高瀬裏川花しょうぶまつりと、石橋群

 

玉名での初夏の納涼イベント、高瀬裏川花しょうぶ祭りが今年も開催されました。平成29年でもう27回目にもなるんですね。今回はイベント開催前に、事前調査に来ました。花菖蒲は約6万5千本といいますから、かなりのものですよ。

 

 

訪問したのが5月24日で、イベント(5月26日~)の2日前だったため、花菖蒲はまだ、ぽつぽつと咲いているものがあるかな、くらいでした。アイラトビカズラも開花が遅かったですし、今年は全体的に花の開花が遅いのかもしれません。

 

 

本題にはいるまえに、玉名の地名の由来を軽くご説明しておきますと、日本書紀では「玉杵名邑」(タマキナムラ)との記述があるようです。和名抄には「多萬伊名」(タマイナ)との記述があり、天満宮託宣記(太宰府天満宮)には「玉井名」とあるようです。ここから、いまの「タマナ」という呼び方に変遷していったようです。(玉名市ホームページ「玉杵名の歴史」より)

 

 

江戸時代からある歴史ある石橋などもたいそう見事ですし、なにより水辺をきれいな花を見ながら散策するのは、心が洗われるようですよ。

 

7つの石橋からなる高瀬裏川石橋群のうち、高瀬眼鏡橋は県指定重要文化財となっています。

 

 

秋丸眼鏡橋。天保3年(1832年)に造られた、熊本県でももっとも古い部類にある石橋です。熊本県の石橋として最も有名な「通潤橋」よりも、さらに22年も古いものです。(ただし、いまの姿は裏川河川局部改良事業に伴い、解体・移築されたものです。)

 

水流調節を行う分流板を備え、洪水時の逆流による冠水から畑を守る役割を果たす、技術的にとても秀でている珍しい橋となります。

 

 

風情ある石畳に、苔むした石垣・・・この風情がたまりません。夜間はライトアップされて、また違った美しさが際立ちます。

 

 

もっとも幅が広い土戸橋。

 

上流部には、周辺商家の石垣に合わせ、当時の商人達が、荷物の搬出入のために築いた石橋群を見ることができる。この石橋のいくつかには、橋台に荷車用の車溝がほられており、当時の商人の知恵と工夫を見ることができる。(案内板より)

 

 

小崎橋。

 

 

小崎橋。車溝がついているのがわかります。人がすれ違うのがやっと、荷車などは交互に通さないと無理ですね。

 

 

酢屋橋。

 

 

酢屋橋。車溝はなく、中央がくり抜いてあるのがわかります。橋によって作りが違うのが面白いですね。

 

 

高瀬眼鏡橋。嘉永元年(1848年)、町奉行の高瀬寿平らによって架けられました。

 

 

高瀬眼鏡橋は歩行者専用道路として、いまでも機能しています。

 

 

お祭り期間中は、コンサートの開催などもあり、毎年20万人がおしよせるイベントとなっております。高瀬地区では西南戦争の遺跡なども多く存在しますので、お祭りのついでにいろいろ歴史的史跡を見て回りたい、という方は、観光ガイドタクシー「加来(かく)タクシー」をご利用くださいませ。

 

高瀬船着場跡~俵ころがし場

高瀬大橋

 

玉名市の高瀬船着場跡を、今回はご紹介いたしますね。古くは高瀬津と呼ばれており、南北朝の時代にはすでに港としての体裁は整っていたそうです。加藤清正の時代になると、河川の治水工事と米の集積場としての大規模な整備を行い、交通の中心として、重要な港として栄えました。

 

 

その後、細川忠利公により高瀬は肥後五ヶ町に指定され、町奉行所や税関、造船や建設の役所、海軍などの重要施設なども置かれるようになりました。

 

玉名市指定史跡 高瀬船着場跡

加藤清正は天正16年(1588年)肥後入国後、高瀬川(菊池川)堀替工事を天正17年~慶長7年(1589~1602年)に行い、この地に菊池川流域産米の集積、大坂(阪)への移出のための米倉(御蔵)と港を造った。次代の細川氏は更に施設の整備拡充に努め(天保12年~1841年頃)、年間24万俵に及び藩米を移出する藩内第一の拠点としていた。

「御蔵」は西南の役で焼失したが、俵ころがし場や揚場は往時のの港がしのばれ、玉名市の近世歴史を知る上で貴重なものである。(玉名市教育委員会)

 

 

