清浦奎吾記念館(熊本県初の内閣総理大臣)

 

熊本県の内閣総理大臣は?と尋ねられたら、多くの人が「細川護熙」と答えると思います。熊本の人にすらあまり知られていませんが、実は細川さんより先に熊本で総理大臣にのぼりつめた方がいらっしゃるんです!

 

明照寺

 

その名を清浦奎吾(きようらけいご)といい、明照寺という熊本県山鹿市来民(くたみ)のお寺で生まれました。(山鹿市との合併前では、鹿本町といわれていました。)

 

 

清浦奎吾記念館は、その明照寺の隣に建てられました。来民と聞くと、地名から、「来民うちわ」がぱっと思い浮かぶ人もいるかもしれませんね。以下、パンフレットに記載されていた略歴を引用いたしました。

 

  明治9年(1876)27歳  司法省に入り大審院検事局詰となる。

19年(1886)37歳  内務省警保局長となる。

24年(1891)42歳  貴族院議員となる 欧州視察

25年(1892)43歳  伊藤内閣の司法次官となる

29年(1896)47歳  松方内閣の司法大臣となる

31年(1898)49歳  山縣内閣の司法大臣となる

34年(1901)52歳  桂内閣の司法大臣となる

35年(1902)53歳  男爵を授けられる

36年(1903)54歳  農商務大臣となる

38年(1905)56歳  内務大臣兼任となる

39年(1906)57歳  貴族院議員を免ぜられ枢密顧問官となる

40年(1907)58歳  子爵を授けられる

大正3年(1914)65歳  組閣の大命を拝するも拝辞する

11年(1922)73歳  枢密院議長となる

13年(1924)75歳  組閣の大命を拝し内閣総理大臣となる 同年総辞職

15年(1926)77歳  中国視察(4回目)

昭和3年(1928)79歳  伯爵を授けられる

4年(1929)80歳  宮中杖を授けられる

16年(1941)92歳  内閣首班奏薦の重臣会議に出席する

17年(1942)93歳  熱海米寿庵にて没す

 

 

清浦奎吾伯は、嘉永三年(1850)2月14日、明照寺住職大久保了恩の五男として生まれる。漢学をはじめ広く学問を修めた清浦伯はわが国の法律制定に大いに貢献し、後に司法、農商務、内務大臣、枢密院議長を経て大正13年1月、内閣総理大臣となる。この記念館は、清浦伯の偉業を偲ぶとともにこれを顕彰し、後世に伝えるための記念館である。

鹿本町教育委員会(現・山鹿市教育委員会)

 

清浦奎吾伯が(鹿本地区以外で)熊本でそれほど有名ではない理由としては、在任期間が短かった、というのもあります。

 

清浦内閣は、貴族院議員を中心として組閣された、超然内閣(※注1)であったために、当時の衆議院から反発が起こり(これを第二次護憲運動といいます)、対抗勢力であった護憲三派に総選挙で大敗し、約5ヶ月で内閣総辞職することになりました。なにしろ、ときは大正デモクラシーのまっただ中。いまでは当たり前となっている「政党政治」や「普通選挙」を求める民衆の声とは逆行する組閣だったのだろうと思います。

 

※注1 内閣は政党の影響を受けずに行動すべきという考え方のもと成立した内閣のことです。当時は総理大臣は元老が選ぶものでしたから、衆議院は首相選出にまったくかかわれませんでした。

 

 

関東大震災直後の内閣でしたから、復興予算なども通したかったろうと思いますが、前述の理由から、予算先議権を持つ衆議院の支持がないために苦境に立たされたものと思われます。

 

 

清浦奎吾伯の生い立ちを記したパネルです。音声付きで解説をしてくれます。

 

大正13年、75歳の清浦奎吾は熊本で初めての総理大臣になった。官界歴50年あって出世栄達の道を極めたのである。身を田舎町からおこし苦学力行し藩閥も学閥も姻戚(いんせき)もないところから腕一本で総理大臣になった。親の教えの四恩(親、先輩、友、時世の恩をいう)を忘れず、清廉、潔白、高風清節の士としての生涯は誠に立派で、近年の政官の汚濁を聞くにつけ清浦奎吾の生き方が大変尊く思われる。

