高瀬船着場跡~俵ころがし場

高瀬大橋

 

玉名市の高瀬船着場跡を、今回はご紹介いたしますね。古くは高瀬津と呼ばれており、南北朝の時代にはすでに港としての体裁は整っていたそうです。加藤清正の時代になると、河川の治水工事と米の集積場としての大規模な整備を行い、交通の中心として、重要な港として栄えました。

 

 

その後、細川忠利公により高瀬は肥後五ヶ町に指定され、町奉行所や税関、造船や建設の役所、海軍などの重要施設なども置かれるようになりました。

 

玉名市指定史跡 高瀬船着場跡

加藤清正は天正16年(1588年)肥後入国後、高瀬川(菊池川)堀替工事を天正17年~慶長7年(1589~1602年)に行い、この地に菊池川流域産米の集積、大坂(阪)への移出のための米倉(御蔵)と港を造った。次代の細川氏は更に施設の整備拡充に努め(天保12年~1841年頃)、年間24万俵に及び藩米を移出する藩内第一の拠点としていた。

「御蔵」は西南の役で焼失したが、俵ころがし場や揚場は往時のの港がしのばれ、玉名市の近世歴史を知る上で貴重なものである。(玉名市教育委員会)

 

 

米の移出に用いられた俵ころがし場(新渡頭)です。坂を下りきったところにある出っ張りが、俵受けです。

 

 

俵ころがし場を上から見たところ。石はとてもつるつるしていて、この日は雨天だったこともあり、歩いて上ろうとしたら滑って転びそうになりました。

 

 

図説。点線の四角は、西南の役で焼失した御蔵の想定される配置図です。現在は御蔵の名残を残すものは何もありません。

 

 

かつては船着場としてにぎわったようですが、いまではこの周辺は低層住宅地帯で車通りも少なく、とても静かなものです。

 

 

俵ころがしを市街方面から見に来ようと思うと、鹿児島本線の鉄橋の下をくぐることになります。

 

この鉄橋の橋脚部に使われているレンガの積み方を、フランドル積みといいます。長手と小口の煉瓦が交互に積まれるのが特徴で、明治初期まではこの積み方が一般的でした。その後はイギリス積みのほうが堅固であるとして、イギリス積みが主流になってきます。このように、レンガの積み方1つでも、造られた年代を推定することができます。

 

 

高瀬裏川筋歴史散策マップ

高瀬地区は、かつて水運の発展から、上流域で収穫された高瀬町(菊池米)の集積地として発展してきた町である。現在も当時の御蔵や、神社、史跡等が多く残り、情緒ある古い町並みを目にすることができる。高瀬は、南北朝の時代より高瀬の津(たかせのつ)と呼ばれる軍港があった町であり、菊池一族が、朝鮮との交易を始めたことから、物資の集散地として発展してきた。朝鮮の史書である「海東諸国記」や明の書物である「図書編」にも”達家什(たかせ)”として紹介されている。

 

 

玉名は、西南の役の舞台ともなりました。高瀬大会戦といいまして、この戦いで西郷隆盛の末弟である西郷小兵衛が戦死しています。高瀬船着場跡から歩いて行ける距離にありますので、あわせて訪れられるとよいかと思います。