天草四郎ミュージアム

 

天草パールラインをドライブしていますと、道の駅・上天草さんぱーるの辺りで、小高い丘の上にある教会状の建物が目につくと思います。気になってはいるものの、入ったことがない人が多いのではないかと思います。

 

今回はその、天草四郎ミュージアムをご紹介させていただきます。最近、施設名称が天草四郎メモリアルホールから変更になりました。

 

 

天草四郎ミュージアムの四郎像展望所から、さんぱーるを見下ろしたらこんな感じ。

 

1637年10月、苛政や弾圧に耐えかねた天草・島原の人々が、一斉蜂起しましたが、その一揆軍の最高指導者が天草四郎(本名・益田四郎)でした。そのとき弱冠16歳でした。その彼が生まれたのが、この大矢野でした。

 

 

四郎像展望所にある、殉教天草四郎之像。

 

天草四郎はさまざまな奇跡を起こしたと言われています。天から鳩をまねいて手の内で卵を産ませ、それを割って聖書を取り出したり、盲目の少女に触れただけで視力を回復させたとか、雀をとまらせたままの竹の枝を折り陸を歩くように海上を歩くなど・・・。おそらくは、周囲の大人たちが、一揆軍総大将たる四郎を神格化するために作り出した逸話ではないかとも思われますが、いまとなっては調べようもありません。

 

天草四郎ミュージアムは、島原・天草一揆が起こった背景ですとか、渡来した南蛮文化の影響を受けた当時の様子などを、多数の資料や映像で見せてくれます。(残念ながら館内撮影禁止でしたので、内部の写真はございません!)

 

 

石碑の文章は、改行や句読点がほぼなく、そのままでは読みづらいかもしれませんので、意訳を交えつつご紹介させていただきます。間違っているところがありましたら、ご指摘ください。

 

四郎は姓を益田といい、大矢野の生まれ。長﨑にて神学を学んだ後、郷里に帰って伝道に努める。

 

当時、天草の領主・寺沢堅高と、島原の領主・松倉勝家氏は言語に絶するキリシタン弾圧と極度の苛政を敷いた。その苦しみに堪えかねた両郡の住民は、寛永十四年十月十五日、遂に島原有馬郷に於いて殉教反幕の狼煙ををあげ、十一月一日、大江源右衛門を初め幹部一同は四郎のもとに集い、仕えることを誓う。

 

四郎は森宗意軒等、首脳部五十余人と共に談合島に上陸し、この地に於いて秘策をねり、十一月四日、島原に戻る。

 

折しも天草の風雲急なるを知り、自ら千五百の部隊を率いて、十三日に上津浦の友軍を救援する。ここに至りて両郡の信徒は団結して原城にこもるその数、三万七千。

 

これを包囲するは徳川幕府軍と九州諸大名の連合軍合わせて十二万五千。攻防は激戦を繰り返すも、城固くして陥落させること能わず、寛永十五年一月元旦、幕府軍の首相板倉重昌以下多数の将兵戦死す。

 

松平伊豆守が攻めるが容易に落ちず、性急な攻撃は止めて信徒の兵糧を絶ち、二月十八日、悪戦苦闘、双方の死傷者数万。城が遂に落ち、四郎は城内礼拝堂内に於いて、細川藩士陣佐左衛門の槍にかかり昇天する。年は時に若冠十六歳。

 

残る信徒は大虐殺または猛火の中に飛び込み、或いは城壁より海に身を投じて全滅する。

 

世界史上、比類なき悲劇。天草島原の殉教戦はかくして終われり。

 

思うに希有の人傑、四郎の生涯はまことに壮美短命、あたかも桜が花風に散るような風情があった。

 

春風秋雨三百十八年、静かなる宮津湾内の信徒の丘の上に建つこの銅像を仰ぎ見るとき、感慨が胸を打つものあり。

 

西暦一九六六年九月十日

文書李慈秀

 

 

愛の鐘。以前は四郎像展望所にありましたが、地震の影響により崩れたのをきっかけに、国道から目立つ位置に移設されたようです。

 

 

