舞鹿野田橋

美里町には38基もの石橋が残されておりまして、町のホームページに石橋マップが掲載されているほどの、県内随一の石橋スポット。有名所では、ハートが浮かび上がる二俣橋が、よく知られていますね。

そんな美里町に霊台橋(れいだいきょう)を見にいきまして。その記事はまた来週にとっておいて、その周辺にも貴重な石橋がいくつもありますので、まずはそちらをご案内させていただきます。
   

舞鹿野田橋(もうかんだばし)は、江戸時代後期に架橋されたといわれています。 二和田地区の農道に架橋されていて、名前も 舞鹿野(もうかの)という地区の人たちと開田しあったことに由来するそう。
   

舞鹿野の地名は、もはや地図にも載っていませんので、橋の名前としてのみ現代まで残っているわけで、なんだか歴史浪漫を感じさせます。

美里町指定文化財となっていて、現在も通行することが可能です。 路面長 6.7m、幅 1.8m、水面より5m。
   

上部が平たくなっていて、きれいな円形ではなく、扁平形という珍しいアーチ形状の石橋です。構造上どうしてこれが100年以上残っているのかと思うほど、上に乗るのもすこし怖い感じではありますが・・・。

場所はマイキッチンというお弁当屋の裏になります。
   

霊台公園に架橋されている岩清水橋。もともとは仁和田地区の小長野にあったものを昭和56年に移設したものとなります。 架橋時期は不明。長さ5.00m、幅2.35m。
   

霊台公園からは、霊台橋がよく見えるのだけど、まったく管理がなされておらず荒れ放題で、ロープがかけられ、残念ながら上には登れないようになっていました。何かあったのでしょうか・・・。
  

霊台公園からは、霊台橋がすこし見えました。昔はもっとはっきり見えたのですが・・・

高橋稲荷神社

高橋稲荷神社 神門

    

みなさま新年は、お詣りは済まされましたか?

わたくしは高橋稲荷神社まで、初詣に行ってきました。


こちらは日本稲荷五社や、日本四大稲荷九州三稲荷などに数えられる、日本を代表する稲荷社でございます。

   

初詣となると、駐車場にはいるための渋滞が毎年えらいことになります。

元旦の朝9時頃に訪れましたが、駐車場にはいるのに30分ほど待たされることとなりました。

   

穀物の神様である宇迦之御魂(ウカノミタマ)神を祀られています。

家内安全、商売繁盛といった、生活に密接した御利益があるとされ、初詣にはたいへんな人気があります。

    

高橋稲荷神社は、山の上に作られた神社ですので、このように街を一望できる、見晴らしのよい展望所もあります!

   

稲荷神社は鳥居がたくさんありますが、願い事が「通った」お礼の意味から、江戸時代あたりから鳥居を奉納する習慣が拡がったようです。鳥居1つ1つに、寄贈者の名前が記載されていました。

   

年中行事としては、毎年2月に行われる初午大祭には、福餅まきなどの行事がたいへん盛り上がりますので、多くの参拝者が訪れますよ。

     

鳴岩の湧水・前川の井川端(熊本水遺産)

鳴岩の湧水

平成の名水百選に選ばれた金峰山湧水群のうち、今回2つをご紹介させていただきます。

まずは、熊本市西区花園7丁目にあります、鳴岩の湧水から。

  

鳴岩の湧水

高さ10mもの高さの岩石から、水の流れる音がすると 肥後國誌に伝えられている「鳴岩」。岩の割れ目から湧水が湧き出しており、取材したときにもちょうど水を汲みに来た住民のかたが2組いらっしゃいました。口当たりがよく、おいしいお水として人気があります。

「神風連五士自刃」 の地としても知られていますね。

    

前川の井川端

熊本市西区花園7丁目の柿原地区にある共同水場。

井戸や湧水のことを井川(いがわ)とよびますが、こちらも「井川端(いがんはた)」と呼ばれています。水道が供給されるまでは、ここは飲用・炊事・洗濯に使われた、地元の貴重な水源でした。

  

