明徳官軍墓地~西南戦争関連史跡

 

明治10年(1877)の西南戦争にまつわる官軍墓地は各所にありますが、ここ熊本市北区明徳町にありますのは、2月22日~3月20日に行われた向坂の戦いの戦死者123柱の墓となります。

 

西南戦争では田原坂の戦いが有名ですが、この墓所のある旧北部町内も、軍事上の重要拠点でした。町内では254世帯の家が焼かれ、民間人の損害も少なくなかったといいます。2月22日の戦いでは、乃木希典率いる歩兵14連隊の軍旗が薩軍に奪取されるという事まで起きました。

 

 

犠牲者の所属別では、近衛歩兵第二連隊がもっとも多く71名。それから東京鎮台、熊本鎮台、大坂鎮台、広島鎮台とつづきます。

 

戦死者がいちばん多かった日は3月20日。つまり、田原坂が陥落した日です。政府軍はこの勢いにのって、一気に熊本城まで攻め込もうとしましたが、向坂で薩軍の猛反撃にあって抜くことができず、植木まで退くことになります。この墓所に埋葬される実に92名が、この日に亡くなりました。

 

 

よく見ると、墓石の高さが微妙に違うのがわかると思います。北を正面として据えられた墓石は、頭のとがった四角柱で、士官124cm、下士官87cm、軍夫40.5cmとのことです。(熊本市北部商工会調べ)

 

この近くの寄鶴地区には、軍夫30名を合葬した墓所もありますが、出身地や氏名などは一切不明となっています。

 

被葬者出身地
埼玉24、島根13、石川11、熊本7、和歌山7、三重7、神奈川5、長崎5、兵庫5、京都5、福岡5、山口5、岡山5、愛媛4、長野4、高知3、愛知3、岐阜3、新潟3、東京3、栃木3、福島3、山形3、大分2、広島1、群馬1、大坂1、千葉1、不明1 (計123)

 

 

官軍墓地共通の特徴ですが、氏名、出身地、死亡場所、死亡原因が石に刻まれており、手厚く葬られているのがわかります。

 

 

西南戦争関連史跡は総じて場所がわかりづらいですので、加来タクシーまでご用命いただければ、わかりやすい現地ガイドつきでご案内させていただきます。