米の移出に用いられた俵ころがし場(新渡頭)です。坂を下りきったところにある出っ張りが、俵受けです。

 

 

俵ころがし場を上から見たところ。石はとてもつるつるしていて、この日は雨天だったこともあり、歩いて上ろうとしたら滑って転びそうになりました。

 

 

図説。点線の四角は、西南の役で焼失した御蔵の想定される配置図です。現在は御蔵の名残を残すものは何もありません。

 

 

かつては船着場としてにぎわったようですが、いまではこの周辺は低層住宅地帯で車通りも少なく、とても静かなものです。

 

 

俵ころがしを市街方面から見に来ようと思うと、鹿児島本線の鉄橋の下をくぐることになります。

 

この鉄橋の橋脚部に使われているレンガの積み方を、フランドル積みといいます。長手と小口の煉瓦が交互に積まれるのが特徴で、明治初期まではこの積み方が一般的でした。その後はイギリス積みのほうが堅固であるとして、イギリス積みが主流になってきます。このように、レンガの積み方1つでも、造られた年代を推定することができます。

 

 

高瀬裏川筋歴史散策マップ

高瀬地区は、かつて水運の発展から、上流域で収穫された高瀬町(菊池米)の集積地として発展してきた町である。現在も当時の御蔵や、神社、史跡等が多く残り、情緒ある古い町並みを目にすることができる。高瀬は、南北朝の時代より高瀬の津(たかせのつ)と呼ばれる軍港があった町であり、菊池一族が、朝鮮との交易を始めたことから、物資の集散地として発展してきた。朝鮮の史書である「海東諸国記」や明の書物である「図書編」にも”達家什(たかせ)”として紹介されている。

 

 

玉名は、西南の役の舞台ともなりました。高瀬大会戦といいまして、この戦いで西郷隆盛の末弟である西郷小兵衛が戦死しています。高瀬船着場跡から歩いて行ける距離にありますので、あわせて訪れられるとよいかと思います。

青木磨崖梵字群~青木熊野座神社

 

崖に巨大な梵字が数多く彫られている場所が、熊本県玉名市青木にあることをご存じでしょうか。

 

これは、青木磨崖梵字群(あおきまがいぼんじぐん)といって、平安末期から室町時代にかけて彫られたものではないかと推定されています。500~800年ほど前に当時の修験者が彫ったものとされており、梵字1文字が仏様や菩薩様を意味しているといいます。

 

 

梵字と、仏様や菩薩様との対応表も掲示されていました。どんな史跡でもそうですが、正しい意味や背景がきちんとわかった上で見ないと、やはり面白くないのではないか、と思います。それゆえに、こういう掲示があるのはうれしいですね。

 

 

梵字自体を神聖な文字として崇められてきたのは、仏教伝来とともにはいってきた梵字が、あまりに難解であったためではないか、と言われています。

 

 

青木熊野座神社では磨崖梵字群も見応えがあるのですが、3本のナギの大木もたいへん見事です(玉名市指定天然記念物でもあります。)。樹齢400年といい、不動明王のご神体として奉られています。

 

青木磨崖梵字群(熊本県指定史跡  昭和50年3月24日指定)
梵字は、古代インドの表音文字で、中国や日本では、梵字のもつ呪術的威力が強調され、梵字1字が一定の仏や菩薩を表すようになった(種子という)。
ここに見られる巨大な梵字群は、平安末期から鎌倉~室町時代に盛んになった修験者によって刻まれたものと推定されている。
高さ約9mの凝灰岩の切り立った崖に力強い薬研彫りで陰刻された種子は、落下した岩の中に認められる8字を含め、20字が確認される。なかでも、最大の梵字、(倶利伽羅龍王の種子)は、蓮華座を含め3.8mの長さをもち、中心に剣を貫き、当梵字群中最も素晴らしいものである。

 

 

500年以上もの風雨に晒され、耐えているのですから、ものによっては認識が難しくなっているものもあります。右は釈迦如来を意味する梵字です。

 

 

 

梵字群最大規模の梵字、剣不動明王。2つの梵字を剣がつらぬき、一体化させたもので、梵字群の中心となるものです。

 

 

丸3つで構成されている梵字群は、阿弥陀三尊を意味します。いちばん上の丸内の梵字がキリクといって、阿弥陀を意味しています。

 

阿弥陀三尊と剣不動明王にはさまれたものが、梵字群最小のものとなる、大日如来を意味するアーンクです。こちらも、阿弥陀三尊と同じように丸で囲まれていますね。

 

 

