西郷隆盛祖先発祥の地・「菊池」地名発祥の地

西郷公民館(熊本県菊池市七城町)

 

西郷隆盛のルーツが熊本県菊池市にあることをご存じでしょうか。西郷家は、肥後国菊池郡を本拠として活動していた菊池一族の初代、菊池則隆公を祖先に持つんです!

 

「菊池と西郷では、姓が違うじゃないか?」と思われるでしょうが、菊池則隆公の子・菊池政隆公が、増永城城主(菊池十八外城の1つ)となるに際し、西郷姓を名のるようになったということのようです。

 

 

西郷家初代政隆から数えて32代目が、西郷隆盛となります。薩摩に移り住んだのは、26代西郷九兵衛昌隆の時であるとの記録が残っています。

 

増永城跡

 

増永城は、別名西郷城とも呼ばれました。城の築城年代は定かではありません。増永城のある七城町の町名の由来は、菊池十八外城のうち七城が、当町内に在ったことによると伝えられています。

 

増永城跡(菊池十八外城)

 

増永城は菊池初代則隆の子、西郷政隆が開いた平城で、西郷氏代々の居城として、正面に迫間川を擁し、台城・正光寺城と連携して玉名・鹿本方面からの侵入に備えた城です。

 

遺構は少なく、現在は井戸、土塁の跡(竹林)、また「西郷さんの墓」と呼ばれる五輪塔が残っているだけです。この地から西に100Mくらいのところに地蔵院があり、これは西郷家の菩提寺であったと伝えられています。

 

また城域東の羽根木八幡は則隆、砂田若宮神社は政隆の勧請ともいわれ、外城の仲でも古いと考えられます。

 

城主の名が村の名として残り、その末裔は鹿児島に赴き明治維新の英雄西郷南洲(隆盛)を生みました。それを物語る「西郷南洲先生祖先発祥之地碑」が境内にそびえ立ち、碑文は徳富蘇峰の筆によります。

 

平成十八年菊池市教育委員会/菊池市文化財保護委員会

(現地案内板から引用)

 

菊之池跡

 

菊池の名前の由来となった、「菊之池」跡。菊池則隆が名付けたとされますが、深川村にあったその広大な池のかたちが「菊の花」に似ていたからだとか、池の周りに菊が咲き誇っていたからだとか、名前の由来は諸説あります。現在では、水源が枯渇してしまい、昔の姿をしのぶことができません。

 

地名としては菊之池の名は残り、地元の小学校の名は「菊之池小学校」となっています。

 

 

菊池則隆の墓

 

菊池則隆の墓も、菊之池の近くにあります。もとは藤原則隆といい、太宰府天満宮領赤星荘園の荘官として、延久2年(1070年)に菊池平野の一角、深川に居城を構え、地名をとって菊池を名乗り始めました。

 

この墓は文化十五年(1818年)に創建され、明治・大正の工事を経て、いまの状態になっているそうです。

 

菊池氏発祥之碑

 

菊池一族のルーツをたどる旅なら、ぜひ加来タクシーにお任せください!付近には菊池温泉もありますから、お任せいただければ最適なプランをお見積もりさせていただきます。

 

株式会社美少年・蔵見学

 

熊本で明治時代より親しまれている「美少年」ブランドのお酒。旧運営会社(火の国酒造)が破綻したのち、現在は「美少年」ブランドによる酒造事業は、株式会社美少年という新しい会社にひきつがれて、少数精鋭で頑張っていらっしゃいます。

 

旧運営会社は熊本市南区に会社を構えていましたが、新会社は菊池市の水源小学校跡(菊池市四町分字免兎原1030番地)にて、酒造事業を営んでおられます。

 

 

左の校舎が工場と事務所、右の体育館はおそらく倉庫になっているようですね。

 

なお、蔵見学は事前予約が必要になります。見学をされるのは、11月~4月の製造期間がおすすめです。ただ、それ以外の期間でも、杜氏による施設見学をすることができます。試飲やオリジナルラベル制作などもできますよ!

