当時の山鹿の旦那衆によって、豊前街道沿いに”八千代座”を設立することが決められました。この芝居小屋を作るにあたって、旦那衆は”八千代座組合”を作り、1株30円で株を募って、資金を集めたということです。

 

老朽化し、一時は倒壊の危険すらありましたが、平成8年7月から平成13年5月にかけて行われた、平成の大修理(重要文化財八千代座保存修理工事)を経て再生を果たし、いまでも市川海老蔵や坂東玉三郎といった歌舞伎界の大物の公演がなされています。

 

 

八千代座創建にあたって、資金をだしあった旦那衆とは、いまでいう山鹿市実業界の人々・・・といった人たちですが、具体的にどのような人がお金を出資したのかは、八千代座の天井を見るとわかります。

 

八千代座を特徴づける、色鮮やかな天井広告画。他の芝居小屋では見られない特色で、明治から昭和にかけて、3パターン作られましたが、今回の修復では建設当初のものを復元してあります。一部図柄が不明なものがあったため、同じ広告画が何回も使われていたりします。

 

 

平土間(枡席)にて、係員が八千代座の歴史や建物の特徴などを、冗談まじりに愉快に説明してくださいます。取材した日はご年配のかたが多かったですが、熱心に係員の説明を聞き入っていました。

 

 

舞台側から、客席を見た写真。平土間(枡席)には傾斜がつけられているのが分かりますでしょうか。これは後ろの人でも舞台が見やすくするための工夫ですね。なお、畳は、傾斜があって滑るため、逆目にしてあります。

 

枡席は歩み板で仕切られていますが、この歩み板の上をつたって、売り子さんがお弁当などを売りに来ていたそうです。

 

天井に見えるシャンデリアは平成の大修理によって蘇ったもので、第二次世界大戦の金属供出でなくなっていましたが、平成13年に復元されました。当初は写真も資料もまったくなくて困っていたそうですが、新聞記事にたまたまシャンデリアが映り込んでいた写真があったから、復元できたんだそう。

 

 

大屋根を支えるための小屋組(屋根を支える骨組み)には、洋式のトラス工法(クイーン・ポスト・トラス)が採用されています。そのため、柱が少なく広い客席空間を確保することができています。小屋組の下は伝統工法ですので、和洋折衷の建築様式となっています。

 

なお、現在の八千代座には、耐震補強の観点から、明治43年の建設当初は存在しなかった柱が追加されています。上の写真の赤い柱は建設当初からあったもの。黒い柱は耐震補強のために追加された柱になります。こればかりは安全のために仕方がないですね。

 

 

花道のつけ根のところにある小型のセリである”スッポン”。幽霊や妖怪といったキワモノが登場するところですね。

 

 

スッポンの真下。なんと人力!!大人4人で、よいしょ!と担いで、せりあげたわけですね。

 

 

スッポンの真下の写真があることからもわかるとおり、普段は決して見ることはできない、舞台の下(奈落)まで見学することができるんですよ。ただし、見学は公演期間中にはできませんので、そこだけはご注意ください。

 

奈落の壁を見ると4段に石が積まれていて、この石は鍋田石とよばれる凝灰岩となります。

 

 

廻り舞台の下。なんとここも人力なんですね。廻り舞台を支えるレールには「KRUPP1910」の文字が刻まれており、ドイツ・クルップ社製のものであることがわかります。伝統的な外観でありながらも、各所に外国の技術が採用されているのも八千代座の特徴です。

 

 

向かいには当時の映写機や上演記録、チラシといった資料を見ることができる資料館”夢小蔵”もございますので、演目のないときに、ぜひ見学に訪れてはいかがでしょうか。(八千代座の見学チケットで夢小蔵もはいれます。)

味取観音堂~種田山頭火”放浪の旅”の出発地

 

味取観音堂(熊本市北区植木町)は、自由律俳句の俳人、種田山頭火ゆかりの寺院です。大正14年、42歳のときに、ここ味取観音堂の堂守になりました。

 