天草四郎ミュージアム内には、ミケネコオリーブというオリーブ専門店もありますよ。オリーブの木を加工した食器や、石けん、ソフトクリームまで!あまり他で見られない商品がたくさんありますので、こちらも足を運んでみてくださいね。

 

 

2階は瞑想室になっていて、静かな音楽が流れており、椅子に寝そべりながら、瞑想にふけることができますよ。

 

また、映像ホールでは、映画「わが心の天草四郎」を見ることができます。これは、天草島原の戦いをある細川藩士の視点で描いたものです。かつては3Dめがねを用いた、立体視のできる映画だったのですが、数年前から2D映像に切り替わったようですね。

 

蓮華院誕生寺奥之院

 

横綱奉納土俵入りが恒例行事として行われることで知られる、蓮華院誕生寺奥之院を訪れました!

 

真言律宗の「九州別格本山」という位置づけで、僧侶や、僧侶を志す人たちの修行の場所として、玉名市・小岱山の中腹に創建されました。とにかく圧倒されるほど広く大きなお寺で、写経や護摩行といった修行の体験などもすることができます。

 

 

世界一の大梵鐘「飛龍の鐘」と、「五重の御堂」。「飛龍の鐘」は、満願成就を願って、一万貫(37.5トン)の重さで作られました。

 

毎日六時と正午に撞くそうですが、梵鐘祈願(五千円以上)を申し込めば、この世界一の鐘を随時、撞くことができるそうですよ。

 

 

飛龍の鐘の由来

 

この大梵鐘は、京都で造られた世界一の大梵鐘で、昭和52年5月、瀬戸内海を渡り国道を通ってここに納まりました。

 

大梵鐘は、奥之院への六トン車以上は登れない狭い山道を、ご本尊皇円大菩薩様の御霊力と中興開山川原是信大僧正様の真言秘密のご祈祷によって、わだち一つ付けることなく、一時間余りでこの奥之院に参りました。(あたかも飛来したかのように思われたので「飛龍の鐘」といわれています。)

 

 

鎌倉時代に、惠空上人(皇円上人の法孫)が浄光院蓮華院としてこの地に創建し、朝廷より殺生禁断の宣旨をたまわるほどの大寺院でしたが、惜しくも戦国時代に焼失しました。

 

昭和5年に蓮華院が再興され、その後昭和53年、別院としてこの蓮華院誕生寺・奥之院が創建されました。

 

 

護摩堂。火をつけたロウソクを燭台に立て、火鉢に線香をおさめます。柱や壁は上にいくほどススで真っ黒!

 

 

なにしろ広大な敷地ですので参道が長い長い!奥に見える皇円大菩薩の大仏様のところまで行こうと思いましたが、見るところが多すぎて時間切れでそこまでは行けず・・・。

 

寺務所では、さまざまなお神籤や、縁起物のほか、盆栽までが売っていました。

 

 

寺務所には、蓮華院誕生寺奥之院で行われた、奉納土俵入りの写真がいくつも飾ってありましたよ。

 

 

修行場である五重の御堂は、僧侶の修行を体験することができる施設で、入館料が別途必要になります。

 

入館に際しては、体を清めるため、塗香(ずこう)を体に塗り、半袈裟を首にかけなければなりません。本来は見学のため修行の場に足を踏み入れるなどは、本来は認められがたいものかと思いますが、寺院の方はそれを理解した上でなお、修行の場を一般の方に開放し、見せることは意義のあることだと考えておられるようです。

 

 

塔内部は宗教施設の内部ということで、撮影はNG。代わりに、塔から見下ろした景色をご覧いただきます。

 

左端の、壁のない屋根だけの建物が、相撲道場です。昭和55年以来、歴代の横綱がこの土俵に上がってきました。

 

 

柴燈大護摩道場。秋の大祭では、ここで「荘重な仏教絵巻が目の前で繰り広げられる」、とのことです。この上に皇円大菩薩の大仏様があります。

 

 

境内の外には、お土産屋&レストランもありますよ!