 

 

水源小学校の昇降口にあたりますが、フォークリフトがつけてあったり、シャッターが取り付けてあったりして、もう立派に工場の趣きです。

 

 

児童の下駄箱がまだそのまま残されていました。

 

株式会社美少年(千堂敬一郎社長)は、2013年8月1日に火の国酒造株式会社から酒造事業の事業譲渡を受け、事業を開始しました。2013年11月23日本社を熊本市南区から菊池市四町分の水源小学校跡に移転しました。

 

 

松本零士先生の代表作「銀河鉄道999」には、「美少年」というお酒が登場します。アルカディア号の設計者トチローが愛飲しているのですが、じつは松本零士先生は「美少年」というお酒が実在しているとは全く知らなかったようです。

 

ところが、あるとき松本先生が偶然「美少年」の看板を見つけ、あわてた松本先生が会社にお詫びの電話をいれたことから、「美少年」と松本先生の交流がはじまったようです。いまではコラボのお酒が売られているほど。

 

 

もとは給食室だったという場所。こちらでお米を蒸したりされるそう。

 

訪問時期は10月でしたので、お酒の製造をしていない時期だったのですが、製造設備を解説つきで丁寧に見学させていただけました。少人数で製造されているということでしたので、お手間をとらせて申し訳なかったです。

 

 

もとは校長室であった製麹室。納豆を食べての入室は絶対ダメなんですって。それだけ納豆菌が強いということなんでしょうね。

 

 

薮田式沪過圧搾機という機械なんだそうですが、こちらでお酒の濾過をされているんだそう。たくさんのフィルターのようなものが並んでいました。

 

 

地元の方は、水源小学校が廃校後も取り壊されることなく、こうして当時の姿のまま建物を残してくれているのは、ありがたいことなんじゃないかと思います。

 

 

製造工程などがパネル展示されている場所。どうやって日本酒が造られているかがよくわかります。

 

松本零士先生のイラスト入りの1号木升も売られていますよ!わたくしもグラスセットで買わせていただきました。

有朋の里・泗水孔子公園

 

泗水孔子公園の存在は知りつつも、そもそも泗水と孔子にどんな関係が・・・?という疑問がありましたので、疑問を解消すべく、かなり久しぶりに孔子公園を訪れました。

 

入場料は無料で、「道の駅・泗水養生市場」に隣接しています。

 

 

中国の宮廷建築様式を採用して、中国宮廷の世界観を再現されたなかなかにゴージャスな公園です。

 

孔子公園がここ泗水町に作られたのは、どうやら、泗水という地名のルーツが、孔子の生誕地、中国山東省・泗水県に由来することから来ているようです。

 

 

町名由来之碑。「泗水」町名がつけられて百周年を迎えるにあたり、町名に諸説あって一定しないので、昭和61年に調査団が結成されたようです。

 

その結果、「泗水」という町名は、明治22年4月1日、初代村長・西佐一郎氏が村会に諮って命名したもので、郷土発展を願って孔子の聖地「泗水」の名を取ったということで結論づけられたそうです。では、そもそも、なぜ孔子にあやかったのか?というと、泗水村が成立する前はこの地は「合志郡」だったので、「合志」と「孔子」をひっかけたようです。

 

 

孔子

名は丘(きゅう)、字(あざな)は仲尼(ちゅうに)。中国歴史上の偉大な思想家にして政治家、教育家。孔子は紀元前551年、現在の山東省曲阜市尼山付近で生まれました。

 

幼少から「敏にして学を好み、下問を恥じず」という少年でしたが、家庭は貧しい中に育ちました。成年になって一時、倉庫の管理をする役人になったこともあります。中年期に至ると、門人を集めて学問の講義を行うようになり、「どんな人にも等しく学問を与えるべきである」と主張して、それまでになかった「私人が講義をする」先駆けとなりました。