地元有志により、いまでも水場はきれいに保たれています。また、湧水ですので、水道水よりも水温が高いとのこと。

   

くまもと「水」ガイドの認定を受けておりますので、熊本の貴重な水遺産はほとんどすべて、実際に足を運んで、知っております。熊本の水源地巡りをされるときには、ぜひ加来タクシーをよろしくお願いします。

天福寺

天福寺

明けましておめでとうございます。本年も加来タクシーをどうぞお引き立ていただきますよう、よろしくお願いいたします。新年一回目となりますので、新年にふさわしい、縁起の良い名前のお寺さんを、ご紹介いたしましょう。

こちら天福寺さんは、新西国三十三ヵ所観世音菩薩の石仏が建立されており、観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるといわれています。

    
   

  

訪問時はちょうど毎月十八日の観音例祭の日であったようで、思いがけず住職様方よりおもてなしをいただきました。

  

住職様から、

「せっかく来たんだから、ちょっとお茶でも飲んでいかんですか。」

と言われたときは、いままで訪問したあらゆるお寺でそんな声がけをされたことがありませんでしたので、正直すこし戸惑いました。

  
   

のっぺ汁や漬物、お菓子、干し柿などを、お茶とともに出していただきました。

訪問者をこうしておもてなしするのが、天福寺さんのスタイルだということでした。

  
  

庭では、にわとりが普通にそこらを歩いていました。いまでは農村でもあまり見かけない風景のような気がします。鳥小屋には20羽くらいはいたでしょうか。

   

第一番の観音像

ご馳走をいただき、おなかもいっぱいになったところで、新西国三十三ヵ所観世音菩薩巡りをしていこうと思います。1番目だけが出入口近くのところに離れて鎮座されていましたので、住職にたずねるまでは、どうして1番目だけないんだろうかと、不思議に思ってしまいました。

  

実際に新西国三十三ヵ所を巡ることに比べればなんてことはないんでしょうけど、倒木や枯れ木などで足場が悪くなっており、もう少し手入れされていれば・・・とも思うところではありました。

最近では手伝いにきてくれる人も少なくなって、管理が行き届かないことが多いそうです。 住職様は介護もしながらの運営になりますから、相当なご苦労をなさっていることと推察いたします。

   

ところどころ枯れ木が集めてあって、たぶんそのうち燃やすんだろうな、という感じでした。

後半の観音様にいくにつれて、立派に新しくなっている感じがありました。

     
   

第三十三番目の観音様

延宝六年(1678年)に肥後藩主第五代綱利の発願により、清水町打越にあった名を継承し、開山された歴史のあるお寺です。

毎月18日は観音例祭、4月18日には大祭もあるということですので、お祭りの日にあわせてご訪問されてみてはいかがでしょうか。

   

くまもと水の迎賓館~お手水の森(旧柿原養鱒場)

くまもと水の迎賓館 受付

 

柿原養鱒場は、昭和37年6月20日にオープンした施設で、加藤清正公も愛飲したといわれる水源地「お手水」のある広大な庭を散策したり、釣りを楽しんだり、ニジマス料理をいただける施設として、熊本県民に長年愛されてきました。

 

ところが熊本震災後は、施設にも地震の影響が及んだとのことで、しばらく営業をしておらず、残念に思っていました。

 

 

 

2018年9月より熊本タクシー株式会社に営業譲渡され、名称を「くまもと水の迎賓館」に変えての営業再開にこぎつけたようです。

 

元からのオーナーさんもいらっしゃるようで、店舗と施設を貸与して営業を委ねる形であるようです。

 

くまもと水の迎賓館 メニュー

 

お庭の散策はあとまわしにして、まずは腹ごしらえ。どれもニジマスを堪能できるメニューです♪

 

ニジマスの天ぷらと塩焼きを味わえる、梅定食をいただきます!