 

嘉永3年(1850年)鹿本町来民の明照寺。大久保了恩の五男に産まれ幼名を普寂(ふじゃく)といった。12歳の時、熊本市浄行寺の養子となったが青雲の心にもゆる彼は寺の法燈を継ぐ気にならず来民に帰る。16歳の時、父母を説得して日田(大分)の咸宜園の私塾に入門。ここは広瀬淡窓の塾で多くの英才を代に出した所である。普寂は苦学を続け都講という塾生最高の地位につき、塾生の代範を勤めるまでになって在園6年業成って意気揚々とふるさとの土を踏んだ。この頃に「清浦奎吾」と改名した。

 

23歳の時、彼は志を立てて上京し知り合いの埼玉県令をたより、埼玉県大教授心得に任ぜられ風渡野小学校の校長として教育に力を注いだ。役人として優れていてどのポストにいても上長に愛せられ、又十分に応える手腕を持ち合わせていた。(パンフレットより引用)

 

 

館長さんがお手すきであれば、展示物について解説をしてくださいますので、より理解がしやすいかと思います。パネルにはさまっているのが、鹿本名産の来民うちわですね。柿渋を塗った渋うちわは、虫に食われず丈夫で長持ちしますし、年を経るごとに色合いが深みを増していきますから、贈答品として人気があるんですよ。

 

渋うちわは、柿渋を塗ることにより、和紙をコーティングする役目と柿渋に含まれるタンニンの働きにより防虫効果があり、丈夫で長持ちするうちわに仕上がります.年とともに色合いが深みをおびていきますので、赤ちゃん誕生の命名うちわや古希・還暦・結婚引き出物等、贈答品・記念品・おみやげに最適です。

 

 

清浦伯が亡くなったときには、大きく新聞記事に掲載されました。そのときの熊本日日新聞(昭和委17年11月6日)が展示されていました。

 

 

館内では、清浦泊直筆の書状・掛け軸や、胸像、仕込み杖といった展示物を見ることができます。

 

 

清浦先生にまつわるビデオの上映もあるんですが、このときは次の予定もありましたので、残念ながらまたの機会に、となりました。映像で見たほうがより理解が深まりますので、ご来訪のかたは、なるべく長めに予定を組まれるといいかと思います。

 

■開館時間/午前9時~午後5時

■休館日/月曜日・国民の祝日の翌日・12月29日~翌年1月3日まで

■入館料 大人210円/子供50円(団体大人160円/子供40円)

■TEL 0968-46-5127

田原坂公園界隈(一の坂公園、田原坂崇烈碑、西南戦争戦没者慰霊の碑)

 

田原坂近辺の史跡をご案内してきましたが、田原坂という坂そのものを今回は取り上げてみたいと思います。この写真の地点が、豊岡の眼鏡橋を通り過ぎ、いまから田原坂をのぼろうとする入り口となります。ここから、官軍が進軍していったわけですね。

 

 

田原坂の入り口近辺のマップです。当時は県道31号(赤部分)も、国道208号(緑部分)も整備されていませんでした。点線部分が、当時の進軍に使われたと考えられるルートになります。

 

 

麓の豊岡眼鏡橋からの標高差は僅か80mの田原坂。一の坂、二の坂、参の坂と頂まで1.5kmの曲がりくねった道が続く。この道だけが唯一大砲を曳いて通れる道路幅(3m~4m)があり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本へは進めなかった。(案内板より抜粋)

 

 

いまではこのように竹林が茂っていますが、当時は飛び交う銃弾で山ははげ上がってしまいました。

 

 

これは西南戦争資料館で特別に閲覧させていただいた資料です。田原坂の森を写した写真と思われますが、木には葉っぱなど残っていないほど銃弾が飛び交っていたということでしょう。

 

 

一の坂には公園が整備されていて、公園付属の広い駐車場も整備されています。

 

 

馬上の美少年像。これが誰なのかは諸説ありますが、田原坂で戦ったすべての少年兵の象徴だというのが通説だということです。

 