”大正十四年二月、いよいよ出家得度して、肥後の片田舎なる味取観音堂守となつたが、それはまことに山林独住の、しづかといへばしづかな、さびしいと思へばさびしい生活であつた。”(種田山頭火歌集「草木塔」より抜粋)

 

 

種田山頭火(たねだ・さんとうか)  
山頭火は本名種田正一、明治十五年、山口県防府市に生れた。早稲田大学文科を中退し、父と共に家業に従事したが失敗し、それから流浪の生涯が始まった。熊本に来たのが大正五年、彼が三十五才の時であった。酒にひたって家業を顧みず、上京したり帰熊したり奔放な生活を続けていた。大正十三年、出家して禅僧となり翌年、味取観音の堂守として、読経と句作の独居を続けた。観音境内の句碑に刻まれた『松はみな枝垂れて南無観世音』の句は、当時の作である。しかし、ここも永くは続かず一年二ヵ月にして去り、以来、放浪生活を送り昭和十五年十月十一日、四国松山市の一草庵で波瀾の生涯を閉じた。五九才であった。
山頭火は荻原井泉水の俳誌『層雲』によって自由律の俳句をよんだ詩人で『鉢の子』をはじめ七句集やぼう大な日記類があり、「山頭火全集」まで出版されており、日本の俳句史上特異の地位を占めている。

平成一三年十月二十二日 植木町教育委員会 (現地案内板より)

 

 

味取観音堂(曹洞宗瑞泉禅寺)。種田山頭火の堂守生活は長くは続かず、大正15年、43歳のときに寺を出て、雲水姿で流浪の旅にでて、旅先から『層雲』に投稿を続けたといいます。
お堂のわきに、さらに上のほうにある神武神社へつづく小道があります。

 

 

「松はみな枝垂れて南無観世音」の句碑。

 

種田山頭火が生きている間に建てられた句碑としては、唯一のものだということです。

 

 

瑞泉禅寺に設置された投句箱。種田山頭火ゆかりのお寺さんらしいですね。

 

 

せっかくですので、瑞泉禅寺の住職さんに、お話をすこし伺ってみました。

 

なんでも、今年11月26日に「種田山頭火と味取観音瑞泉寺紅葉まつり」が行われるとかで、臨時駐車場が設けられるなど、準備が進められているようでした。種田山頭火の供養祭(当日10時から)や、野点、作品展示などといったさまざまな催し物があるそうですよ。

 

 

 

なお、青空文庫から種田山頭火の歌集を読むことができます(無料)。

小野泉水公園(ホタル生息地)

 

 

小野泉水公園(熊本市北区植木町)はホタル生息地として知られ、小野小町伝説がある泉水がございます。

 

平安時代の絶世の美女、そして六歌仙のひとりである小野小町が、産湯をつかった泉水があるというのです!

 

 

ただし、小野小町の出生地ははっきりしておらず、各説あることは、あらかじめ申し上げておきたいと思います。秋田県湯沢市小野とする説、京都市山科区とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、神奈川県厚木市小野とする説、そして熊本県熊本市北区小野とする説がございます。

 

平安時代の女流歌人、小野小町ゆかりの泉水。父の小野良実がこの地に流刑になったときに小町が生まれ、泉水の水を産湯につかったという伝説が残っています。

岩の隙間や池底湧出する水は豊富で、池のほとりには小町像が安置される小町堂、その横には小町が詠んだ「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」の歌碑が建立されています。(現地案内板から引用)

 

 

小野泉水は自然にわきでる湧水で作られた池で、鯉もたくさん住んでいます。水面に映える緑が美しく、取材に来たときにも一眼レフカメラをかついだ方が、写真を熱心に撮っていらっしゃいました。ここで小野小町が産湯をつかったのでしょうか。

 

5月頃になると、ホタルが見られるということです。

 

 