 

蓮華院誕生寺と、蓮華院誕生寺・奥之院は、5km以上離れていますので、ご来場の際には混同しませんよう、お気を付けくださいね。(今回は奥之院をご紹介させていただきました。)

疋野神社~疋野長者伝説ゆかりの神社

 

かつて立願寺温泉とよばれた”玉名温泉”の発見にまつわるエピソードをご紹介するため、疋野神社(玉名市)を訪れました。

 

疋野神社は2000年もの歴史があり、延喜式神名帳にも記載がある式内社で、肥後国四座の1つに数えられます。(熊本県の式内社は、阿蘇神社、国造神社、疋野神社の3つのみ。)

 

 

疋野長者御神陵。

 

玉名温泉の由来は、当神社に伝わる疋野長者伝説を読むと、うかがい知ることができます。

 

 

千古の昔、都に美しい姫君がおられました。

 

「肥後国疋野の里に住む炭焼小五郎という若者と夫婦になるように」
との夢を度々みられた姫君は、供を従えはるばると小岱山の麓の疋野の里へやってこられました。

 

小五郎は驚き、貧しさ故に食べる物もないと断りましたが、
姫君はお告げだからぜひ妻にと申され、また金貨を渡しお米を買ってきて欲しいと頼まれました。

 

しかたなく出かけた小五郎は、途中飛んできた白さぎに金貨を投げつけました。
傷を負った白さぎは、湯煙立ち上る谷間へ落ちて行きました。
が、暫くすると元気になって飛び去って行きました。

 

お米を買わずに引き返した小五郎に姫君は
「あれは大切なお金というもので何でも買うことができましたのに」と残念がられました。

 

「あのようなものは、この山の中に沢山あります」 との返事に、
よく見るとあちこち沢山の金塊が埋もれていました。

 

こうして、めでたく姫君と夫婦になった小五郎は、疋野長者と呼ばれて大変栄えて幸福に暮らしました。

 

 

傷を負った白鷺が降り立った「湯煙立ち上る谷間」こそ、玉名温泉というわけですね。

 

御神陵の隣には、長者の泉(福寿の御神水)が置かれています。これがなんと、触ってみると温かい!湧出した玉名温泉をひいているものですから、当然ですね。いただかれる場合は、まずは神様へのご挨拶のお参りを済ませてからにしましょう。

 

 

玉名の中学・高校から奉納された大絵馬も、展示されていました。

 

 

敬神の碑。

 

 

この力石は、途中で置くことなく神社を時計回りに一周してお参りして願掛けをするというもの。試しにいちばん大きいのを持ってみましたが、おそらくゆうに40kgはあるような・・・。これを持って一周は、なかなかハードだとは思います。

 

 

身長をはかれる石柱。七五三参りのときなんかにちょうどいいですね。

 

 

桜や紅葉の名所でもありますし、玉名に訪れたら外せないスポットではないでしょうか。

 

天草コレジヨ館

 

天草に伝来した南蛮文化に存分にひたれる施設としては、なんといっても天草コレジヨ館がお薦めです。

 

日本初の活版印刷による天草本の数々や、それを印刷したグーテンベルクの印刷機、南蛮船模型、西洋古楽器の複製や、天正少年使節団の足取りをたどるビデオなどを見ることができ、16世紀当時の日本人が、南蛮文化にかぶれた気持ちがよくわかる感じがします。

 

 

南蛮船模型。

 

天草・河浦には1591年から1597年にかけて、キリスト教の宣教師を養成するための大神学校、コレジヨ(コレジオ)がありました。コレジヨはポルトガル語で、英語のカレッジにあたる言葉で、学校という意味です。

 

コレジヨはもともと、キリシタン大名たる大友宗麟のお膝元、豊後国府内(いまの大分県大分市)のあたりにありました。ところが府内は豊薩合戦による島津家久の焼き討ちにより壊滅したため、島原の加津佐(いまの長崎県南島原市)に移されました。

 

加津佐のコレジヨも、豊臣秀吉が明国征伐のために名護屋に赴くとの布告を受けて、豊臣家の目の届かない天草に移されたのでした。

 

 