 

西南戦争の経緯などを石碑に刻みこんだ、田原坂崇烈碑です。最大の激戦地となった田原坂にて、もし政府軍が負けて、薩軍が北上するようなことになっていれば、日本はもっと大きな災禍に見舞われたであろうということが記されています。

 

 

「鹿児島県は西日本の中でも土地が広く、人々は勇敢でした。そして、西郷隆盛の名声は世間に知られていました。国内の士族には西郷の進退を伺い、西郷に影響を及ぼす者もいました。明治10年2月、西郷隆盛は反乱を起こし、熊本城を囲みました。天皇は大変怒りになられ、軍隊にこれを討たせられました。熾仁親王が征討総督で、陸軍中将山形有朋、海軍中将川村純義が参軍となりました。薩軍は兵を分け、植木、山鹿の両道を抑え、進軍し高瀬に入りました。27日、官軍は高瀬を占領。3月4日には木葉も占領しました。薩軍は退却し、田原坂の要地に陣を築きました。その上、熊本城の囲みも固く、援軍の路も絶たれました。 この田原坂の地は両側が壁のように立ち、小さな道がけわしい所です。薩軍は皆精鋭の兵で、しかも堅固な陣地を築き、そこから狼や虎が吠えて襲うように出撃しました。攻めるのに難しく、守るのに易しい地形の要地に官軍も苦戦を強いられました。  こうして激戦昼夜を問わず17日に及び、ついに薩軍を撃退されました。死傷4千余人、西南の役中に数百の激戦がありましたが、しかしいまだに田原坂のような激戦は他にありませんでした。もしもこの坂を抜くことが出来ないで、薩軍が南関を破り北方に進出したならば、直ちに政府に不満を持った者たちが必ず隙をみて立ち上がり、禍は測り知れなかったでしょう。しかしそんな状態に至らず、すみやかに撃破することが出来たのは、実に田原坂の勝利によります。
ああ、誠に死者の功績は大きく、そのままにしておけない痛ましいことである。
そこで碑を田原坂の坂上に建て、このことを記し、忠烈な戦いを顕彰するものである。
明治13年10月
陸軍大将二品大勲位 熾仁親王撰文竝篆額
陸軍省六等出仕従六位勲五等秋月新太郎書」

「なお、この崇烈碑建立の経過について明治13年9月13日五野保萬日記によると
鹿本郡植木町大字豊岡(田原坂)の山中において、過る10年に、鹿児島の西郷隆盛が事変を起こしたことや、その経過等について大石記すこととなった。
ところでこの石は、~中略~八代港に着船した。  この石は白く、石幅は約1.2m、長さ約4.5m。重量約3,600kg これを運搬することは大変な作業であった。車に乗せ牛15頭、作業人員30名(石工、大工、人夫)が各々作業をして60日を要し、漸く田原坂上に到着した。
来年の3月迄に建立完成の予定である。碑には当時の戦闘の様子を詳細に記載し、将来になってもその当時の状況が判るよう、政府から建立されるものである。国もそうであるように、自分も又碑石建立の経路を、後世の為に書き遺しておく。とある。」
熊本市教育委員会

 

 

これがよくわからなかったんですが、どなたかいわくをご存じないでしょうか。デザインもばらばらなので、どうも別々に地面から引き抜いて、ここに集められて移設されたような佇まいなのですが・・・。

 

 

田原坂を登り切ったところには、広くて見晴らしがよく、気持ちのいい公園が整備されています。ここでかつて大勢の人が死闘を繰り広げたのが信じられないほどです。

 

 

高台になっている田原坂公園からは、西南戦争の各激戦地を見渡すことができます。公園に隣接している田原坂西南戦争資料館の人にお願いすれば、どこでどのような戦いがあったのかを丁寧に教えてくださいますよ。(もちろん、わたくしも西南戦争検定中級持ちとして、自信をもってガイドさせていただきます。)

 

 

西南役戦没者慰霊之碑。国のために命を落とした同胞を思い、手を合わせて弔いました。

 

 

