熊本城を間近で見られる空中回廊~熊本城特別見学通路 その1

 
熊本地震以降、長らく熊本城は遠巻きに見るしか出来なくなりましたが、熊本城内に整備された特別見学通路がなかなかスゴい!というので、見学に伺いました。

熊本城に関しては、何度か記事で書かせていただいておりますので、よろしければ、熊本城の詳細については過去記事もあわせてご覧ください。

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まずは二の丸公園内に設置されている券売所で、チケットを購入します。大人500円、子ども200円となっております。わくわく座・熊本博物館のチケットを兼ねたお得な共通入園券もありますよ!

公開時間は9時から17時までです。
 

 
二の丸公園駐車場から、徒歩で法華坂をあるき、特別見学通路に向かいました。歩きながら気づきましたが、これは城彩苑に駐めたほうが近いですね・・・。

熊本城は明治政府に対する士族反乱「神風連の変」の舞台ともなりましたので、神風連討入口や、神風連首領 太田黒伴雄奮戦之跡などもルート上にあるので、一緒に見てまわれます。

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道中、まずは未申櫓(ひつじさるやぐら)を見ることができます。未申は方角でいうと南西をあらわしますので、天守から見て南西の櫓ということで名付けられたようですね。

江戸中期以降には、「諸帳方」と呼ばれる藩の文書の保存や管理を行なうための部署が利用していたようです。
 

 
二の丸公園から5分ほど歩くと、見たことがない黒い建物があらわれました。こちらが特別見学通路の受付のようで、入園券を確認されました。

コロナウイルスがまだ落ち着いているとはいえませんので、当然ながらサーモグラフィーカメラによる体温チェックがなされているようでした。

入場・退場のゲートも、しっかり分離されています。ゲート付近はどうしても人の流れがよどみますから、感染予防対策がなされているのだと思います。 
 

 
この熊本城特別通路で驚くべきは、「地上6mもの高さで、熊本城を間近に観覧するための通路が作られた」ということなんです。

つまり、震災前にはむしろ見ることのできなかった視点で、熊本城を見ることができるのだということです。「震災前の完全な姿じゃないなら、見なくていい」、そう思っている人がいたとしたら、それは間違いだと言ってあげたいです。
 

 
入場ゲートから階段をのぼってまず見えるのが、奉行丸です。細川氏の時代に奉行所が置かれたことから、そう呼ばれるようになりました。明治時代には火薬庫が置かれていました。

現在は、熊本地震で崩落した石垣の、石置き場になっています。熊本地震では、石垣全体の約3割で修復が必要となりました。
  

 
熊本市の市政100周年を記念して復元された、数寄屋丸二階御広間。数寄屋丸とは、豊臣秀吉が築城した大阪城の「山里丸」の流れをひくものです。建物の基礎となる部分の石垣が抜け落ちています。

熊本城において茶会や能、連歌などが行われ、文化的施設として活用されていたと思われます。
 


その2に続きます。

西浦荒神社

 
荒神信仰をご存じでしょうか。激しい霊威・神威をもたらす「火」にまつわる神である火の神、竈(かまど)の神を荒神と呼び、家の守護神、作物の神として、古くから信仰されてきました。

加藤清正公が荒神様の熱心な信者であったとのことで、熊本城築城に際してお城の守り神として荒神様が祀られていたそうです。
  

 
そして、およそ300年前に細川綱利公が西浦の地に別荘を作ったさいに、別荘の鬼門にあたる場所に、方除神として熊本城から荒神様が移されたのが、今回ご紹介いたします西浦荒神社であると言われています。
    

 
この火の神・竈の神を祀る荒神信仰に、仏教・修験道の三寳荒神信仰が結びついたものが、台所など屋内で祭られる荒神信仰(三寳荒神信仰)となりました。これとは別に、屋外に祀られている荒神もあり、こちらは地域共同体で祀る「地荒神」というものです。
 

 
三寳荒神は、仏教において日本独自の信仰対象となっているもので、本来の仏典には根拠がありません。荒神の形成にはわからないことが多く、その成立にあっては、日本の土着信仰を核として、密教、道教、陰陽思想、陰陽道が複雑にからみあっているものと思われます。
 

 
熊本県の荒神信仰は、屋敷荒神と三月荒神がありますが、なかでも熊本県北部地域で信仰される三月荒神は、熊本の荒神信仰でもっとも特色があるものです。

これは、三月ごとにいらっしゃる方角を替える方位神としての性質を持ち、移転、新築、増改築、土木工事、開店等で、この荒神の方角に向かうと祟りがあると考えられています。
 