天正遣欧少年使節がヨーロッパから持ち帰った、グーテンベルクの印刷機(複製)。ガチョウの革で作られたスタンプにインクをつけ、そのスタンプで活版にインクをのせていきます。そして、紙を印刷機に固定し、プレスする仕組みです。

 

1597年にコレジヨが長崎に移転したときに、印刷機も長崎に移されました。日本では20年間ほど使われましたが、最終的には宣教師の国外追放のさいに、印刷機ごとマカオに送り返されました。

 

 

グーテンベルクの印刷機により刷られた、グーテンベルク42行聖書。ほとんどのページが42行の行組みであることから、その名がつきました。

 

 

天正遣欧少年使節の衣装。セミナリヨから選ばれた伊東マンショ千々石ミゲル中浦ジュリアン原マルティノの4名が使節となりました。

 

少年使節たちは日本に帰郷するころ、日本では豊臣秀吉による伴天連追放令がでていました。そして、日々強さを増していくキリスト教弾圧のなかで若くして命を落としていきますが、千々石ミゲルだけがのちにイエズス会を脱会し、キリスト教弾圧側にまわったことで知られています。(しかし、最近見つかった千々石ミゲルのものと見られる棺からはロザリオが見つかり、実は棄教していなかった可能性がでてきたとのこと。)

 

 

少年使節たちは西洋音楽も学んできました。日本に戻ったあと、聚楽第にて豊臣秀吉の前で演奏も披露しています。豊臣秀吉はたいへん珍しがり、何度もアンコールしたほどだとか。

 

 

なお、2階はキリスト教やコレジヨとはまったく関係がない、世界平和大使人形の館となっております。

 

日本初の女性代議士である園田天光光氏が、平和の使者である人形を世界中に贈ろうと、国際児童年に世界100か国に各国の大使夫人を通じて一対の市松人形を贈ったことがはじまりで、その返礼で57か国から届いた人形117体がこちらに展示されているとのことです。

 

郷土の歴史と『平和』について学べる施設となっていますので、ぜひみなさん訪れてみてくださいね。

 

大江天主堂

 

キリスト教解禁後、もっとも早く活動をはじめた大江天主堂を今回はご案内いたします。

 

小高い丘に立つこのロマネスク様式の教会は、フランス人宣教師ガルニエ神父が私財を投じて設立したといわれており、昭和8年に完成しました。(翌9年には、前回ご紹介しました崎津天主堂が完成しています。)

 

 

この白亜の建物の建築設計にたずさわったのは、崎津天主堂の建設にもかかわった、教会建築の父こと鉄川与助氏です。日本人の大工がヨーロッパ教会建築の技術を習得し建築したものであり、「天主堂」の作例として、近代建築史上、重要な建物であるとされています。

 

 

パアテルさん(「神父」の意)と呼ばれ、住人に慕われていたという、ガルニエ神父の胸像。贅沢したら人は救えない」が口癖で、つぎはぎの司祭服をまとい、一般信徒と同じ食事をとって質素に生活していたということです。臨終の際には、「墓に金をかけるな。墓をつくる金は病人や困った人に与えてくれ」と厳命したそうですが、慕われていた神父様だけにそうもいかず、信徒は立派なルドヴィコガルニエ塔を作りました。

 

碑文

ルドビィコガルニエ神父様は1892年天草に赴任以来50年、大江崎津教会を兼任、後大江教会主任神父として、生涯を大江の地に埋められた。その間、私財を投じ大江天主堂を建堂し、住民に対しては信者未信者の別なく慈悲をたれ、自らは弊衣を纏い、己を犠牲にしてキリストの愛を実践し信仰の燈を捧げて下された。
 この胸像は30年忌を迎えるに当たり、この偉大なる御功績を讃え、御遺徳を偲ぶと共に後世にその面影を遺し、信仰の精神振起にも資したいと念願し建立したものである。

昭和46年11月26日

 

 

集落を見渡せる場所に作られたルドヴィコガルニエ塔。ガルニエ神父のお墓ですね。

 