出身別に死者名が刻まれています。官軍、薩軍どちらも分け隔てなく書かれています。

 

 

田原坂は、環境省の指定した九州自然歩道のコースの1つでもあります。

 

西南戦争関連史跡は、見落としがちな小さい戦跡が無数にあり、知識あるガイドの必要性が高い観光エリアとなります。田原坂を徹底的に楽しみたいというかたは、ぜひとも加来タクシーまでご連絡ください。1時間4,000円の貸切料金は、1台あたりの価格になりますから、お友達でお誘い合わせでご利用いただければ、案外安く利用できるのではないかと思います。

 

田原熊野座神社に残る、西南戦争の銃弾跡

 

境内にある樹齢200年以上の杉の木から、西南戦争のときの銃弾が発見され有名になった、田原熊野座神社にお邪魔しました。

 

なんでも、2015年8月の台風で杉の木が倒れたため、伐採したところ、中から銃弾がいくつも発見されたということです。立ち木から100年以上前の戦争の痕跡が見つかるのは希だとのこと。

 

田原熊野座神社は、西南戦争における宮山争奪戦(1877年3月8日と15日)の舞台となりました。

 

 

もともと木から金属反応があることは分かっていましたが、外見からはわからず、今回伐採したことで銃弾が発見されることとなりました。伐採された杉の木は、このように雨よけをされた上で、境内の隅に置かれています。

 

 

金属反応があったところがいくつもくり抜かれています。金属反応があったのはすくなくとも21カ所、そして3方向以上から打ち込まれているということですから、その戦いの激しさの一端を垣間見る思いです。

 

 

伐採された杉の木の切り株です。東西南北を示すタグが埋め込んであります。

 

 

社殿からも銃弾が多数見つかったということでしたが、どこが銃撃跡なのかは、よくわかりませんでした。なお、社殿から銃弾が見つかった理由は、銃撃された境内の木を用いて建設したからということでした。

 

 

穴があいてる箇所はあるのですが、特にマーキングされているわけではないので、自然の虫食い穴なのか銃弾によるものなのかが分からないのです。

 

 

本堂のなかは結構きれいで、錦絵なども飾ってあったりして、住民のかたの憩いの場となっているのかなと思います。

 

 

明治三十六年 癸夘(みずのとう) 拾月上旬再建

 

・・・とありますので、鳥居は西南戦争当時のものではなく、1903年に再建されたもののようです。さらに平成28年にも鳥居の一部を補修されている模様。

 

 

 

たしかに、鳥居の貫(ぬき)の部位だけ真新しくなっていますね。

 

 

西南戦争遺跡 田原熊野座神社

田原熊野座神社は田原地区の鎮守の神社でした。神社一帯は明治10年(1877年)3月の西南戦争最大の激戦・田原坂の戦いでの「宮山争奪戦」の戦場でした。
熊野座神社付近一帯には薩摩軍が陣を構えていたと考えられ、政府軍は盛んに攻撃したようです。付近での戦闘は薩摩軍兵士の記録にもあり、陣地は「田原坂北之手松山台場」などと呼ばれていました。
戦跡の調査では、数多くの小銃弾や薬莢、四斤砲弾片などが見つかりました。薬莢の集中地点は南と北で加来にされ、文献も参考にして、北が政府軍、南が薩摩軍と推定しました。この間の距離は約60mで、中間には弾痕のある石塔もあります。また、鳥居近くの杉の木からも小銃弾や四斤砲弾片が見つかるなど、詳細で個別具体的な戦闘状況がわかりつつあります。

平成28年3月 熊本市教育委員会

 

 

こちらは田原坂戦争資料館の近くになりますので、資料館とセットでごらんになられるのをお勧めしております。

高月官軍墓地~西南戦争遺跡散策

 

玉東町役場のそば、高月地区には、西南戦争の官軍戦死者を埋葬している官軍墓地があります。有栖川宮督戦の地(丸田公園)も近いので、セットでごらんになられるといいかと思います。

 

 