残念ながら、このように崩れてしまって判読不能なものもいくつもありました。500年以上の風雨や地震などに耐えてきたのですから、むしろここまで残っていることが奇跡なのかもしれません。

 

 

途方もない年月を経ている梵字群とナギの大木は見応えがありますよ!熊本にこんな風景があったのかと驚かれるはずです。

 

海軍体操の創始者・堀内豊秋海軍大佐(御馬下の角小屋資料館)

 

御馬下の角小屋資料館では、堀内家最後の当主となった、海軍大佐・堀内豊秋(ほりうちとよあき)氏の資料も数多く展示されていました。堀内式海軍体操の考案者で、日本初の落下傘部隊の隊長でもありました。

 

 

資料館にある堀内豊秋氏の展示物は、もともとは御馬下の角小屋の2Fにあったものでした。ですが、ごらんの通り、古い日本家屋特有の急階段、ご年配のかたなどが上るのがとても大変だということで、2Fにある展示物の一部を資料館に下ろしたり、複製品を資料館で展示したりしているそうです。

 

 

御馬下の角小屋の間取り図です。茶の間の階段からあがった2Fが、堀内豊秋氏の記念館になっています。

 

 

オランダ領インドネシアのメナドを落下傘部隊で制圧し、オランダ軍に従属させられていたインドネシア人を解放しました。メナド制圧後、堀内はそのままインドネシアで現地司令官として軍政を敷きますが、「女子供には手を出すな、弱い者いじめをするな」という信念のもと、善政を敷いたので、とても住民に慕われたということです。

 

海軍大佐 堀内豊秋

明治33年(1900年)熊本に生まれる。

大正11年(1922年)海軍兵学校卒業(50期)海軍砲術学校に共感として在職中、かねてより痛感していた海軍体操改正の必要性を認め、自らデンマーク体操を日本人向けに改良した堀内式体操を考案、海軍体操の全面的改正に貢献した。

明治12年(1937年)に始まった日華事変に際しては、陸戦部隊指揮官として南シナ海の厦門(アモイ)に進駐、2年間軍政に携わり、その間現地住民の信望を一身に集め、堀内部隊交代の報が伝わると、住民はこぞって同部隊の駐留継続嘆願書を現地の最高司令官に提出した。

昭和15年、部隊が同地を去るに当たり、住民は、「忘恩碑」と銘した記念碑を建立し大佐の徳を偲んだ。

第2次大戦では、昭和17年1月、日本初の落下傘部隊の先頭に立ち活躍、成功を収め、内地期間後、天皇陛下に異例の単独拝謁を許される栄誉を得た。

終戦後、メナドにおける部下の過失に対知る責任を問われてオランダ軍事法廷に召喚され、現地弁護人の懸命な努力にも拘わらず、昭和23年9月25日刑死、48年の生涯を閉じた。

オランダ軍は刑執行に当たり、特に儀仗兵を配して武人に対する最高の敬意を表したという。

 

 

ここからは、御馬下の角小屋2階の堀内豊秋関連の展示スペースです。足腰が丈夫なかたは、ぜひこちらもご覧くださいませ。記念館においてある資料の原本などがあります。

 

 

インドネシア・バリ島の住民から贈られた、樹脂と蝋で描かれた﨟纈染めの絵画。花のように見える白い模様は落下傘を表しており、白馬が天から現れて民衆を助けてくれるというメナドの伝承を暗喩したものと見られます。

 

 

これもインドネシアの住民から贈られたという釣鐘ドラ。故人愛用の品だということです。

 

 

 

堀内大佐のお言葉

九月二十三日、突然刑執行の通知を受け、二十五日午前八時に執行されることになった。
この二日間、インドネシア人から尊敬を受け、何物かを残した。
妻よ、子供たちよ、桜花よりも清く、少しの不安もない。
兄弟たちよ、力をあわせて母上に孝養を尽くしてくれ。
人を頼ってはならない。あくまでも清く正しい生活をなせ。
不幸な妻よ子供よ、父はなくとも決して自暴自棄すること勿れ。
人は自分を信じ努力を続ければ、必ず偉くなれる。
さようなら

 

堀内大佐は戦後、オランダ政府よりB級戦争犯罪人容疑指名により、巣鴨刑務所に収監されます。罪状は投降したオランダ兵を虐待した罪だということですが、これは同じく戦犯裁判にかけられていた12名の部下の罪をかぶったものとされています。

 

 