 
三月荒神は成立時期や祭神など不明点が多く、信仰を受けついだ神社によって考え方が異なっている部分が見受けられます。

たとえば、荒神の移動について、西浦荒神社は「旧暦の1月から東、4月から南、7月から西、10月から北」「三ヶ月間は同じ方角にとどまる」という考え方のもと、信仰なされています。

しかし、神社によっては、時計のように日々移動しつづけている(1年かけて全方位を1周する)とするところもあります。
 

 
新しく家を建てるときなどは、荒神様の方角を確認していただき、もし荒神様の方角に向かう方角にあたる場合などは、こちらの西浦荒神社へ参拝し、荒神様へのお断りのお祓いをしてもらうとよいかと思います。

肥州高野山・独鈷山稲荷神社

   
独鈷山とよばれるこの山、一般的には「 独鈷山霊園」のテレビCMで熊本県民にはよく知られていますね。こちらに、肥州高野山があります。
 

 
この山の名は、弘法大師が占いで投げた 独鈷杵 が、この山の松の木の 梢に飛来したことに由来しているそうです。(※諸説あります)
 

 
いただいた御朱印。コロナ渦中のため、こちらでもすでに書いてあるものを配布するという形式にかわっていました。
 

 
肥州高野山に隣接している、独鈷山稲荷神社。
 

 
檀家さんごとに小屋が建てられているようで、のぞいてみますと、遺影が飾られていたりします。ただ、ところどころ熊本地震で被害を受けている小屋もあるみたいでした。
 

 

来迎院で見られる松本喜三郎の生人形


松本喜三郎は、 文政八年(一八二五) に熊本の 井手ノ口町(現在の熊本市中央区迎町)に生まれた、当時、一斉を風靡した生(活)人形師(いきにんぎょうし) です。

生涯に数百体を作り上げたとされていますが、現存しているのは10点ほどにすぎません。そのうちの貴重な1体を保管・展示されている、来迎院に今回はお邪魔いたしました。


20代のころ、生きた人間と見紛うような、等身大の人形を作ったことから、生人形師と呼ばれるようになりました。現実の人間を再現するという、リアリズムあふれる作風で人気をはくし、 若き頃から地蔵祭りの「造りもの」で名を馳せ、やがて大阪難波新地や浅草奥山へと活動の場を移していきます。

そこで 「浮世見立四十八癖」、「西国三十三所観音霊験記」などの見世物興行で 、生きているかのような等身大の生人形で世間の人を驚かせました。
  


こちらが来迎院に保管されている「聖観世音菩薩像(しょうかんぜおんぼさつぞう)」です。1887年の作品とされており、高さは110cmあり、喜三郎の代表的な作品といえます。実物を前にすると、その生人形の精巧さ、瑞々しさに、目をみはることになります。

しかし、西洋のものがもてはやされる西洋崇拝の世相のなか、 しかも見世物細工となれば低俗なものだと見られてしまうこともあり、松本喜三郎の名は忘れ去られていくこととなりました。


なお、日本ではじめ義足を作ったのも、松本喜三郎であると言われています。歌舞伎役者の三代目田之助のために作ったものがそうなのですが、外観こそ完璧だったものの、適合が悪く使い物にはならず、それを恥じて代金は受け取らなかったと言われています。

彼は東京大学の前身である東校から、人体模型制作の依頼を受けたさい、そのあまりの見事な出来栄えに対し、「天物天真創業工」という賛辞が贈られたとされます。


御朱印をいただいているところです。こちらでは、写経・写仏カフェなるものも定期的に開催されておりますので、ご興味のあるかたは公式ホームページを訪れてみてくださいね。

①毎月第3土曜日 『写経カフェ×お抹茶』

②毎月不定期『写経カフェ』(毎月開催日が変わります)
*HP、SNS等で事前に告知いたします。10時〜18時(受付17時まで)


木造閻魔王坐像(天保4年・1833年)。来迎寺には、松本喜三郎の作品以外にも、歴史のある宝蔵品が多数保管されています。


来迎院は、熊本市春日の万日山の中腹にありますが、奈良時代に創建されたとされています。

もともとは法相宗で松山(西万日山)に奥の院を持つ三十六坊の大寺院で、山上に本堂があり、かつて僧房があった場所にこの来迎院が建っていると言われています。

フェアトレードや子どもサポート事業など、さまざまな社会貢献活動も行われていて、写経体験などもできる、開かれた活発なお寺さんですから、松本喜三郎の作品に会いに行くもよし、仏教体験に行くもよし。ぜひ訪問されてみてはいかがでしょうか。
 