墓地の周囲は緑豊かな公園として整備されており、980名もの戦死者を埋葬されている場所とは思えぬ、のどかな雰囲気となっています。取材当時もお母さん方が子どもたちを遊ばせていました。

 

 

このような官軍墓地は県内21カ所、全国35カ所に存在していますが、高月官軍墓地が日本最大級のものであるということです。

 

 

墓碑の側面には、このように氏名、出身地のほか、所属、戦死した理由や場所などが刻まれており、戦死者が手厚く葬られていると感じます。対して、薩軍兵士の墓所では、まず個別の墓碑がほぼありませんので、官軍と薩軍で当時の扱いの差が見て取れます。

 

 

この墓碑の数だけ人が亡くなっているのだと思うと、誠に恐ろしいです。霊感などはない私でも、ただならぬ雰囲気を感じます。

 

 

熊本県指定史跡になったときに作られた石碑。

 

これによると、埋葬者980基に対して墓碑数が970基、10基が亡失しているとのこと。死者は、そのほとんどが熊本県外から集められた人々であったようです。

 

 

戦没者名簿。国の礎を作るために犠牲になった多くの方がいたこと、このようなことがあったこと、忘れないようにしないといけません。

 

 

史跡をまわるときは、ガイドつきで、きちんと歴史背景などを説明してくれる人がいてくれてこそ、価値がよく分かるというもの。

 

玉東町には、観光ガイドの会というボランティアのガイドさんがいらっしゃいますので、そちらで説明をしてもらってもいいですし、西南戦争検定 中級を持つわたしのような、歴史知識豊富な観光タクシーを利用されるのも手ですよ!最後は西南戦争にとても詳しくなって帰っていただいております。ぜひご利用くださいませ。

 

正念寺(官軍病院跡)~日本赤十字社発祥の地

 

日本赤十字社発祥の地が熊本であることはご存じでしょうか。のちに日本赤十字社となる博愛社が誕生したのは、熊本が激戦地となった西南戦争のまっ最中でした。

 

その中でも、正念寺は激戦地・田原坂に近かったため、官軍病院が設置され、多くの傷ついた兵士が運び込まれたということです。博愛社設立後は、敵味方分け隔てなく治療が行われました。博愛社の最初の救護活動開始の場所であるとされています。

 

 

元老院議官・佐野常民は、熊本洋学校ジェーンズ邸にて有栖川宮熾仁親王殿下に直訴し、博愛社設立の許可を得た後、医療スタッフ4名を正念寺に派遣し、活動をはじめたとされています。(※博愛社最初の活動場所は諸説あります。例えばこの近くにある徳成寺も同様の活動が行われており、博愛日誌や日赤社史稿にも記録が残っていません。)

 

 

「博愛社発祥縁起の地」の碑。赤十字のマークではないことがわかります。当時、十字マークはキリスト教を連想させると反対されたため、赤の日の丸の下に一本線を引いたマークをつけ、名前も赤十字ではなく、あえて博愛社としました。

 

 

負傷兵が運び込まれた本堂はすでに存在していないそうです。また、本堂の裏手に臨時救護所がもうけられていたので、そちらが正真正銘、博愛社最初の活動場所ではないかという人もいます。

 

「大義を誤り、王師に敵すといえども、
皇国の人民たり、皇家の赤子たり。」

(博愛社の設立請願書より抜粋)

 

 

激戦区である田原坂に近かったために、なまなましい銃撃の跡も、山門に残されています。(白くマーキングしてあるところ)

 

 

一般兵にまでは博愛社の精神が理解されず、設立初期は多くの医療スタッフが攻撃され、犠牲になったということです。

 

 

山門を道路側から撮影したもの。官軍病院跡の碑がたっています。また、山門は通れないように封鎖されています。

 

 

殉国烈士霊位碑。

 

西南戦争検定(中級)も持っておりますし、たしかな歴史知識をもったガイドが必要なときには、ぜひご用命ください。観光ガイドタクシーは1台あたりの料金制となりますので、大人数であるほどお得になりますよ゚(^_^)

 

円台寺の磨崖仏群(熊本県指定文化財)

 