 

くまもと水の迎賓館 梅定食

 

ニジマスの天ぷらがまた、食べ応えのあるボリューム!塩焼きは身がやわらかく、秘伝の酢醤油につけていただくと美味ですよ。

 

 

お庭の眺望を楽しみつつ、料理をいただけるのが特長のひとつ。

 

こういう格式のたかいところで、会社で特別なお客様へ接待をしたり、年に1度の贅沢に家族で来るのも良いですね。

 

 

お手水には、加藤清正公の石像があります。

 

健磐龍命(たけいわたつのみこと)が火の国巡視の際、ここの冷泉で手水を使われたことから、ここを御手水と呼ぶようになったと言われています。

 

細川綱利公は、ここにお茶屋を作ったと言われています。

 

 

水鳥が集まる白龍の大池。水鳥もわかっているようで、遊歩道からいちばん遠いところに集まっていました。

 

 

釣り堀。釣ったお魚はお買い上げになりますから、必要なぶんだけ釣るかたちです。(一度釣ったものを逃がすのはNG!)

 

 

メタセコイアが池のまわりに建ち並びます。

 

 

本年はみなさまたいへんお世話になりました。

 

来年もまたブログを更新していきますので、今後もなにとぞよろしくお願いいたします。

 

菊池飛行場戦跡

開隊記念碑(右側)

 

熊本県菊池市には、かつて旧陸軍菊池飛行場がありました。花房台地にあったことから、花房飛行場と呼ばれることもあります。

 

現在でいう富の原区にて昭和10年に着工し、昭和15年に完成しました。航空通信学校や陸軍病院、気象観測所も併設され、敷地の広さは県内の陸軍飛行場で最大規模の、約150ヘクタールもありました。大戦末期には、沖縄へ向かう航空特攻隊の中継基地となりました。

 

菊池飛行場ミュージアム

 

菊池飛行場の歴史を後世に伝えるべく、泗水町豊水の孔子公園内に地元有志が設立した「菊池飛行場ミュージアム」。(中は撮影禁止のため、外観のみ)

 

現在でも菊池飛行場戦跡は良好な保存状態で、数多く残されています。しかし、遺構のほとんどが私有地に存在しており、このミュージアムも含め、地元有志により維持されている状況であります。

 

「花房飛行場の戦争遺産を未来に伝える会」代表の倉沢泰氏

 

今回は、「花房飛行場の戦争遺産を未来に伝える会」代表の倉沢泰氏にご案内いただきました。

 

富の原保育園の園長さんであり、さきほどご紹介した菊池飛行場ミュージアムの館長さんでもあります。戦時中は北九州小倉の高射砲部隊に所属なされていて、終戦後は菊池飛行場跡に開拓団として移住しました。

 

 

花房飛行場跡給水塔(市指定文化財)

 

よくパンフレットなどでも紹介されることの多い高架給水塔。主に飛行隊や陸軍病院の給水施設として昭和15年に設置されました。鉄筋コンクリート製で高さ13.57mあります。終戦後は国立病院の給水施設や入植してきた開拓団の生活用水として利用されました。

 

軍関係の給水塔は耐震性の問題があり、全国でもわずか10基しか残されていません。ところが、この給水塔は驚くべきことに、外観が保存されているだけでなく、平成19年までは現役で稼働していたとのこと!外壁や柱には、空襲時の機関銃の跡が数十カ所残っています。

 

 

給水塔内部。菊池飛行場ガソリン貯蔵庫の扉がなぜかここで保管されていました。

 

水槽部の直径は7.8m、貯水量は160~180立方メートルあります。取水場所はここより500m東側の台地の下にあり、そこにはポンプ小屋があり、高架給水塔まで配管が敷設されています。通信教育隊側にも同様の高架給水塔がありましたが、こちらは爆撃により現存していません。

 

菊池飛行場正門と立哨所跡

 

道路の脇に、菊池飛行場の正門がありました。正門前には立哨所があり、当番兵が監視していました。

 

 

ガソリン貯蔵庫跡。非常に頑丈な作りになっており、当時は上から土を盛り、芝生が植えてありました。数十カ所に機銃掃射の跡が残ります。

 

 

戦後は開拓団2世帯の住居として使用されました。

 

 

木造大型格納庫基礎。将校専用機の格納庫だったという証言があります。

 