ガルニエ神父は、天草に赴任して50年以上、ついに故郷フランスに帰ることなく、生涯を閉じました。祖国からは一時帰国費用なども送られていたのですが、それすらも天主堂建設に投じていたのでした。

 

 

教会敷地内には、ルルドの泉を模したものがありました。フランスにある奇跡的治癒をもたらしてくれる奇跡の泉で、今年になって70例目の「ルルドの奇跡」認定があったことがニュースになっていました。(坐骨神経症に伴う歩行困難をわずらった修道女が、ルルドを訪問後に劇的に回復し、それに対する医学的な説明がつかないとの医師団の判断を受けたもの)

 

 

1907年に発表された九州旅行記「五足の靴」の舞台ともなりました。

 

東京新詩社の主宰であった与謝野鉄幹が、まだ学生であった木下杢太郎北原白秋平野万里吉井勇ら文学青年たちを連れ、九州各地を旅をした足跡を記録したものです。主にキリシタンの遺跡を見聞するための旅行であり、この旅のハイライトが「パアテルさん」こと、ガルニエ神父に会うことでした。

異国情調あふれるこの作品が、明治末期~大正の文壇に「南蛮趣味」の流行をもたらしたと言われています。

 

 

写真工房ひまわりさんの作品展が行われていました。東京から熊本に転居して、活動なされているとのことでした。

なお、12月上旬から1月上旬にかけては、夜間ライトアップが行われる大江冬祭りイルミネーション(電球5万個、17時30分~22時頃)もありますよ。

 

天草の崎津集落/世界文化遺産候補「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」構成資産

 

世界文化遺産候補「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産である、崎津集落を訪問いたしました。1569年、ルイス・デ・アルメイダ神父によってキリスト教の布教が行われたこの崎津集落では、1638年の禁教令以後、激しい弾圧を受けながらも250年間に渡って「潜伏キリシタン」として信仰が守られてきました。

 

江戸幕府による弾圧により、長く指導者(神父)不在であったため、日本文化と混ざり合い、日本独特のキリスト教文化が花開いていきました。たとえば、慈母観音像を聖母マリアに見立てて祀ったり(マリア観音と言われます)、聖具を「納戸神」として祀ったりしました。

 

【注意!!!】

現に地元住民の方が生活する集落自体に価値を見いだしている世界文化遺産候補ですから、来訪時には十分な配慮が必要です。集落内には観光駐車場がほとんどないため、集落内での渋滞発生などで現地に迷惑がかかっていると聞きます。お車で来場される際には、崎津集落ガイダンスセンターなどに駐車し、レンタサイクル(1日200円)を借りてまわるか、当社のような観光ガイドタクシーの利用をおすすめいたします。

 

 

崎津天主堂。

 

絵踏みが行われた﨑津村庄屋宅跡ハルブ神父が買い取って建てたのだと言われています。絵踏みが行われたのは、ちょうど祭壇の位置でした。

 

 

崎津天主堂の由来記。

 

昭和9年に建てられた、ゴシック様式の教会ですが、中は畳敷きという珍しい建築仕様も、見どころの1つです。なお、こちらを建築した建築家・鉄川与助氏のお孫さんである鉄川進さんは、現在、一級建築士として活躍されていますよ。

 

 

 

1927(昭和2)年に長崎の黒崎教会から崎津教会に赴任してきた、ハルブ神父の碑。

 

神父が黒崎教会からもってきたフランス製のオルガンは、古楽器製作者・平山照秋さんによって修復され、修復披露コンサートなども行われました。

 

 

せっかくの崎津の景観を存分に味わうためには、遊覧船(60分2,500円)がいちばんではないかと思い、天草漁協崎津支所を訪ねてみました。

 

屋根付きのクルーザーとかではなく、漁船になりますので、夏場は帽子や日傘のご用意があったほうがいいかもしれませんね。

 

 

水上から見た崎津天主堂。

 

遊覧船は1時間に1便となっていますが、漁協のかたの状況次第ではありますが、わりと柔軟に対応していただけるようです。

 

 

民家から湾に張り出した木組みの漁業作業場「かけ」も、水上ならよく見えます。

 