鎌倉中期に作られた、崖壁を削って作られた磨崖仏群(まがいぶつぐん)を今回はご紹介いたします。熊本で発見されているものとしては最古のものといわれています。

 

 

前回ご紹介した植木町の菱形池から、徒歩1分くらい。上の写真を撮影した位置から、少し左を向くと菱形池の入り口が見える感じです。磨崖仏を見るためにはこれを上りますが、このとおり柵も作られていますから、危なくはありません。

 

 

ふう・・・。危なくはないけど・・・そこそこ上るので、軽く息があがりましたよ。

 

 

どうですか!700年以上もの昔、鎌倉時代に彫られた阿弥陀如来像がこれこのように、現存しております。円台寺自体はすでにありませんが、そのときに彫られた像だけはいまも残っています。もっとも、磨崖仏は当時500体ほどあったといいますから、多くがすでに風化し、崩壊したものと思われます。

 

 

善光寺式阿弥陀三尊像。当時は彩色が施されていたといいますが、現在ではその痕跡も残っておりません。

 

 

蓮台に座す、阿弥陀如来坐像。こちらは、うっすらと赤い彩色の痕が残っていますね。

 

 

駒形にくり抜かれていたところにも、当時はおそらく阿弥陀如来像があったのでしょうが、風雨によって風化してしまっています。

 

 

熊本県指定史跡
円台寺磨崖仏群(昭和40年2月25日指定)

円台寺は、比叡山延暦寺の末寺で、豊後国の守護大友能直によって建立された。
円台寺が栄えたのは鎌倉時代で、その後、一時衰えたが、応仁2年(1468)再興され、大永6年(1526)には大友義鑑によって
修造されたといわれている。円台寺の麓にある菱形池から、円台寺までの凝灰岩の崖面に、阿弥陀三尊立像を中心に
釈迦如来座像など大小の仏像が彫られている。作者は不明であるが、鎌倉時代の作で写実的で張りがある。
これらの中には、光背や龕中に黒、黄、赤の彩色を施したものもみられる。
以前はまだ数も多かったが、かなり崩壊したと思われる。
残された磨崖仏は県内でも最も古く、かつ優れたものである。
また、近くには建久4年(1193)と同7年の銘をもつ、石造笠塔婆(県指定)のほか、正嘉元年(1257)銘の
宝塔、塔身、天正6年(1578)銘の板碑などの古塔がある。
熊本県教育委員会

 

 

熊本の人は、自虐気味に「熊本には見るところがないから・・・」とよく言われますが、実はいろんな見どころがあるんですよ!むしろ熊本の人にこそ見てもらいたいような史跡などもたくさんありますから、観光ガイドつきタクシー「加来タクシー」に乗って、熊本を再発見してみませんか!

 

熊本水遺産・菱形の池(ひしがたのいけ)

 

加来タクシーは熊本の豊かな水資源の魅力をPRするべく、「くまもと水守」にも登録しておりますので、熊本の名水の情報は、定期的に発信していきたいと思っています。(くまもと水検定1級も持っております!)

 

そこで今回は、植木町円台寺地区にある「菱形の池」をご紹介いたします。

 

 

肥後国誌によれば、応神天皇(おうじんてんのう)がお生まれになったときの産湯に使われたと伝えられているほど、歴史のある池になります。

 

 

なぜ菱形に囲われているのか?ということは諸説あるようですが、かつて農民が馬を沐浴させたりしていたため、神聖な場所が汚染されぬように石で囲ったのではないか・・・という説があります。

 

 

訪問した日の池の水は、すこし白く濁っていましたが、もしかすると生活排水なども混入しているのかもしれません。

※現在は飲用には使われておりません。

 

この地区にある菱形八幡宮とのつながりの深い池になりますので、セットで訪れるとよいかなと思います。あと、鎌倉中期に岩壁に掘られた仏像が見られる円台寺磨崖仏(えんだいじまがいぶつ)もここから歩いて見に行けますので、こちらも見事ですので、ぜひに。(重要文化財となります。)

 

相良(あいら)のアイラトビカズラ

 