また、堀内大佐が制圧したメナドの守備隊長が自ら裁判官になっていたり、堀内大佐の弁護人を裁判長が恫喝したり、復讐裁判としかいえぬものでした。(「私は裁判長から、堀内大佐を弁護するとあなたのためによくないよ、といわれ、判決日を俟たずに帰国させられました」堀内大佐の弁護人・井手諦一郎氏の証言)

 

 

なお、資料館には堀内大佐の資料のみならず、堀内家に伝わる、江戸時代から昭和にかけての歴史資料が多数展示されています。しかも、これで入館料無料なのですから(かつては大人200円だったはず・・・)、見に行かない手はないですね。

 

御馬下の角小屋~豊前街道

 

大河ドラマで知られるようになった「篤姫」さまが、江戸参府においてご休憩なされたということで、一躍注目されるようになったのがここ、御馬下の角小屋(みまげのかどごや)です。国道3号沿い(四方寄町)にありますので、熊本の人でしたら、中に入ったことはなくても、一度はこの通りを通ったことはあるのではないでしょうか。

 

御馬下(みまげ)とは、このあたりの古い地名で、いまでもバス停などでその名を見ることができます。

 

 

ドラマでは篤姫様ご一行は、瀬戸内海を海路で進んだことになっているのですが、実際には陸路を進んだと思われる古い記録が見つかっているのだそうです。そして、1853年8月29日に御馬下の角小屋に立ち寄り、この「御成りの間」(おなりのま)にて、ご休憩なされたということです。

 

 

御成の間の説明書き。篤姫様のみならず、豊前街道(ぶぜんかいどう)を参勤交代で通るお殿様などが、ご休憩のために立ち寄られています。

 

嘉永5年(1853年)8月29日に薩摩島津の篤姫が立ち寄り、休息したといわれる部屋です。この年の6月には、浦賀沖にペリーが開国を求めて黒船4隻を率いてやってきています。

 

 

手前が高貴な方がお休みになられる御成の間、奥が、次の間です。

 

篤姫さまが立ち寄った日は、残暑の厳しい夏の時期であり、スイカを食べたがられて、たくさんのスイカをお召し上がりになったそうです。

 

 

殿様専用の便所です。糞尿を受ける壺などはなく、くり抜いた床の下に置かれた砂箱を毎回交換するという方式です。この仕様になっているのは大きな理由がありまして、下手に糞尿受けなど置こうものなら、暗殺者などがそこに潜むなどということができてしまうからですね。

 

この便所は、殿様専用の便所です。便所の下には砂を厚く敷きつめた砂箱が置いてあります。

殿様は、この砂の上に便をされました。大便はそのたびごとに、ご典医が調べたそうです。

なお、便所の横には、常に警護の武士が待機していたとのことです。

 

 

殿様が便所を利用されている間、警護の武士が待機していた場所です。この下の隙間から、砂箱を取り出しました。

 

 

実はこの屋敷、旅籠(はたご)ではありません。問屋と質屋を営んでいた、庄屋の堀内家のお屋敷なのです。とても立派な屋敷であるがゆえ、お殿様などが参勤交代でお休みになるときに利用されていたということなのです。

 

 

篤姫さまがお召し上がりになったスイカを冷やしたと言われる井戸。熊本水遺産に指定されています。

 

 

質屋や問屋を営んでいたときの古道具なども数多く所蔵されており、しかもガラスケースにも入っておらず触れることもできますから、こういった古道具が好きな人にはたまらないのでは・・・と思います。

 

 

いまでいうところの、手提げ金庫についてるコインカウンターでしょうか。お金を素早く正確に数えるためにこんな道具があったんですね。

 

 

大福帳。商家での売り買いを記録した帳面です。

 

 

さおばかり。このほか、とても紹介しきれないほど多くのものがありますので、あとは実際に訪れて見てください。古道具を歴史ロマンにひたりつつ、味わってみはじめようものなら、ここは1日かかっても堪能しきれません。

 

 

 

日本初の落下傘部隊隊長である、堀内家最後の当主、堀内豊秋氏に関しての資料も数多く収蔵されているのですが、それはまた次回。

 

歴史公園鞠智城(きくちじょう)・温故創生館

 

今回ご紹介させていただく鞠智城(きくちじょう・くくちのき)は、朝鮮式山城という方式の古代山城です。戦国時代に活躍した日本式のお城とは異なり、朝鮮によってもたらされた築城技術を用いているのが特徴です。

 

まずは、鞠智城の資料館である、温故創生館にお邪魔しました。

 