六殿神社~釘無しの楼門

 
以前ご紹介させていただきました木原不動尊(長寿寺)と同じ雁回山(木原山) にある神社「六殿神社」

こちらにある楼門は、1907年に熊本県の建造物としては初めて国の重要文化財の指定を受けました。
 

 
この丹塗の入母屋造りの楼門は、天文18年(1549年)に名和顕忠が建立したと伝えられています。屋根は茅葺きとなっており、棟高は7.8mあります。

三間一戸楼門という形式の門であり、用いられている技術の高さは、 斗栱(ときょう)と呼ばれる組物からも見てとれます。(縁の腰組が二手先、上重が三手先となっており、軒を二軒本繁垂木としています。)
 

道の駅 不知火(しらぬひ)

  
松合白壁土蔵群を訪ねたさい、道の駅「不知火」にもたちよって、お昼ご飯をいただきました。ここにあるレストラン「 しらぬひ亭 」では、とんでもない大盛りの貝汁定食がありまして、これはちょっとよそでは見ないボリューム感です。
 

 
KABテレビの夕方ワイド番組「くまパワ」でも紹介されたことがあるようです。大盛りの貝汁にてんぷら、茶碗蒸しにお新香もついて1,000円なら安いと思います。
 


新型コロナウイルスの影響により、4月20日からしばらく休業されているようですので、訪ねる際にはホームページで状況確認をされたほうがよろしいかと思います。

  
ソフトクリームはふだん食べるほうではないですが、ご当地ソフトとなってくると、食べる機会がそうそうないかもしれないと思うと、つい食べてしまいますね。
 

  
不知火町はデコポン発祥の地となります。「デコポン」は 熊本県果実連のブランド名となり、品種名としては「シラヌヒ」となります。

「清見」と「ポンカン」の交配により作られた品種で、 日園連傘下の農業団体が出荷する糖度13度以上、酸度1度以下のもののみが 「デコポン」として出荷できるわけですね。
  

 
デコポンソフトクリーム!柑橘系のさわやかな香りがして、シャーベットみたいで冷たくておいしいです。

松合食品の工場見学のときも 丸大豆しょうゆソフトクリームを食べましたが、取材日が同日ですので、この日はソフトクリームを2個食べたことになります。
   

  
ロマンの湯「不知火温泉」。こちらも4月20日から臨時休業されていたかと思います。

なお、地名である「不知火」の由来は、景行天皇が不知火現象を目にした際、地元のものたちが誰もあの現象を説明できず、「知らぬ火」→「 不知火(しらぬい) 」と変遷していったと言われています。
 

 
デコポン発祥の地の碑。

天草方面へ行く際に通過することになる不知火町ですが、ここ1ヶ月のブログを見ていただくとおわかりのように、見どころが多くあります。熊本市方面から小旅行をされるなら、面白いタクシー観光プランを立てて差し上げられますので、どうぞお声がけくださいね。
 

松合白壁土蔵群


宇城市不知火町・松合地区は、”松合白壁土蔵群”と呼ばれる、かつての醸造と漁業で栄えたときの町並みが残されています。

なぜ白壁土蔵の建物が、この地区で多く見られるのでしょうか。

地形や建物の密集により、江戸時代に連続大火に見舞われたのです。大火後の街造りを主導した惣庄屋により、町筋の建築物は火災に強い土蔵・白壁のものへ改修されていったのです。道をひろげて防火道路( 火除道 )を作るなど、計画的な防災都市が形作られました。
  

過去の記録をひもといてみますと、このような記録が残っています。1826年~1854年にかけてが連続大火といわれるものです。仲区の薬師堂も火災焼失しています。

1781年   火災  1000戸焼失
1826年11月 火災   229戸焼失
1828年12月 火災   269戸焼失
1830年 4月 火災   335戸焼失
1834年   火災   38戸焼失
1854年 9月 火災   141戸焼失
  


松合地区は、江戸時代より宇土半島南浦の津として漁業で繁栄してきました。良質な湧水と温暖な気候に恵まれていたため、醸造業も盛んで、江戸時代には4軒の酒造家がありました。

酒造家は廻船(海運)や相物(海産物加工品)問屋も手がけて財をなしたそうです。
   


松合郷土資料館は新型コロナウイルスの影響で一時閉館となっていました・・・。緊急事態宣言前でしたが、いちはやく予防措置をとられたようです。また、あらためて訪れたいと思います。