 

木造大型格納庫の左側の基礎には、機銃掃射の跡が生々しく残されています。

 

 

風呂場・給湯施設なのですが、草に埋もれてほとんど見えませんでした。菊池飛行場戦跡はほとんどが私有地であるため、どうしても管理が行き届きません。

 

空襲で亡くなられた方の慰霊塔(菊池ふるさと遺産認定)

 

昭和20年5月13日の米軍による空襲で亡くなられた方の慰霊塔の前で、倉沢さんと写真を撮らせていただきました。加来タクシーでも、戦争遺構を伝える活動の一端を担えればと考えております。公共交通機関でまわるのが難しいため、菊池飛行場戦跡をタクシーで見て回りたいというときには、お声がけいただければと思います。

 

熊本城周辺の「神風連の変」史跡

神風連挙兵本陣跡

 

熊本城周辺には、「神風連の変」関連の史跡がたくさんあります!今回はそれを一気にご紹介させていただこうと思います。まずは護国神社内にある神風連挙兵本陣跡から。

 

神風連の変とは、1876年10月24日深夜から25日にかけて起こった士族反乱で、明治政府に対する不満を募らせた神風連(=敬神党)約170名が、太田黒伴雄に率いられ、熊本鎮台(歩兵第13連隊・砲兵第6大隊)を襲撃したものです。西南戦争や秋月の乱、萩の乱も、これに呼応して発生したものと考えられています。

 

神風連加屋霽堅・斉藤求三郎戦死之跡

 

二の丸公園にある、神風連加屋霽堅・斉藤求三郎戦死之跡。事変をかぎつけた政府軍による反撃を受け、銃撃を受けてここで戦死したとされます。神風連は西洋化を否定していましたから、旧来の槍や刀で、近代兵器で武装した政府軍に立ち向かっていったのでした。

 

あだなりと人なとがめそもみぢ葉の
 散るこそ赤き心なりけれ 霽堅
夷らをはらひてこそは訪ひも見め
    梅は野山に咲き匂ふとも 求三郎

 

神風連討入口

 

歩兵第13連隊歩兵営を襲撃した神風連第三隊(約70名)の討入口と言われています。

 

陸軍少尉阪谷敬一戦死之跡

 

阪谷敬一少尉は神風連第二隊(約70名)と交戦し、ここに倒れたと言われています。場所的には、桜の馬場 城彩苑のすぐそばの、川沿いにあります。

 

将士奮戦之跡

 

歩兵第13連隊第4中隊の兵達は、この大楠の下で円陣を組み、銃剣をかまえて神風連第一隊と奮戦し、破れたと言われています。

 

軍旗奪還之跡之碑

 

歩兵第13連隊軍旗は神風連の変が起きた当時は、連隊長であった与倉知実中佐の私邸に保管されていたそうです。それを神風連第一隊による襲撃を受けて、奪われてしまいます。それを鎮台兵・隈部幸作が奪還したことを記念する碑だとのことです。

 

 

軍旗染血之跡 碑

 

鎮台兵・隈部幸作が奪還した軍旗ですが、これを再び神風連に奪われるのを危惧した佐武広命中尉はなんと軍旗を腹に巻いたんだとか。そうしたところ、奮戦中に負傷し、血が軍旗に染みたため、血染めの軍旗と呼ばれました。

 

 

 

今回はくまもとよかとこ案内人の会様にご案内いただきました。その節はどうもお世話になりました。

 

菊池渓谷 その2

 

前回にひきつづき、菊池渓谷編です。今回は、実際に散策路をご案内いたします。

 

菊池渓谷の散策路は、正式には九州自然遊歩道「内牧~菊池渓谷コース」の一部となり、延長16.0kmもあるそうです。

 

 

まずは橋を渡って、菊池川の対岸へ。この日は雨が降っていましたので、レインコートでのぞみました。

 

ルートは往復2kmのマイナスイオン満喫コース(所要時間1時間)です。

 

菊池渓谷散策路

 

まずは最初の滝である、黎明の滝を目指して歩きます。

 