ゴールデンウィークに突入しましたが、この時期にどこに行くか迷ってらっしゃる方に、ぜひおすすめしたい観光スポットがございます。それは、熊本県山鹿市菊鹿町の相良観音(あいらかんのん)です。なぜこの時期におすすめかというと・・・

 

 

4月下旬~5月上旬に開花する、この地区に自生する、樹齢1000年といわれるアイラトビカズラ(特別天然記念物)が満開になるからなのですね!日本に自生しているのは、この相良地区と長崎県のトコイ島(無人島)の2カ所のみになりますので、とても貴重な花なのです。

 

 

あ~、まだ早かったか・・・。

 

取材に訪れた4月26日時点では、まだ満開にはほど遠い状況でした。ちょうどいい時期を見計らったつもりだったのですが、今年は桜の開花も遅かったですしね。ですから、ゴールデンウィークのときにはちょうど見頃になっていると思いますよ。

 

 

源平合戦のときに相良寺が焼き討ちにあっていますが、そのときに相良観音様がこのトビカズラに飛び移ったという伝説から、「アイラトビカズラ」の和名がついています。

 

学 名:ムクナ センペルビーレンス
中国名:常春油麻藤(じょうしゅんゆまとう)

飛蔓(トビカズラ)伝説
昔、源平合戦の頃のはなしである。壇の浦の合戦で敗れた平家の残党が相良寺に立て籠もった。当時、この地には本堂ほか九十九の坊舎建ち並んでいたというが、これを豊後竹田の源氏方武将緒方三郎なるものが焼討ちした。この時、観音様は飛翔してこのカズラに飛び移り危うく難をのがれられたという。
また、一説には、観音様がカズラに姿を変えて飛来され、走落の坂を下る緒方三郎の乗馬の足にからみつかれ、落馬したところを残兵が討ち取ったとも伝える。
「トビカズラ」の名の由来について、この二つのはなしが伝わっている。

霊華「優曇華」(うどんげ)
トビカズラの花は古来優曇華(うどんげ)と呼ばれ、「霊華時を隔てて開花することあり。開花すれば必ず国家的事変がある。」と言い伝えられてきた。昭和4年5月、満州事変勃発の前年に35年ぶりに開花をみたという。優曇華は、仏教では3千年に一度花を開きその花の開くときは金輪王が出現するといい、また如来がこの世に現れるといわれている。
近年では毎年のように4月下旬から5月上旬にかけて暗紫色の房状の花をつけている。

 

 

日本では花粉を媒介する昆虫がいないので結実しませんが、人工授粉をさせてみたところ実をつけたので、中国の常春油麻藤と同一の植物であることが確認されました。アイラトビカズラがどのように中国大陸から渡ってきたのかは、わかっていません。

 

 

ちなみにこの地に、2018年秋に熊本ワインさんの「菊鹿ワイナリー」が作られるという話でしたよ。そちらも楽しみですね。

 

豊岡の眼鏡橋(とよおかのめがねばし)

 

今月は「田原坂の戦い」を中心にご紹介させていただいておりますが、本日は「豊岡の眼鏡橋」をご案内させていただきます。田原坂のふもとにかかる歴史ある石橋で、西南戦争に参加した政府軍兵士が、激戦地・田原坂に赴くときに越えていった橋です。

 

が、その前に腹ごしらえ・・・

 

玉東町・木葉駅近くにある、「そば是 上々吉」さんで、10割蕎麦をいただきます!久しぶりに訪れたら、お店が古民家風にリニューアルされていたので、驚きましたよ。おいしいお蕎麦が評判になったので、お店が大きくなったということなのでしょう。

 

 

おいしい蕎麦のいただきかたの解説がありました。かなりのこだわりようです。

 

 

本格的な蕎麦を食べたかったら、間違いの無いお店ですよ!田原坂近くでお食事をされるときには、個人的オススメのお店です。正面の月極駐車場内に、お店の駐車スペースが確保されていますので、お車でご来店されても大丈夫ですよ。

 

 

本題に戻りますが、豊岡の眼鏡橋とは、およそ200年前に作られた石橋で、年代の判明している石橋としては、熊本最古のものだということです。

 