※新型コロナウイルスの影響により、ここ2ヶ月間は取材を中止しております※
  

明治維新後などは出船入船千艘といわれ、天草や島原、五島や薩摩からも魚が水揚げされていましたが、鉄道三角線が開通し、際埼港(現在の三角港)が竣工したことによって、急激に衰退していきました。

また、もう1つの要の産業であった醸造業も、農地開放政策により衰退していくことになりました。
 

 
御船千鶴子生家跡も、この松合地区の一角にあります。千里眼の持ち主として知られる人物で、三井合名会社の依頼で大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱を発見しました。このときに得た謝礼は2万円、現在の貨幣価値でいうと約2000万円とのこと。

その場所を訪ねてみましたが、看板のある場所には駐車場が広がるのみで、説明文も何もありませんでしたので、よくわかりませんでした。
 

  
白壁土蔵の建造物は地元有志の努力により多く残されており、現在も店舗や住居として使用されていることから、手入れもされているようです。

今回は開いてませんでしたが、訪問時はまず松合郷土資料館 を訪ねてみられるといいと思います。
  

木原不動尊~日本三大不動


日本三大不動尊の一つに数えられる木原不動尊は、じつは正式名称は別にありまして、「雁回山 長寿寺」といいます。

本山が熊本市南区富合町木原にあるため、一般的には木原不動尊と呼ばれています。毎年2月28日に行われる春季大祭には、大勢の参拝者が訪れます。


春季大祭ではご本尊ご開帳のほか、採灯大護摩供、火渡り、湯立て、湯浴びといった荒行の数々が行われ、特におき火の上を修験者が素足で歩く火渡りは、毎年多くのカメラマンが集まります。

修験者が渡ったあとのおき火を参拝者が裸足で歩くと、一年を無病息災で過ごせるといわれています。
 


ご本尊は、天台宗開祖・最澄が一刀三礼して刻んだと伝えられる不動明王立像でして、秘仏となりますので普段は厨子の中に大切に納められております。

毎月28日の縁日のときには御開扉され、朝5時から日没まで拝観することができます。
  


木原不動尊におわすお不動さまは、恵みの雨をもたらすお不動さまでして、別名水引不動さまと呼ばれております。

これは、かつて大かんばつで水田が干上がってしまったとき、困った里人がお不動さまに祈ると、不思議なことに田の中に水が引き上げられており、お不動さまの足には泥水の跡が付いていたという伝説から来ています。
 


大日如来の成り代わったお姿とされる不動明王さま。剣と縄をたずさえ、憤怒の表情でとても怖いお顔をしてらっしゃいますが、この憤怒の表情は、すべての人々を力づくでも救う決意があらわれているとも言われています。

手に持った剣は人々の迷いや欲望を断ち切り、欲の海に溺れる人々を縄で引き上げてくれるのです。
 


木原不動尊は比叡山延暦寺の末寺として、延暦年中に宗祖傳教大師が開基したとされ、保元・平治の頃には、鎮西八郎為朝(源為朝)が木原山在城の時、鬼門除の祈願所として信仰されました。しかし、天正年間に小西行長公による寺領没収等の憂き目にあい、寺は荒廃しました。

加藤清正が肥後城主となった際に再興されましたが、再び荒廃し、明治維新の折についには廃寺とされました。地元住民からの復興の願いにより、明治25年に再興の許可を得ました。

 
しかしその後、復興が遅々として進まず、明治40年に中興の祖とされる吉里弘禅師が住職となり、再建を主導していくこととなります。

大正11年より地元有志により木原不動尊霊跡顕彰会が発会され本格的な堂宇の再建がはじまり、大正15年に本堂が完工しました。
 

    
木原不動尊は檀家を持たない純粋な祈願寺だそうで、悩み多き庶民の願いをお不動さまにお伝えしてくださいます。悩みが絶えないご時世、一度ご参拝されてみてはいかがでしょうか。
 

松合食品工場見学

 
朝市での生味噌詰め放題で有名な、松合食品さん( 宇城市不知火町松合 )の工場見学に訪れました。 松合食品という名前でピンと来なくても、ヤマア醤油のメーカーさんだと言われれば、熊本県民ならばおわかりいただけるはず。

この工場見学が、無料にしてはとても楽しいですので、松合白壁土蔵群見学や不知火温泉などと組みあわせると、じっくり1日楽しめる観光コースになるのではないかと思います。

※新型コロナウイルスによる緊急事態宣言前の取材となります。
 

  
まずは工場にはいる前に、味噌汁がでてきます。味噌の味を知ってもらうにはいい方法だな、と感心したのですが、とても具沢山なのにたいへん驚きました。

味噌を売りたい側からすれば、味噌の味さえ伝わればいいわけなので、販促を考えるならば別に具なしでもいいと思うのですが、このサービス精神にはまいりました!