 

50歳前後になると魯の官僚に迎えられ、中都の宰、司空、司寇などの要職に就任。その後、政界の腐敗を嫌って54歳のころに辞職し、諸国を周遊して自分の政治主張の普及に努めました。

 

68歳で再び故郷の魯に帰り、全力で教育と著述に従事。詩書の型を正し、礼楽を定めて史書「春秋」を編纂し、周易(五経の一つの易経)の思想を支持しました。その生涯を終えたのは紀元前479年、73歳のときでした。

 

孔子の「人は生きている限り学ぶべきである」とした一生は、後世の人々の貴重な文化遺産(「論語」孔子の教えを弟子達がまとめたもの)となって今に伝えられています。

※現地看板より引用

 

 

孔子像を納めた祀聖亭。

 

 

野外ステージ・・・に見えますが、かつてはここに資料館がありました。老朽化により取り壊されたようですね。

 

 

記念品コーナーという名の売店です。

 

 

グラウンドが隣接して整備されています。

 

 

この公園を整備した泗水町は、菊池市、菊池郡七城町・旭志村と合併し、現在では菊池市となっています。

 

黒石原(飛行場)奉安殿跡

 

教育勅語や御真影を奉る場であった奉安殿ですが、GHQの神道指令によりほとんどが破却され、現在ではほとんど見ることができません。

 

ところが、黒石原飛行場の奉安殿は解体をまぬがれ、かつ原位置に残る、県内でも唯一ののもので、近代遺跡として貴重な文化財となっています。

 

 

黒石原飛行場の奉安殿は、洋風の様式で大理石が貼られていたということですが、現在ではベースとなるコンクリートがむきだしとなっています。

 

 

奉安殿の内部。

 

黒石原飛行場は昭和十六(1941)年四月に現在の合志市豊岡に熊本地方航空機乗員養成所として開所されました。

 

この時期に黒石原(飛行場)奉安殿は、創建されました。航空機乗員養成所とは、逓信省航空局が設置した民間航空機乗員(操縦士、機関士、通信士)を養成する施設で、全寮制で軍隊式の教育が行われていました。

 

ここ黒石原飛行場からは、終戦までの四年間で五百三十四人が巣立っていきました。昭和二十年三月から四月にかけては沖縄戦に出撃する特攻機の中継基地として利用され、五月十三日には米軍機による空襲を受けました。この日の攻撃により、七名の犠牲者が出ています。

 

そして七月からは、本土決戦に向けて特攻隊機十二機が常駐していましたが、八月十五日終戦を迎えました。

(くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワークリーフレットより引用)

 

 

西岡神宮

 

 

菊池氏、宇土氏、名和氏といった、宇土歴代領主の尊崇を受けてきたのが、この西岡神宮です。

 

小西行長公が領主の時代には、キリシタン大名であった小西氏により社殿焼き討ちに遭いました。(小西氏の時代には、県南の寺社の多くが破却を受けたとの言い伝えが残っています。)その後、加藤清正公により現在の地に再興され、細川氏の庇護も受け、現在にいたります。

 

 

和銅6年(713年)、宇土地域の総鎮護として中原に創建されました。

 

当時は春日大神住吉大神の勧請でしたが、承久3年(1048年)に八幡宮をあわせて祀ったため、三宮大明神と称することになり、現在でも三宮さんの名で親しまれているそうです。

 

 

社殿に用いられている石柱や基礎の石が赤みがかっていて、宇土市ならではの馬門石が使われているのがよくわかります。

 

※馬門石とは、宇土市網津町字馬門で産出される凝灰岩で、約9万年前の阿蘇山の噴火により流れ出た火砕流が堆積したものです。

 

 

五色の鳥居。

 