さて、そもそも小野小町美女伝説はどこから来たのでしょうか?写真もなにもない時代、肖像画すら見つかっていないのに、美女伝説は現代まで残っています。

 

朱色あざやかな小町堂。小野小町像が安置されていて、毎年3月15日にご開帳されます。

 

それは、紀貫之が六歌仙を選出したときの寸評によるものとされております。

小野小町はいにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはばよき女のなやめる所あるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。」

「衣通姫(そとおりひめ)の流れなり」の解釈が難しいですが、衣通姫の「何の」流れなのかを明示していないため、いかようにも読めます。後世の人はこれを「衣通姫のように美しい容姿」という意味だと解釈したようです。というのも、衣通姫の歌は1つしか後世に伝わっておらず、そのため「歌の流れ」とは解釈しがたいためです。

衣通姫とは、絶世の美女と言われている伝説の女性で、美しさのあまり衣を通して光り輝いたと言われています。

 

 

小野泉水にかかる正院めがね橋。

 

安政三年(1856年)に正院川に架設されていた橋であるが、河川工事により昭和52年3月に、正院より現在地に移転して復元されている凝灰岩製。単一のアーチ橋である。幅2.1m。両脚間の幅4.8m、水面までの高さ2mである。楔石に陰刻銘がある。(現地石板の記述より)

 

 

正院めがね橋。こちらから見るとアーチ状の構造がよくわかりますね。

 

正院めがね橋

 

小野小町は、本名ではないとされます。当時、名前に「町」をつけてよばれるのは、後宮に仕える女性でした。ですので、小野小町という名前は、宮仕えしている小野さん、というような意味合いになるのではないかと思われます。

 

ところが「小」町と、町に「小」がついていますね。これは、小野小町にはお姉さんがいて、「年が若い方の小野町さん」という意味で、「小野小町」とよばれていたのではないか、と考えられます。

 

 

七国神社。中傷によって流刑に処せられた小野良実が無事に都に戻れるよう祈願して建立されたものといわれています。その後、小野良実はその願い通り、無事、都に戻ることができました。

 

 

都に戻れたはずの良実の墓が熊本にあるのは、いったい・・・?(小野泉水公園のすぐそばにあります)

 

 

小野泉水に隣接して、小野泉水公園が設けられており、水遊びをする場所などもありますから、夏場にお子さん連れで遊びに来るにはよいスポットかと思います。

 

山鹿灯籠民芸館~室町から続く伝統工芸品

 

金灯籠を頭につけて、女性たちが踊る山鹿灯籠祭り。今回はそのお祭りで使われる灯籠を堪能できる、山鹿灯籠民芸館をご紹介いたします。

 

まずはこの宮造り燈籠をご覧ください!これも山鹿灯籠の技術で作られていますが、これがすべて、和紙と糊だけで作られている、このすごさがおわかりでしょうか。

 

木も金具も用いていませんし、柱は和紙を折って糊付けしてあるもので、内部は空洞になります。そのため、骨なし灯籠とよばれることもあります。

 

 

山鹿灯籠まつりでおなじみ、金灯籠。繰り返しますが、和紙を折った部品だけで作られているものです。

 

室町時代頃に紙製の山鹿灯籠が作られるようになったといわれていて、江戸時代になると精巧なものが作られるようになり、現在では国指定の伝統工芸品に指定されています。熊本県では小代焼、天草陶磁器、肥後象がんに続いて、4品目の指定になるとのことです。

 

 

豊前街道沿いにある、山鹿灯籠民芸館の建物です。灯籠師による制作実演も見ることができますし、八千代座との共通チケットもあります。

 

もともと、山鹿灯籠の起源は、景行天皇を山鹿の人たちが出迎えるにあたって、霧が深かったためにたいまつで道を示したことがはじまりだったとされています。それが、形をかえて紙製の灯籠が作られるようになりました。

 

 

この建物自体が登録有形文化財です。大正14年に築造されたロマネスク風建築物で、旧安田銀行山鹿支店跡となります。昭和48年までは肥後銀行山鹿支店として使われていました。