毎月第一土曜日に開催されるみそ汁フェアでも振る舞われます。
  

  
お味噌汁をこの食堂でいただけるほか、なんとコーヒーやお茶も飲み放題になっていました。

今回特に予約していかなかったのですが、工場見学ができるか訪ねてみましたらなんとOKとのこと。そのとき居合わせたお客さんも工場見学希望でしたので、一緒に工場見学をすることになりました。(5名以上の場合は予約が必要になるようです。)
  

 
保護帽を着用し、工場にはいっていきます。 詳しいスタッフがお休みということで、かわりに事務員さんが案内してくれました。

工場見学の所要時間は10分ほど。9時~16時まで、年中無休で行われています。タイミングによっては、もろみかきまぜ作業見学もできたそうなんですけど、今回の訪問のタイミングでは残念ながら、出来ませんでした。
  

   
肥後国松合郷は江戸時代より醤油の町として栄えたそうで、そのなかで松合食品さんは、文政十年に創業し、約200年の歴史を誇る老舗の味噌屋さんです。

松浦家一門(東阿波屋・田之先阿波屋・西阿波屋・上阿波屋)が「阿波屋」として松合を中心に醤油、味噌、酢醸造を営んでいたところ、先代の上阿波屋の社長が一門の阿波屋を統合し、昭和27年に現在の松合食品株式会社を設立したそうです。ヤマア食品のマークに、「上」の文字がついているのは、今の蔵が現存する上阿波屋の1文字を取ったということです。

松浦家がこの地で味噌造りをしていたことを示す史料で、確認できる最古のものが文政十年 (1827年) のものだということで、味噌造りの歴史がおよそ200年ということです。
  

  
コスト面で脱脂加工大豆を使うメーカーが多いなか、松合食品さんでは熊本県産のnon-GMO(非遺伝子組み換え)大豆にこだわっていらっしゃいます。可能である限りは、生産者の顔の見える大豆を使っていきたいというのが、社長の方針のようです。
  

  
松合食品の工場が高台にありますので、有明海を一望することができます。
  

  
工場見学のあとは、物販コーナーでうまかもんを探すのもいいですね。肥後の赤酒を隠し味に使ってあるというにんにく味噌と、フリーズドライの味噌汁などを買わせていただきました。
  

 
6.3kg入りの味噌なんてのもありました。一般家庭ではなかなか使い切れるサイズではないですが・・・。
  

 
丸大豆しょうゆソフトクリーム(150円)。ご当地ソフトクリームというと食べずにいられませんね。この手のご当地ものは外れも多いのですが、この丸大豆しょうゆソフトクリームはおいしかったですよ!お値段もお手頃ですしね。
 

不知火現象観望地・永尾剣神社

 
和銅6年(713)、元明天皇の勅願により国郡鎮護のため創建された神社で、不知火現象の観望に適した場所ということで知られています。

読み方は「えいのおつるぎじんじゃ」といいます。
  

 
かつて海童神が「えい」の魚の背中に乗ってはるかかなたより鎮座された、との言い伝えもあり、そのため、氏子は「えい」を食べないのだそう。
   

 
不知火現象は八代海で見られる蜃気楼現象(鏡映蜃気楼)で、漁火を光源として、数百や数千の火が横並びに並んで見える現象です。

旧暦7月の晦日の風の弱い新月の夜などに起こるとされ、遠浅の海が続く八代海の干潟の砂と流れ込む水路の温度差が幻視の原因となっているようです。
  


かつては龍神の灯火と恐れられ、不知火が見える日の漁は不吉なので避けたとされています。

『日本書紀』などに、景行天皇が九州南部の先住民を征伐するために熊本を訪れた際、不知火を目印にして船を進めたという記述があります。


厳島神社を思わせる海の鳥居があります。参道が海からはじまってるなんて、ロマンチックだと思いませんか。

これは引き潮のときに撮影したので基礎部分が水没していないですが、満ち潮のときであれば、幻想的な海の鳥居が撮影できます。
 

 
歴史のある神社ではたまに見かける土俵。奉納相撲を行うためかと思われます。
 

 
不知火現象は干潟の埋め立てや、住居からの明かりなどの影響で、見るのは難しくなっているそうですが・・・。神社が小高くなっており、海が見渡せるのでデートスポットとしてもよさそうです。

緊急事態宣言が解除されましたら、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。