緑…仁・自分を愛し真心と思いやりを持ち誠実に人と接する
黄…信・心も行動も言葉も嘘偽りのない生き方で人と接する
赤…礼・礼儀礼節を大事に節度ある態度気持ちで人と接する
白…義・道理や人道に尽くし倫理を踏み外さずに人と接する
紫…智・知恵を高め偏りのない豊富な知識を持ち人と接する

 

 

来週末は秋季大祭も催されますので、それにあわせてご覧になるのもよいかもしれませんね。

 

近世宇土城跡

 

前回、中世宇土城をご案内させていただきましたが、今回はそのあとに小西行長公により築かれた、近世宇土城をご案内いたします。位置的には中世宇土城と近く、500mほどしか離れていません。

 

江戸初期に2度に渡り破却を受けたため、当時の姿がどのようであったのかは謎に包まれています。現在、堀や石垣が残っており、本丸跡が城山公園として整備されています。

 

 

城山公園には小西行長公の銅像が、訪問者を見下ろしています。

 

キリシタン大名として知られる小西行長公は、永禄元年に大阪堺の豪商(薬種商)の子として京都に生まれ、はじめは岡山の領主宇喜多直家に仕えていましたが、天正8年頃からは秀吉の側近として活躍しました。

 

慶長5年の関ヶ原の戦いでは、石田三成率いる西軍の中心人物となりましたが敗戦し、石田三成らとともに京都六条河原で処刑され、42歳の若さでこの世を去りました。

 

 

小西行長公は、秀吉の下では、室津・塩飽・小豆島を治めたあと、天正16年に肥後国宇土郡・益城郡・八代郡の領主として、17万5千石を所領し、宇土城主となりました。

 

近世宇土城を築くとともに、城下町を整備して、今日の宇土市街地の基礎を作りました。

 

国指定史跡・中世宇土城跡(宇土古城)

 

宇土市の西岡台と呼ばれる小高い丘陵(標高39m)にある中世宇土城を今回はご案内いたします。

 

なぜ「中世」などと名前に付けているのか?といえば、宇土城と言われるものは2カ所あるからです。しかも500mほどしか離れていませんので、混同を避けるために、便宜上そう呼ばれるようになりました。

 

 

宇土城東側の虎口(こぐち)。門や柵が復元展示されていました。ここを登り切れば、千畳敷と呼ばれる、主郭(本丸)に到着します。

 

西岡神宮の古い記録によれば、藤原頼通により1048年に築かれたと言われていますが、正確な築城年はわかっていません。宇土氏、名和氏の居城であったとのことです。

 

 

千畳敷を囲っている空堀。遺構保存のためコンクリートで固められています。

 

キリシタン大名・小西行長公により近世宇土城が築かれた16世紀末には、中世宇土城は使われなくなりました。

 

 

千畳敷にある16号建物跡。桁行13.9m、梁行5.0mの掘立柱建物跡です。掘立柱建物とは、素掘りの柱穴に柱を据え付けたもので、瓦が出土しないことから、屋根は板葺きもしくは茅葺きだったと考えられています。

 

 

昭和49年から平成23年度まで計24回におよぶ発掘調査が行われ、千畳敷ではおびただしい数の柱の痕跡が見つかりました。堀に堆積した土の中から、土師質土器や摺鉢、火鉢などの瓦質土器、備前焼や瀬戸焼、中国で焼かれた白磁・青磁・染付などの13~16世紀を中心とする陶磁器が出土しました。

 

 

千畳敷には、古墳時代前期(4世紀)に「首長居館」と呼ばれる豪族の住まいがありました。周囲を大きなV字型の堀で防御しており、敷地の広さは東西約80m、南北約93mと九州の首長居館でも最大規模を誇ります。首長居館の堀からは、生活に使った土師器の壺・甕・高坏などが出土しています。

 

首長居館の建物跡や古墳は、中世の城造りで大規模に土地が削られたために無くなったと考えられています。

(平成24年1月宇土市教育委員会/現地案内板より抜粋引用)

 

 

中世宇土城からの眺め。

 