かけは、魚の水揚げ場所や魚干し、船の係留などに使われ、水に強いシュロの木で作られています。崎津地区は、海と山に挟まれていて土地が狭いため、少しでも土地を広くする工夫なのだと思われます。

 

 

海上のマリア像。これは遊覧船でなければ見ることができないものです。昭和49年に信者さんたちによって建てられたということです。

 

 

お土産には、崎津名物「杉ようかん」をどうぞ!琉球王朝中山王の使節から伝授されたと言われているもので、崎津地区では各所で販売されております。

 

天草の窯元・高浜焼~上田家庄屋屋敷

 

天草シリーズ第2弾。前回は三角西港でしたが、今回は天草の焼き物がテーマ。熊本の焼き物といえば、小代焼(荒尾・玉名)高田焼(八代)、網田焼(宇土)などが知られますが、実は天草も、1650年頃から窯業が行われてきた、歴史ある窯業地域なんです!

 

その中でも、今回は高浜・皿山を起源とする高浜焼をご紹介します。今回はその高浜焼の伝統をうけつぐ「寿芳窯」と、その高浜焼を支えつづけてきた庄屋・上田家の屋敷がまだ現存しておりますので、そちらにもお邪魔させていただきました。

 

 

天草でなぜ窯業がさかんになったかといえば、「天草陶石」と呼ばれる、真っ白で良質な陶石が産出されるからなんです。その品質は、平賀源内に「天下無双の上品」と言わしめた質の良さで(「陶器工夫書」の一節)、いまでも有田や瀬戸に高級磁器の白磁原料として利用されています。年間の出荷量は約3万トンにも及び、全国の陶石生産量の8割を占めています。

 

ちなみに当初は砥石として出荷されていましたが、わずかに鉄塊を含むため刃こぼれの原因となってしまい、砥石としての評価は低かったということです。

 

 

天草陶石を用いた高浜焼は、代々、高浜村で庄屋を勤めてきた上田家によって営まれてきました。その高浜焼や、それを営んできた上田家のことを知るための歴史資料館として、上田資料館という建物があります。

 

寿芳窯の隣に上田庄屋屋敷があり、上田資料館はその敷地内にあります。見学者がいるときだけ開放されるスタイルですので、見学されるときには、寿芳窯の店員さんに入場料を払って、鍵を開けてもらってください。

 

 

高浜村皿山で働く人たちのために発行されていた紙幣「皿山札」。皿山地区でしか通用しないものでしたが、贋札防止のために透かしをいれたり、印刷に版木を用いたりしました。季節ごとに金銭と交換することができました。

 

皿山札は、江戸時代に各地で見られた藩札を見本に作られたようですね。

 

 

高浜焼は、長崎の町人が肥前長与の陶工を連れて高浜を訪れたさいに、開窯を提案されたことにはじまるということです。それを受け、当時の高浜村庄屋であった上田伝五右衛門は、村内で協議の上で、富岡の役所へ開窯を願いでました。

 

もともと天草陶石を村民が農作業のあいまに掘り出し、肥前へ販売していたのですが、陶石は険しい山中にあり搬出がたいへんで、現地に窯をおこして村人に焼き物造りを習わせた方が、よほど村の繁栄につながると考えたようです。

 

 

この上田家庄屋宅は、高浜焼をはじめた上田伝五右衛門の息子、7代目当主・上田源太夫宜珍(よしうず)の時代に作られたものです。こちらも見学することができます!(この中にさきほどの上田資料館があります)

 

 

600坪の土地に南向きに建てられ、部屋数は約20、居室の広さは約100畳だとのこと。建物内部は老朽化が著しく見学はできませんが、建物外観や庭園を見ることはできます。いちばん広い大広間は17畳もあるそう。

 

 

国の有形文化財に主屋、離座敷、表玄関、正門、裏門・塀が登録されていて、昭和7年8月、与謝野鉄幹・晶子夫妻が天草を訪れたときは、離座敷の客房に宿泊されたとのことです。

 

 

1815年当時の建物がまだ現存していることに驚きです。中に入ることはできないまでも、こうして外から中をうかがうことは可能ですよ。

 