 

鞠智城イメージキャラクターのころう君がお出迎え。なかなか可愛らしいデザインです。鞠智城内には、国内の古代山城で類を見ない、4つもの八角形鼓楼跡が見つかっていまして、それから名前を取ったのだろうと思います。

 

 

八角形鼓楼の模型です。日本ではまず八角形という形状の建築物は見られませんので、当時同盟関係のあった、百済の朝鮮人からの指導があったものと思われます。その特別な形状から、見張り台として用いられたのか、太鼓などで時を知らせる役割があったのではないかと考えられています。(イベントで、ころう君がそう言っていました。)

 

 

古代山城は大別すると、「朝鮮式山城」「神籠石式(こうごいししき)山城」の2つにわかれます。分け方は、日本書紀や続日本紀などに記載があったかどうか、という1点のみです。鞠智城は、続日本紀に記載がありますので、朝鮮式山城となります。(「大宰府をして大野、基肄、鞠智の三城を繕治せしむ」)

 

いずれも外国勢の侵略からの防衛拠点として作られたのだと考えられていますが、神籠石式はこれほど大規模な土木工事、しかも防衛拠点の整備という国家プロジェクトであるにもかかわらず、日本書紀などに記載がないというのは、とても不思議な感じがします。そのため、長年にわたって、神籠石式山城は、「霊域説」と「山城説」にわかれて議論されてきました(神籠石論争といいます)。いまでは、山城説が定説となっています。

 

古代山城は、熊本城のような戦国時代に活躍した日本のお城とは違い、国家をあげて整備したものであるという点が特徴です。鞠智城は大宰府の防衛のための兵站基地としての役割があったのだと考えられます。

 

 

ではなぜ、古代山城のごとき対海外の防衛拠点が当時必要だったのでしょうか。

 

長年、倭国の同盟国であった百済は、660年に唐・新羅連合軍に滅ぼされたわけですが、その滅亡した百済残党による百済復興運動に援軍を派遣したのです。その結果、白村江(はくすきのえ)の戦いで、百済残党と倭国の連合軍は大敗してしまいました。

 

その結果、倭国は唐・新羅による追撃を懸念しなくてはならなくなったわけです。国史上はじめて、日本は海外からの脅威にさらされることになります。これにあわてた大和朝廷は、大宰府防衛のため古代山城の築城をすすめ、烽火(のろし)を用いた通信手段を整備し、防人を東日本から九州に派遣したのです。

 

 

古代山城サミットでは、当時の主要な通信手段であった烽火(のろし)を用いたリレーを行いました。

 

 

2011年に行われたリレーでは、大宰府から鞠智城までの100kmを、わずか47分でつなぎました。

 

 

館内では、ころう君とくまモンのツーショット写真がたくさん展示されていました。

 

 

ころう君は週1回ほど館内に登場するようですが、今回はその日程ではなかったので、実際に見ることはできませんでした。どうしても会いたいという方は、事前に確認したほうがよさそうですね。

 

 

2Fは展示スペースとなっていました。復元された八角形鼓楼や米倉、兵舎が一望できます。朝鮮式の城は非常に広大な敷地を持つために、時間的制約もありましたので、城跡を歩いてまわるのは断念しました。家族で子どもさんを連れて、ハイキングがてら歩き回るといいんじゃないかな、と思います。

 

 

貯水池で見つかった菩薩立像。左が発見当時のもののレプリカ、左が当時の状態を復元したものです。なんのために貯水池に沈んでいたのかは、まだわかっていません。

 

 

鞠智城のことがわかるショートムービーの上映もされています。

 

 

そうそう、刀剣女子に人気の同田貫正国(模造刀)の展示もありましたよ。鞠智城とは時代がかなり違うのでは?と首をひねりましたが、同田貫はこの鞠智城跡のすぐ東側の、稗方地区で作られていたために、特別に展示しているそうでした。

 

 

古代山城は時代が1300年も遡るために、わからないことも多く、建物も現存しておらず、研究途上のようでしたが、発見された当時の遺物・遺構をつなぎあわせ、当時の姿を考えてみるのもいいなと思いましたよ。

菊鹿の栗まんじゅう(相良茶屋)

 

菊鹿地域では、くりまんじゅうが名物となっています。先日おとずれた相良寺でも、参道添いにはこのように、くりまんじゅうを扱うお店が建ち並んでおります。

 

こちらは泉水園さんの店舗です。

 

 

こちらは相良茶屋さん。

 