 

輪石のずれを防止するために、石と石の間に、楔石(くさびいし)が打ち込まれているのも特長です。古い石橋で時折見られる工法です。

 

 

豊岡の眼鏡橋 熊本市指定文化財
「この石造眼鏡橋は両脚の幅11.2m、高さ4.4mある。輪石の厚みは45cmで、輪石と輪石を楔石で継いだ単一アーチ橋である。最後の行に、享和壬戌二年十月吉日の陰刻がある。年号のはっきりしている石造眼鏡橋では、熊本県内で最古の橋といわれている。
享和二年は1802年であるから、江戸時代好期にあたる。
この橋を渡り、川沿いに添って旧道があり、国道208号線へ出た所に「田原坂攻撃官軍第一線陣地跡」の石標が建っている。官軍は田原坂本道の丘の右翼及び左翼へこの川沿いの旧道を通り、本眼鏡橋を拠点に出撃して行った。
川の名は滑川といわれ、この眼鏡橋は左記有志の篤志により架橋されたと推定される。
上流側の楔石に鈴麦村田原村庄屋彦次郎、正院会所詰弥兵衛、
右同総代寿三郎、右同甚兵衛、右同良助
下流側の楔石に山本郡口川、内田手永月田村、石工理左衛門、
右同吟右衛門、右同次平、右同惣八、正院手永円台寺村、右同大平、南関手永関東村、大工嘉右衛門とある。」
熊本市教育委員会

 

 

現在、車両の通行はできないよう石杭が打ち込まれていますが、歩行者道としては現在でも利用されています。写真左手に見える坂が、田原坂です。

 

 

上の写真の左手部分を拡大してみました。当時は荷馬車が通れる幅員を持つ道路がここしかなかったということで、この田原坂争奪をめぐる激しい戦いになったのですね。




 

そば是 上々吉

〒869-0303 熊本県玉名郡玉東町木葉600−3

0968-85-6866

馬上の美少年/束野孝之丞戦歿碑(萩迫柿木台場)

 

雨は降る降る じんばは濡れる 越すに越されぬ 田原坂
右手に血刀左手に手綱 馬上ゆたかな美少年

 

荻迫(おぎさこ)薩軍台場跡には、『田原坂甚句』に歌われる「美少年」のモデルとされる、薩軍少年兵「束野 孝之丞」(つかの たかのじょう)の墓碑があります。わずか15歳で西南戦争に参加し、この地で若い命を散らしました。(鹿児島の遺族会名簿には「束野」ではなく「塚野」とあるそうです。)

 

馬上の美少年が誰であるか?はさまざまな議論がありますが、現在では、当時西南戦争に参加した少年兵を総称したというのが定説になっているようです。

 

 

萩迫柿木台場のあたりは、特に戦闘が激烈を極めたということです。「台場」(だいば)とは、砲台や野戦築城(基地)のことを指します。墓碑の近くに台場が存在していたということです。

 

 

植木町老人クラブ連合の設置した案内板です。この墓地が作られた経緯が記されています。田原坂を突破された薩軍は、荻迫で官軍の進軍を食い止めようとしました。

 

 

昭和7年、陸軍大臣であった荒木貞夫が感銘を受け、慰霊碑を贈りました。碑の側面には「西南ノ役、僅カ十五歳ニシテ薩軍ニ投ジ、奮戦、此地ニ没ス、時ニ明治十年二月廿八日、義軍遂ニ敗レシモ、君ガ英霊、永ク此ニ眠ラン」と記されています。少年兵らしく、小ぶりな墓碑となっていますが、いまでも献花が絶えることはありません。

 

 

薩軍戦没者慰霊碑。周囲にビニールハウスが見えることからもわかると思いますが、この辺は植木町の農家のみなさんの農地となっています。訪れるときの注意事項ですが、この辺には駐車場がございません。路上駐車などしますと、近隣の農家の皆様のご迷惑になりますので、なるべく公共交通機関で訪れるようお願いいたします。(加来タクシーをご指名いただければ、ていねいな解説付きでご案内いたしますよ。)