宇土城は連郭式で、千畳敷のほか、三城と呼ばれる曲輪がありましたが、今回は時間に余裕がありませんでしたので、三城のほうは省略させていただきました。

 

宇土の雨乞い大太鼓

 

かつて小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も見たという、宇土の雨乞い大太鼓。小説「夏の日の夢」の一節にも、そのシーンが登場します。

「オーイ、車屋サン!」と、私は叫んで、「アレデス。アレハ何デスカ?」と訊ねる。車屋は、停止もせずに、叫んで答えた。
「どこでん、今は、同じこつばやっとります。もうずいぶんなとこ、雨が降っちゃおりまっせんけん、雨乞いばしよるとです。そんために、太鼓ば打ちょっとです。」
他のいくつかの村も通り過ぎたが、そこでも大小様々な太鼓を見たし、音も聞いた。そして、水田の遙か向こうの、見えない村々からも、太鼓の音が山彦のように響き、こだましていた。(小泉八雲著「夏の日の夢」より)

 

 

戦後の急激な経済成長のなか、雨乞い大太鼓はすっかりすたれていきました。かつては祭りの主役であった大太鼓も、神社や公民館の片隅でほこりをかぶったまま放置されてしまったり、壊れてしまったりしていました。

 

しかし、昭和48年に椿原地区で雨乞い大太鼓が復活したのを契機として、各地区で復興の動きがでてきました。そして、平成2~3年に当時の竹下登内閣が打ち出したふるさと創生事業の交付金を活用して、太鼓の修復と、今回取材をさせていただいた大太鼓収蔵館を建設しました。

 

 

大太鼓29基と関連資料28点が、国重要有形民俗文化財「宇土の雨乞い大太鼓附関連資料」として平成29年3月3日付けで文部科学大臣により指定されました。

 

これが附(つけたり)指定された関連資料のうちの1つである上古閑村の油単(ゆたん)。太鼓の胴にかけるものですが、天保十五年とありますので、これだけでも相当な価値があるものです。

 

 

宇土の雨乞い大太鼓の、外見上の特徴の1つである木星(きぼし)

 

十四面体の飾りで、片方に24~37個ずつ付けられています。これは、もともと皮止めとして使われた木製の楔が元になっていると考えられていて、それが金属鋲で皮止めをするようになったあとでも、装飾として残ったものではないか、と考えられています。

 

 

附関連資料の1つ、大太鼓担い棒。長さが9mあり、重くてとても持ち上がりませんでした・・・。写真右のような、ドラ太鼓も3基展示されています。これ以外の26基はすべて長胴太鼓ですね。

 

じつはこの大太鼓収蔵館で保存されている大太鼓、どれも実際に叩いてもいいんです!館長さんが「どうぞ実際に叩いてみてください!」と言ってくれましたが、かなり高価な大太鼓だと聞いていましたもので、それはもう、おそるおそる叩きましたよ。

 

 

実際に雨乞い大太鼓を演奏していただきました。(アップロードの許可をいただいております。)

 

本当はこれに鐘や笛などがあわさるとのことで、伴奏がないと地味なんですけどね・・・、と謙遜されていました。

 

 

毎年8月第1土曜日に行われる宇土大太鼓フェスティバルには、各地区保存会による市中パレードや大太鼓の競演が行われ、市内外から多くの見物客で賑わうそうですよ。

 

轟御殿/轟泉自然公園

 

宇土細川藩菩提所跡(泰雲寺、原泉社)のある、轟泉自然公園に本日はやって参りました。

 

 

通常、寺跡や神社跡というのは、単に木碑のみが残るケースが多いのですが、こちらは荒廃こそ進んでいるものの、参道の階段などは保存されており、当時の面影を残しています。

 

 