さて、どっちにはいったものか迷ったあげく、「こっちは元祖と書いてありますよ!」と同行のカメラマンさんがいわれるので、こちらに入ってみました。

 

 

TKU(テレビ熊本)の「ぴゅあピュア」で紹介されたことがあるそうで、外には看板もたっていました。

 

 

「ピュアぴゅあ」のほか、「英太郎のかたらんね」「熊本日日新聞」なども取材に来ているとのこと。

 

栗まんじゅうは8個入りで640円とお手頃!とりあえず、1個ずつ頼んでみました。

 

 

店内で食べていいかとおばあちゃんに尋ねたら、お茶まで出してくださいました。

 

風味付けのハッカの香りが食欲をそそり、また、栗の自然で上品な甘さがたまりません。

 

 

ハッカの葉がこのようにはりつけてあります。

 

 

相良茶屋の名物おばあちゃんと記念撮影。

 

気さくに対応してくださった、やさしいおばあちゃんです。今回は取材協力ありがとうございました。

相良観音(吾平山相良寺/安産祈願・水子供養)

 

熊本で安産祈願の神様といえば、相良観音(あいらかんのん)ですね。我が家では、もう子供は全員立派に巣立っていきましたが・・・、若いご夫婦でしたら、一度は安産祈願で相良観音様にお祈りに行かれるといいでしょうね。

 

 

実はこの金色に輝く千手観音像、木製座像としては、国内最大の千手観音像なんですよ!近くで見るとまたとても神々しく、うつくしい像です。

 

観音様の手の数は42本ですが、合掌をする2本の手を除くと40本。そして、観音様は1本の手がそれぞれ25の世界を救うとされているので、40×25=1000本という計算になります。25の世界というのは、仏教では世界を25種類に分類している(これを三界二十五有といいます)からです。天上界から地獄までいろいろありますが、二五有の一番上を「有頂天」といいまして、「有頂天になる」という言葉はここから来ています。

 

また、すべての手のひらには目があり、手も目も千ある仏様なのです。また、仏教においては千とは無限を意味するので、民衆の救済手段や力を無限に持つ仏様ということになります。

 

 

相良寺は、正式には吾平山医王院相良寺といいます。創建は814年といいますから、実に1000年を超える歴史があります。(ただし、明治時代にいったん廃寺となり、明治10年に再建されています。)相良寺が安産や子育てに霊験があるとされるのには、以下のような由来があるとされています。

 

61代朱雀天皇の時代、皇后さまが子宝に恵まれなかったのか、ご出産で苦しんでおられたのか定かではございませんが、当時、皇室の勅使がご来山になり、7日間本堂にこもられ一心にご祈願されたところ、無事に62代の村上天皇さまがお生まれになられた(オフィシャルページ「相良寺の縁起と由来」より)

 

 

境内には、アイラトビカズラの分植樹もあります。

 

訪問当時はゴールデンウィーク直前で、今年は花の開花が全体的に遅く、残念ながらまだ咲いてはいませんでしたね。植物に地名がはいっている由来などは、以前ご紹介した記事を参照のこと。

 

 

相良観音の歌碑がありましたが、これは・・・?作曲:河口清喜、作詞:森英雄となっていますが、地元で歌いつがれている民謡でしょうか。どなたか由来をご存じのかたがいましたら、教えてくださいませ。

 

 

相良寺仁王像。

 

(相良寺は)山号を吾平山といいますが、吾は自分自身のこと、平はおだやかなこと。つまり常に気持ちをおだやかに保ちましょうという意味が込められています。(熊本県観光サイトなごみ紀行より)

 

 

相良寺は水子供養でも知られているお寺です。子をなくした親の気持ちを考えると、非常につらい心持ちになります。せめてお祈りをさせていただきました。

 

 

水子供養の場所では、小さい千手観音像がたくさんありました。

 

 

先祖供養・水子供養の大切さについて。

 

 

販売所にて、御朱印をお願いしたところです。特に安産祈願のお守りがとても充実しています。

 

 

こちらが書いていただいた御朱印です。中央に大きく、千手観音と書いてくださっています。

 

 

看板猫。

 

 

初詣のときなどは、参道を人が埋め尽くすほどになる人気のあるお寺です。それほど御利益のあるお寺だということですね。山鹿市に来たらはずせないスポットと思います。相良寺参道では、菊鹿の栗まんじゅうがおいしいと有名なのですが、それはまた次回に。

 

一本松公園~石のかざぐるま

 

石のかざぐるまを知っていますか?九州唯一、石でできたかざぐるまが山鹿市鹿本町の一本松公園にございます。このオブジェ、もちろん風がふけばちゃんと回るんですよ!