あいにくの小雨ではあったのですが、かえって雰囲気がでて、よかったかなとも思ったり。

 

黎明の滝

 

黎明の滝 由来

上流は緩やかな石畳の紅葉ヶ瀬それを覆う緑の原生林、奇岩、怪石の渓谷のあいまを縫って流れ落ちる滝、飛散する水しぶきに朝の太陽が輝いて一帯に霞が立ち込めまさしく夜明を思わせる景観を呈するところからこの名が付けられたという。

(現地案内板より引用)

 

 

樹齢200年という杉の木。文政6年(1823年)頃に植えられたものだそうで、樹高45mほどにもなるそう。

 

紅葉ヶ瀬

 

紅葉ヶ瀬。紅葉の時期に来ると、さらに見事な景観となります。

 

 

右に降りれば癒やしコース(1km)ですが、ここはあえて直進してマイナスイオン満喫コース(2km)へ。

 

竜ヶ渕

 

竜ヶ渕はかつては木が茂っていましたが、大雨のたびに崖が流された結果、現在は開けた景観となりました。

 

天狗滝

 

竜ヶ渕と天狗滝 由来

 

人里遠く離れた深葉の山々は、その昔未踏の地でありキツネ・タヌキ・野猿をはじめ多くの鳥獣の生息地であったという。数百年も経過した老木の混在する原生林は昼なお薄暗くその谷間を流れる清流は瀬を作り、滝を作り、そして渕を作っているが、その一つで最も大きく藍色によどみ、不気味さを感じさせるこの渕はかつて竜が住んでいたという村人の伝説があるところから竜ヶ渕と呼ぶようになった。また、その昔奥山の頂付近には、山伏の修練場としての洞窟または天狗岩が残っているが、修練者が時折渓谷に降りてきては岩場で身を洗い清めたことから、この滝を天狗滝と呼ぶようになったという。

(現地案内板より引用)

 

 

川底がエメラルドグリーンの色をしていて、綺麗なんですよね。「最も大きく藍色によどみ、不気味さを感じさせる」という現地案内板の記述は、このことを言っているのだと思います。

 

四十三万滝

 

四十三万滝の由来は諸説あるようですが、昭和9年九州日日新聞社が景勝地募集を行ったところ、43万票を獲得して1位になったからだとか、また1日の平均流量が43万石(約7.8t)位だろいうことから呼ばれるようになったという説も。

 

広河原

マイナスイオン満喫コースはここまでは来れるのですが、この先が通行できませんので、ここから折り返しとなります。残念!

 

 

倒木や落石のため、とあります。熊本地震からの復旧がまだ終わっていないようですね・・・。

 

掛け幕の滝

 

手軽に自然を満喫するにはとてもいい散策コースだと思います。

 

足場の悪いところもありますので、くれぐれも動きやすい靴・長袖長ズボンで訪れてくださいね。

 

菊池渓谷 その1

菊池渓谷入口にある現場事務所

 

阿蘇くじゅう国立公園の一部でもある菊池渓谷

 

菊池川の上流にあり、水源地にある渓谷となります。菊池水源の名称で、名水百選にも指定されています。

 

渓谷美の極地とも称される、美しい自然公園ですが、熊本震災で被災してからは訪れていなかったので、久しぶりに現地に赴いてみました。

 

 

菊池渓谷の地震の爪痕

 

地震で崩壊した建築物などの残骸や巨石などが、渓谷入口付近にはまだ残されていました。

 

通行止め区間が表示されている菊池渓谷案内図

 

散策ルートでは巨木や巨石が崩落し、令和元年12月現在でも広河原付近で工事が続いており、一部区間が通行禁止になっています。

 

そのため、広河原まで行きましたら、一度そこから引き返さないといけなくなっております。

 

菊池渓谷ビジターセンターの建設工事

 

菊池市観光情報発信施設(きくち渓谷館)は解体されているため、現在は売店やレストラン等がありませんので、ご注意ください。

 

菊池渓谷ビジターセンターの建設工事が進んでおり、令和2年2月末に竣工、同年4月のオープンを目指して工事が進んでおります。

 

