天草四郎ミュージアム

 

天草パールラインをドライブしていますと、道の駅・上天草さんぱーるの辺りで、小高い丘の上にある教会状の建物が目につくと思います。気になってはいるものの、入ったことがない人が多いのではないかと思います。

 

今回はその、天草四郎ミュージアムをご紹介させていただきます。最近、施設名称が天草四郎メモリアルホールから変更になりました。

 

 

天草四郎ミュージアムの四郎像展望所から、さんぱーるを見下ろしたらこんな感じ。

 

1637年10月、苛政や弾圧に耐えかねた天草・島原の人々が、一斉蜂起しましたが、その一揆軍の最高指導者が天草四郎(本名・益田四郎)でした。そのとき弱冠16歳でした。その彼が生まれたのが、この大矢野でした。

 

 

四郎像展望所にある、殉教天草四郎之像。

 

天草四郎はさまざまな奇跡を起こしたと言われています。天から鳩をまねいて手の内で卵を産ませ、それを割って聖書を取り出したり、盲目の少女に触れただけで視力を回復させたとか、雀をとまらせたままの竹の枝を折り陸を歩くように海上を歩くなど・・・。おそらくは、周囲の大人たちが、一揆軍総大将たる四郎を神格化するために作り出した逸話ではないかとも思われますが、いまとなっては調べようもありません。

 

天草四郎ミュージアムは、島原・天草一揆が起こった背景ですとか、渡来した南蛮文化の影響を受けた当時の様子などを、多数の資料や映像で見せてくれます。(残念ながら館内撮影禁止でしたので、内部の写真はございません!)

 

 

石碑の文章は、改行や句読点がほぼなく、そのままでは読みづらいかもしれませんので、意訳を交えつつご紹介させていただきます。間違っているところがありましたら、ご指摘ください。

 

四郎は姓を益田といい、大矢野の生まれ。長﨑にて神学を学んだ後、郷里に帰って伝道に努める。

 

当時、天草の領主・寺沢堅高と、島原の領主・松倉勝家氏は言語に絶するキリシタン弾圧と極度の苛政を敷いた。その苦しみに堪えかねた両郡の住民は、寛永十四年十月十五日、遂に島原有馬郷に於いて殉教反幕の狼煙ををあげ、十一月一日、大江源右衛門を初め幹部一同は四郎のもとに集い、仕えることを誓う。

 

四郎は森宗意軒等、首脳部五十余人と共に談合島に上陸し、この地に於いて秘策をねり、十一月四日、島原に戻る。

 

折しも天草の風雲急なるを知り、自ら千五百の部隊を率いて、十三日に上津浦の友軍を救援する。ここに至りて両郡の信徒は団結して原城にこもるその数、三万七千。

 

これを包囲するは徳川幕府軍と九州諸大名の連合軍合わせて十二万五千。攻防は激戦を繰り返すも、城固くして陥落させること能わず、寛永十五年一月元旦、幕府軍の首相板倉重昌以下多数の将兵戦死す。

 

松平伊豆守が攻めるが容易に落ちず、性急な攻撃は止めて信徒の兵糧を絶ち、二月十八日、悪戦苦闘、双方の死傷者数万。城が遂に落ち、四郎は城内礼拝堂内に於いて、細川藩士陣佐左衛門の槍にかかり昇天する。年は時に若冠十六歳。

 

残る信徒は大虐殺または猛火の中に飛び込み、或いは城壁より海に身を投じて全滅する。

 

世界史上、比類なき悲劇。天草島原の殉教戦はかくして終われり。

 

思うに希有の人傑、四郎の生涯はまことに壮美短命、あたかも桜が花風に散るような風情があった。

 

春風秋雨三百十八年、静かなる宮津湾内の信徒の丘の上に建つこの銅像を仰ぎ見るとき、感慨が胸を打つものあり。

 

西暦一九六六年九月十日

文書李慈秀

 

 

愛の鐘。以前は四郎像展望所にありましたが、地震の影響により崩れたのをきっかけに、国道から目立つ位置に移設されたようです。

 

 

天草四郎ミュージアム内には、ミケネコオリーブというオリーブ専門店もありますよ。オリーブの木を加工した食器や、石けん、ソフトクリームまで!あまり他で見られない商品がたくさんありますので、こちらも足を運んでみてくださいね。

 

 

2階は瞑想室になっていて、静かな音楽が流れており、椅子に寝そべりながら、瞑想にふけることができますよ。

 

また、映像ホールでは、映画「わが心の天草四郎」を見ることができます。これは、天草島原の戦いをある細川藩士の視点で描いたものです。かつては3Dめがねを用いた、立体視のできる映画だったのですが、数年前から2D映像に切り替わったようですね。