 

 

どうですか、このデカさ!羽はじつに1.5トンの重さがあるそうなんです。これがまわるのだから、よほどよいベアリング(軸受)を使っているのでしょうね・・・。すこし背のある人が頑張れば、羽根を手でまわすこともできます。

 

この石のかざぐるまは、高知県在住の彫刻家、門脇おさむさんの作品です。京都や岡山、高知などに、この石のかざぐるまシリーズがあるわけですけれど、羽根の大きさではこの植木町のものが日本最大になるんだそうです。3基ありますが、これで家族をあらわしているとか。

 

 

ただ、1つ気がかりなのは、昔はもっと羽根が長かったような気がすること。そして、この日は石のかざぐるまは回っていなかった・・・。もしかして、熊本地震で羽が一部とれていたりするんだろうか・・・?それで回っていないんだろうか?と思って、植木町商工観光課さんに伺ってみました。

 

 

「設置当初からサイズはかわっていませんよ。」(植木町商工観光課)との回答。風速3mあれば回るので、訪れた日は風もあまりありませんでしたので、故障しているとかではないようです。どうやら、記憶のなかで羽根がとても大きくなっていたようです。植木町商工観光課の職員さま、お手をわずらわせて申し訳ございませんでした。

 

石のかざぐるま概要

■長さ 中央5.5m 左右3.5m

■羽根重量 中央1.5t 左右1.0t

■在室 赤みかげ石(スペイン産)

■年月 平成六年三月

■回転力 自然の風のみ

風速3m(ススキの穂がゆれる程度)で羽根がまわります。(但し、正面から吹いた場合)

羽根の大きさでは日本一、九州唯一の石のかざぐるま

鹿本町

 

ここ一本松公園は、鹿本平野を見下ろす高台にあり、人気のお花見スポットでもあります。

 

また園内にはローラーすべり台、草スキー体験場、テニス広場やキャンプ場、特産品販売所などがあります。

 

 

広い駐車場も完備されております。前回ご紹介した清浦奎吾記念館のすぐそばですので、このへんをセットでまわるとよろしいかと思います。

 

清浦奎吾記念館(熊本県初の内閣総理大臣)

 

熊本県の内閣総理大臣は?と尋ねられたら、多くの人が「細川護熙」と答えると思います。熊本の人にすらあまり知られていませんが、実は細川さんより先に熊本で総理大臣にのぼりつめた方がいらっしゃるんです!

 

明照寺

 

その名を清浦奎吾(きようらけいご)といい、明照寺という熊本県山鹿市来民(くたみ)のお寺で生まれました。(山鹿市との合併前では、鹿本町といわれていました。)

 

 

清浦奎吾記念館は、その明照寺の隣に建てられました。来民と聞くと、地名から、「来民うちわ」がぱっと思い浮かぶ人もいるかもしれませんね。以下、パンフレットに記載されていた略歴を引用いたしました。

 

  明治9年(1876)27歳  司法省に入り大審院検事局詰となる。

19年(1886)37歳  内務省警保局長となる。

24年(1891)42歳  貴族院議員となる 欧州視察

25年(1892)43歳  伊藤内閣の司法次官となる

29年(1896)47歳  松方内閣の司法大臣となる

31年(1898)49歳  山縣内閣の司法大臣となる

34年(1901)52歳  桂内閣の司法大臣となる

35年(1902)53歳  男爵を授けられる

36年(1903)54歳  農商務大臣となる

38年(1905)56歳  内務大臣兼任となる

39年(1906)57歳  貴族院議員を免ぜられ枢密顧問官となる

40年(1907)58歳  子爵を授けられる

大正3年(1914)65歳  組閣の大命を拝するも拝辞する

11年(1922)73歳  枢密院議長となる

13年(1924)75歳  組閣の大命を拝し内閣総理大臣となる 同年総辞職

15年(1926)77歳  中国視察(4回目)

昭和3年(1928)79歳  伯爵を授けられる

4年(1929)80歳  宮中杖を授けられる

16年(1941)92歳  内閣首班奏薦の重臣会議に出席する

17年(1942)93歳  熱海米寿庵にて没す

 

 