泰雲寺跡・原泉社跡

慶安年間(一六四八~一六五二)宇土細川藩二代藩主細川行孝公が父である初代立孝公の菩提を弔うために建立したのがこの泰雲寺です。

もと八代に建立した宗功寺を宇土に移したもので禅臨済宗京都大徳寺内高桐院末寺、泰雲寺三車山と呼びます。

立孝公以降の歴代藩主の墓地もあり以後宇土細川氏歴代の菩提所となっていました。ところが明治時代廃仏毀釈によって泰雲寺は廃寺となり、そこに神道による原泉社を建て細川氏歴代の霊を祀るということになりました。

(現地案内板より引用)

 

 

細川家歴代墓苑は立入禁止になっていました。熊本地震の影響ではないかと思われます。

 

 

こちらは公園として整備されていますので、この日は夏休みということもあり、家族連れのかたがよく訪れていました。

 

なぜ轟御殿というのかといいますと、まずこの場所が宮庄町字轟という地名であり、第十一代藩主細川立則公が文久2年(1862)にこの地を隠居所としたため。新小路町の「御殿」と区別するために、頭に字名をつけて「轟御殿」と呼んでいるのだそう。

 

 

公園の一角にある轟泉資料館。地元の歴史資料などを展示してあります。(入館無料)

 

 

宇土細川藩関連資料や轟泉水道の資料など、大きくはないものの地元の歴史資料を見ることができて興味深かったです。

 

 

昭和36年まで作られていたという轟和紙の展示スペース。轟村石橋の和紙は、宇土細川藩の御用をつとめ、加藤清正公御用達の製法を伝えていると言われています。

 

 

宇土細川藩の歴史や、地元の歴史を知るにはうってつけの場所だと思いますので、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。

 

轟水源/轟泉水道~日本最古の現役の上水道

 

轟水源は、宇土古城跡から西に1kmの場所にあります。

 

これを、およそ3kmほど離れた宇土の町まで運ぶ轟泉水道を、寛文3年(1663年)に宇土細川藩初代藩主・細川行孝公が整備しました。

 

宇土の町は地下水に恵まれず、水質がよくなかったために、昔から名水として知られていた轟水源から水道を引こうと思ったのですね。

 

 

驚くべきは、轟泉水道がまだ現役で使われているということなのです。(上記写真)現在でもなお、約90戸の家庭に上水を供給しつづけています。

 

もっとも、当初使われていた瓦質製樋管では水漏れや濁りがひどくなってきたため、敷設から約100年後の明和八年(1771年)、宇土藩五代藩主・細川興文公が、馬門石製の樋管に改修しております。

 

 

馬門石は、約9万年前の阿蘇山大爆発で流出した火砕流が凝結してできた「阿蘇溶結凝灰岩」のうち、宇土市網津町馬門付近で産出するものをそう呼んでいます。

 

通称「阿蘇ピンク石」と言われており、ピンク色をしているので、これが使われているとすぐに分かります。堆積して冷えたときの条件により、赤みを帯びることになったのだと考えられています。

 

 

訪問時は夏休みの真っ盛り。子ども連れの家族が次から次に、水遊びをしたり、水くみをしたりしていました。

 

水遊びができるこの場所と、上水用の水源とは当然別になっています。

 

 

轟泉水道のスタート地点です。

 

轟水源は、宇土半島の大岳系山塊や白山などを源流とした地下水であり、肥後三轟水と呼ばれていました。湧水量は1日約6千トン、水温は約18度で、お茶に適していると言われています。

 

 

轟水源は標高約8m、終着点付近の船場あたりは標高4mなのですから、その高低差はわずか4m。

 

総延長4.8km、そのうち本管3.5kmとのことですが、勾配をどのように管理していたのか・・・?いまほど精密に高低差を測定できないと思うのですが、当時の土木技術のすごさにうならされますね。

 

 

なお水漏れなどの修理には、昔から赤土や貝灰、塩、松枝、松葉の煮汁を混ぜ合わせ、杵でついたガンゼキと言われるものが使われています。

 

水中でも固まる性質があるため、これは現在でも修繕に使うそうです。