 

屋敷内に船を浮かべられるほどの池が・・・。当時の上田家の力を垣間見るようですね。

 

世界文化遺産・三角西港

 

平成27年に世界文化遺産に登録された三角西港が、今回の訪問地です。ホームページの背景写真も、ここで撮影してもらっているんですよ。

 

穏やかな三角ノ瀬戸の上には、架橋が進んでいる新天門橋が見えています。熊本天草幹線道路の整備の一環で、完成すれば、熊本市中心部と天草地域を90分で結ぶ計画なんだそうですよ!楽しみですね。

 

 

明治20年に完成した三角西港は、明治三大築港の1つに数えられていて、当時の石積みの埠頭が現存しているのはここだけなんです。この三角西港は、明治政府の殖産興業の政策に基づいて計画され、オランダ人水理工師であるローエンホルスト・ムルドルによって設計された、当時の最新技術で作られた港湾都市といえます。

 

築港のため投じられた人員は、実に石工13万8376人、大工8421人、人夫は5万591人、潜水夫300人とも言われています。築港には、物流を阻害する宇土半島の険しい山々が障害となりましたが、予算の半分を道路整備にあてることで、3年という短期間で築港を実現しています。

 

 

東排水路。1世紀前からのものが現存し、いまだに使われ続けているというのは、凄いことですし、素晴らしいことですよね。

 

石積みの埠頭は756mにも及び、水路や、西洋建築物などが現存しています。埠頭の石は、対岸の飛岳から切り出した安山岩を切石しています。

 

 

ムルドルハウス。水理技師の名前をつけたお土産屋さんですね。観光パンフレットなどもここで入手することができますよ。

 

 

角の丸みが、実に美しいですね。天草の石工が丹念に削り挙げて、この丸みを作り出しています。

 

 

東排水路にかかる石橋「三之橋」と、アコウの木。

 

写真手前部分には、当時は木橋がかかっていたと言われていますが、現在は失われています。

 

 

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の紀行文「夏の日の夢」の舞台となった、浦島屋。当時の県知事である富岡敬明から、「立派なホテルを作って欲しい」という要請を受けた、小崎義明県会議員と、熊本の実業界の人々の共同出資で作られました。明治38年に解体され、中国の大連に運ばれましたが、平成5年、設計図を元に復元されました。

 

 

浦島屋の建築請負をした小山秀は、天草の御領大島出身で、長崎の大浦天主堂や長崎のグラバー邸を建設した方といえば、すごさが伝わるでしょうか。

 

 

平成26年に三角西港の資料館としてオープンした「龍驤館」。入館料は無料でしたが、平成29年4月1日(土)から入館料がかかるようになりました。

 

 

入館料200円がかかりますが、館長さんが港のなりたちや時代背景などを丁寧に説明してくださいますから、安いものではないかと思います。

 

天草一号橋のふもとで立地的には行きやすいですので、ぜひ一度石造りの港湾都市を散策されてみてくださいね。

 

兼坂塾跡~百梅園

 

徳富蘇峰が幼い頃に学んだ、兼坂止水の私塾跡をたずねました。熊本市民のかたには、百梅園という梅の名所として有名なところですね。

 

兼坂塾跡
兼坂止水は、細川藩士で学者、詩人として知られており、また明治四年(1871)家禄を奉還し、農事にしたがった藩士中第一号の帰農者としても有名である。梅をこよなく愛し、数多くの梅を植えたことからここを百梅園と名づけ、この地に塾を開き多くの子弟を教育した。徳富蘇峰もこの塾に学んだ。(現地案内板より)

 

 

兼坂止水が愛した百梅園の梅も、時代とともに枯れてしまったりして、だいぶ寂しくなっていたそうなんですが、島崎繁栄会を中心とした地元の方々が、20年という歳月をかけてここまで梅の木を寄付したりして梅の名園として整備されたそうです。

 

梅の見頃は3月中旬頃とのことで、取材に来る時期を間違えましたね・・・。

 

 