 

 

天井に目をやれば、多数の金灯籠と、双龍の絵が。

 

 

現在、さくら湯が立地している場所には、かつて山鹿御茶屋という細川藩の休憩所がありまして、そこにあったお殿様用の温泉の天井絵だったといわれているものです。

 

山鹿御茶屋という肥後細川藩の休泊所があり、お殿様専用の御前湯がありました。

 

 

金灯籠の制作工程の解説。

 

 

灯籠師による作品が多数展示されていますが、この施設のすごいところは、実際に灯籠師が山鹿灯籠を作っているところを見れるんです!

 

 

灯籠師・中村潤弥さん。写真掲載も快く許可いただき、ありがとうございました。作業台に置かれたさまざまな道具を使って、目の前で作業をしてくださいます。

 

 

訪問した日は、牛車を作っていらっしゃいました。お見事!

 

 

これが・・・紙?いくつかの部品は、実際に手に取ってみることができます。この六角形はポンチで打ち抜くんだそう。

 

 

記念写真を撮影されたい方は、このように金灯籠を頭上において、写真撮影することもできるようになっています。

 

 

山鹿灯籠の技術で作られた八千代座。

 

 

山鹿市街は全体的に坂になっておりますので、足腰のお悪いかたや、詳しいガイドが欲しいかたはぜひ観光ガイドタクシーをご利用ください。歴史観光ガイドタクシー「加来タクシー」であれば、さらに詳しいご説明をおつけして快適な山鹿周遊をお楽しみいただけますよ。

明治から続く、山鹿の酒蔵/千代の園

 

熊本市から国道3号を北上し、菊池川にかかる山鹿大橋を渡りますと、右手に大きな煙突が見えてきます。

 

山鹿で唯一の酒蔵、「千代の園酒造」の煙突です。

 

明治29年に米穀商、本田喜久八氏が、銘酒「清瀧」の醸造を始めたことから、「千代の園」ははじまったとされています。

 

 

千代の園の最初の銘柄である「清瀧」の名前は、八千代座の天井看板にも見ることができます。

 

看板には、本田喜久八商店という当時の屋号が載っていますね。植木にも支店があるようです。

 

 

千代の園は、熊本の地酒である赤酒を取り扱う数少ない酒蔵の1つでもあります。

 

熊本で赤酒を製造しているのは、あとは川尻の瑞鷹(ずいよう)だけだったかと思います。

 

 

山鹿市は、町ぐるみで昔ながらの景観を残そうと頑張っていて、電柱も地中化されています。

 

商店街につらなる店舗は、いま風の全面ガラス張りの店舗ではないので、はいりづらいという声を聞くこともありますが、それも昭和初期の雰囲気を壊さないようにとの配慮があるからこそ。

 

町をぶらっと歩くだけでも昭和浪漫が感じられて、楽しいですよ。

 

 

酒造り資料館。

 

千代の園で実際に使われていた、酒造りの道具などを見ることができます。

 

 

酒造りに使われる、暖気樽、ぐり枡(水枡)、ごんぶりなどなど。

 

本田酒造場という、当時の名前が見えますね。企業整備により、吉田酒造場、西牟田酒造場と合同して、有限会社本田酒造場を設立したのが昭和19年のことです。

 

企業整備とは、第二次大戦による戦時経済の下、国家により行われた企業再編のことです。

 

 

当時の写真や、当時の勘定帳など。

 

 

100年前のレジやら電卓など。

 

 

このように、さまざまな道具を見ることができます。

 

入館料もありませんし、体験型の展示などもあって、ぜひお子様連れで来ていただきたいと思います。

 

 

一斗缶はよく見ますが、一斗「瓶」というのがあるんですね・・・。すごい迫力です。

 

 

大人の方には試飲などもできたかと思います。山鹿に行くなら、酒好きでなくとも外せないスポットだと思いますよ。