 

維持管理協力金の名目で、ひとり100円の入場料への協力が呼びかけられています(強制ではありません)。

 

必要なかたはここで杖を借りることもできますよ。

 

 

菊池渓谷は約1,193haの広大な面積を誇る憩いの森であり、広葉樹で覆われた森をぬって流れる菊池川が、ところどころで滝を形成し、実にみごとな景観をなしています。夏場は避暑地として、秋頃では絶好の紅葉スポットとなりますよ。

 

 

来週更新予定のその2では、渓谷の散策路を実際に歩いたルートをご紹介いたします。

 

養生伝承館・いのちミュージアム

竹熊宜孝さんとわたし

 

菊池養生園初代園長で、現在は菊池市泗水町で、養生伝承館館長をなさっている竹熊宜孝さん。

 

食と農を基本に、「病気にならない体」をつくる診療所を目指して、農園併設の病院、菊池養生園を作られた方です。診察を受ける住民のかたに無農薬の野菜を食べてもらい、いかに「食」が健康を支えているかを目に見える形で知ってもらいたいというのが、竹熊先生の思いです。(先生いわく、「医者が百姓をしたのではなく、百姓が医者になったのだから仕方ない」。)

 

無農薬にこだわるのは、竹熊先生の弟さんの農薬中毒になったことが大きなきっかけで、農薬の恐ろしさを知った先生は医者をこころざすようになりました。ホリドールは有機リン系の殺虫剤で毒性が非常に強く、稲につく最大の害虫ニカイメイチュウによく効くため、よく農薬として使われていましたが、毒性が強いために殺人や自殺に使われることさえありました。

 

 

施設の名前にも使われている「養生」という言葉。この言葉に、竹熊さんの思いが込められています。

 

養生を辞書でひくと、①「からだを大切にして、健康の増進をはかること」②「病後、体力の回復を図ること」とあります。この養生という言葉、先生が尊敬されている熊本市の開業医、小川先生がよく使っておられた言葉だそうで、自らの命は自らが守る、この姿勢を住人の方達にもくみ取って欲しかったとのことです。

 

「養生」とは自ら生命を養うと書く

食養生 心の養生 身の養生

これともに養生の道なり

また自ら病をみつけ 手当し

癒やすことも 養生の術なり

(養生語録)

 

 

竹熊先生みずから養生伝承館の建物のなりたちを解説していただきました。

 

いまは龍門ダムに埋没した、合計9軒分の民家の解体木材を再利用して、養生伝承館は建設されました。

 

 

養生説法の噂をききつけて、養生伝承館には老人会や婦人会、PTA、修学旅行生が押し寄せるようになりました。一時期はよくテレビでもお見かけしておりました。菊池養生園での養生説法、いわゆる”クマの説法”は、残念ながら、2012年3月30日が最後となりました。

 

しかし、ここ養生伝承館で”養生塾”として再スタートされています。お呼びがかかるまでは舞台に立つのが”芸人”と心得ているのであります、とのこと。

 

 

竹熊先生は小さいころより絵が好きで、賞状ももらっていたほどでした。あるとき、ある外国の女流画家のモデルが立ち寄られ、自分を書いて欲しいと申し出があったそうで、それで数人の画友達でデッサン会をしたのが裸婦絵を描くようになったはじまりだそうです。そして68歳にして裸婦展を開くことになりました。

 

 

養生園2階は、障がい者総合支援法にもとづく就労継続支援B型事業所「まるーわ」となっていて、障がいを持つ方々が作られたさまざまな工芸品などが展示販売されています。

 

まるーわとは、アフリカの言葉(チェチェワ語)で「花」の意味があります。ここに関わる人たちすべてと「一つの輪」になって進んでいきたい、という願いも込められています。

 

 

養生伝承館を訪れ、薬漬けの医療から脱却し、自然との共生に立ち返ろうという竹熊先生の思想にぜひ触れてみてください。

 

またとない人生である。

ふたつとない命である。

自ら重んじ

自ら愛せよ

(養生語録)