百梅園自体に駐車場はございませんので、石神山公園に駐車して、南側出入口から徒歩で降りてくるのがいちばん簡単かと思います。入り口を見落としやすいのでご注意を。上の写真のところから降りるのですが、案内板がとても小さいですので・・・。

 

叢桂園公園の駐車場にとめて、上っていく方法もありますが、叢桂園駐車場までの道はとても狭く、また駐車場が舗装されていませんので、特に雨天時は石神山公園がベターかなと思います。

 

 

細川藩剣術師範であった兼坂止水は、明治3年家禄を奉還して帰農し(帰農者第一号)、この地に翌年私塾・衆星堂を開き、さらに蔵春堂を設けました。これを一般的には「兼坂塾」と呼んでいます。

 

 

百梅園のある島崎という地は、江戸中期から別荘地として開けたところで、この地はもともと細川藩家老の米田松洞の別荘があった場所だということです。その後、兼坂氏の所有となったとのこと。

 

 

 

百梅園にはまだ梅の花は咲いていませんでしたが、よく手入れされていて、日の当たるじつに気持ちのいい公園でしたよ。

宝来宝来神社~当銭神社(宝くじ当選祈願)

 

宝来宝来神社は宝くじの御利益があるとして、熊本のテレビで取り上げられ、有名になった神社です。

 

”ブラックルーム”などのアトラクション施設もあり、お子さん連れで来ても子どもも退屈しないんじゃないかな?と思います。テーマパーク的な神社という趣きです。

 

 

平成16年春、リストラされた重機の運転手がこの土地の造成工事を行っていたところ、大きな岩に当たりました。運転手はその岩を取り壊そうとしましたが、突然重機が動かなくなりました。修理してまた取り壊そうとしましたが、再び故障し原因も不明です。

 その夜、夢に岩が出てきて「どうして私を壊そうとするのか?」と言うので運転手は「生活のために金が必要だ」と答えると、岩は「それなら宝くじを買いなさい。そして当たったお金の一部で私を掘り出して祀ってくれないか?」と言いました。運転手は半信半疑で宝くじを買うと生活に困らない程度の額が当選したので岩を掘り出しました。

 その話を聞いた友人が、この岩を拝み宝くじを買ったところ、途方もない額が当たりました。その噂が広まり、誰ともなくこの岩を『当銭岩』と呼ぶようになり、願掛けする人々が訪れるようになりました。その後、当選された方々のご寄付により、当地を宝来宝来神社として建立いたしました。

(宝来宝来神社公式HPより引用)

 

 

 

宝くじ当選者からの寄付によって、この拝殿堂が建立されたそうです。当選者の御利益にあやかることができそうな気がしますね。

 

 

宝来宝来堂にて、12時から1時間おきに計5回、お祓いおよび開運祈願を行ってくださいます。終わり際に、小判のようなお守りのシールをいただけました。

 

 

開運御利益ブラックルーム。電気がいっさい点いておらず、目を慣らしながら探検します。子どもたちに大人気で何度も繰り返しワイワイ遊んでいました。

 

何事もあせらず、落ち着いて事にあたることを身をもって体験するのが目的の施設で、目を慣らせばありがたいお言葉も見える仕様なのですが、子どもたちにすれば漆黒を体験できるのが面白くて仕方が無いようでした。

 

 

外れくじの供養箱。宝くじ神社ならではですね。

 

 

ラッキーナンバールーレット。これもあまり他の神社では見たことがないですね。

 

 

開運グッズやパワーストーンなども売られていました。開店祝いなどで、おめでたいものが必要になったときにはここに来れば、運気の上がるようなアイテムが手に入りますね。

 

 

この9つの鳥居を決まった所作で「ホギホギ」と唱えつつ巡回します。ホギホギとは「陽光和福招金萬宝来」の略語で、鳥居には正式名称が1字ずつ書いてあります。

 

 

宝くじ当選者にあやかりたい人は、ぜひ尋ねてみてくださいね。まるでテーマパークのようにいろいろと楽しめるものがありますが、あくまで神社。祈祷や参拝、施設利用はすべて無料となっていますのでご安心ください。