清浦奎吾伯は、嘉永三年(1850)2月14日、明照寺住職大久保了恩の五男として生まれる。漢学をはじめ広く学問を修めた清浦伯はわが国の法律制定に大いに貢献し、後に司法、農商務、内務大臣、枢密院議長を経て大正13年1月、内閣総理大臣となる。この記念館は、清浦伯の偉業を偲ぶとともにこれを顕彰し、後世に伝えるための記念館である。

鹿本町教育委員会(現・山鹿市教育委員会)

 

清浦奎吾伯が(鹿本地区以外で)熊本でそれほど有名ではない理由としては、在任期間が短かった、というのもあります。

 

清浦内閣は、貴族院議員を中心として組閣された、超然内閣(※注1)であったために、当時の衆議院から反発が起こり(これを第二次護憲運動といいます)、対抗勢力であった護憲三派に総選挙で大敗し、約5ヶ月で内閣総辞職することになりました。なにしろ、ときは大正デモクラシーのまっただ中。いまでは当たり前となっている「政党政治」や「普通選挙」を求める民衆の声とは逆行する組閣だったのだろうと思います。

 

※注1 内閣は政党の影響を受けずに行動すべきという考え方のもと成立した内閣のことです。当時は総理大臣は元老が選ぶものでしたから、衆議院は首相選出にまったくかかわれませんでした。

 

 

関東大震災直後の内閣でしたから、復興予算なども通したかったろうと思いますが、前述の理由から、予算先議権を持つ衆議院の支持がないために苦境に立たされたものと思われます。

 

 

清浦奎吾伯の生い立ちを記したパネルです。音声付きで解説をしてくれます。

 

大正13年、75歳の清浦奎吾は熊本で初めての総理大臣になった。官界歴50年あって出世栄達の道を極めたのである。身を田舎町からおこし苦学力行し藩閥も学閥も姻戚(いんせき)もないところから腕一本で総理大臣になった。親の教えの四恩(親、先輩、友、時世の恩をいう)を忘れず、清廉、潔白、高風清節の士としての生涯は誠に立派で、近年の政官の汚濁を聞くにつけ清浦奎吾の生き方が大変尊く思われる。

 

嘉永3年(1850年)鹿本町来民の明照寺。大久保了恩の五男に産まれ幼名を普寂(ふじゃく)といった。12歳の時、熊本市浄行寺の養子となったが青雲の心にもゆる彼は寺の法燈を継ぐ気にならず来民に帰る。16歳の時、父母を説得して日田(大分)の咸宜園の私塾に入門。ここは広瀬淡窓の塾で多くの英才を代に出した所である。普寂は苦学を続け都講という塾生最高の地位につき、塾生の代範を勤めるまでになって在園6年業成って意気揚々とふるさとの土を踏んだ。この頃に「清浦奎吾」と改名した。

 

23歳の時、彼は志を立てて上京し知り合いの埼玉県令をたより、埼玉県大教授心得に任ぜられ風渡野小学校の校長として教育に力を注いだ。役人として優れていてどのポストにいても上長に愛せられ、又十分に応える手腕を持ち合わせていた。(パンフレットより引用)

 

 

館長さんがお手すきであれば、展示物について解説をしてくださいますので、より理解がしやすいかと思います。パネルにはさまっているのが、鹿本名産の来民うちわですね。柿渋を塗った渋うちわは、虫に食われず丈夫で長持ちしますし、年を経るごとに色合いが深みを増していきますから、贈答品として人気があるんですよ。

 

渋うちわは、柿渋を塗ることにより、和紙をコーティングする役目と柿渋に含まれるタンニンの働きにより防虫効果があり、丈夫で長持ちするうちわに仕上がります.年とともに色合いが深みをおびていきますので、赤ちゃん誕生の命名うちわや古希・還暦・結婚引き出物等、贈答品・記念品・おみやげに最適です。

 

 

清浦伯が亡くなったときには、大きく新聞記事に掲載されました。そのときの熊本日日新聞(昭和委17年11月6日)が展示されていました。

 

 

館内では、清浦泊直筆の書状・掛け軸や、胸像、仕込み杖といった展示物を見ることができます。

 

 

清浦先生にまつわるビデオの上映もあるんですが、このときは次の予定もありましたので、残念ながらまたの機会に、となりました。映像で見たほうがより理解が深まりますので、ご来訪のかたは、なるべく長めに予定を組まれるといいかと思います。

 

■開館時間/午前9時~午後5時

■休館日/月曜日・国民の祝日の翌日・12月29日~翌年1月3日まで

■入館料 大人210円/子供50円(団体大人160円/子供40円)

■TEL 0968-46-5127