第11代横綱・不知火光右衛門の墓

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熊本には、相撲にまつわる偉人や名家が多いことをご存じですか?横綱免許の権威として800年の歴史を持つ吉田司家(よしだつかさけ)も熊本ですし、横綱を2人も排出しています。今回は、その横綱のひとり、第11代横綱、不知火光右衛門(しらぬいこうえもん)の墓をご紹介します。

 

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これが不知火光右衛門の墓です。大津町下町、熊本空港のすぐ北にあります。不知火光右衛門は横綱になっただけでなく、横綱土俵入りの型「不知火型(しらぬいがた)」を作り上げました。相撲を知らない方でも、名前だけは聞いたことがあるのではないでしょうか。横綱・白鵬もこの不知火型でしたね。両手を広げてせりあがる様が、体格の良い力士がすると、とても優雅ですね。

 

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説明書き。本名が原野峰松(はらのみねまつ)といい、不知火諾右衞門(第8代横綱)の弟子となりました。そう、お師匠様も横綱なんですよね。1863年11月に、じつに39歳にして吉田司家から横綱免許を受けました。いまの大相撲では30歳くらいには引退してしまうことが多いと思いますので、かなりの晩成型の力士だったようです。

 

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身長177cm、体重120Kgということですから、力士のなかでもかなり小柄なほうだったようです。また、かなり容姿端麗だったということで、錦絵は当時、飛ぶように売れたとのことです。

 

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ブログではマイナーなスポットばかりご紹介しておりますが…。

 

もちろん、加来タクシーでは、お客様のご希望を伺い、まずは有名な、外せない観光スポットを巡らせていただいております。その上で、お客様が興味がありそうだなと思ったら、このような「誰にでもは薦めないけど、好きな人にはたまらない」というスポットにも、お連れしております。幅広い地元知識で臨機応変に対応させていただきますので、ぜひ観光の際にはご用命くださいませ。

上弓削神社(弓削法王社)

 

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先週、弓削神社の話をいたしましたが、実は弓削神社と名のつく神社はこの地に2つあり、白川をはさんだ近くに、もう1つあります。この2つを総称して、弓削神社とすることもあります。今回はこちらの、「もう1つの弓削神社」をご紹介します。

 

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先週紹介したほうは女神でして、対岸にあるこちらの小さいほうが、男神となります。男神が白川の飛び石をつたって、女神のもとへと逢瀬を楽しんだとか、そういういわれがあるようです。弓削神社は福岡県久留米市や大阪府八尾市にもありますが、それらも同様に、「川をはさんで、男神と女神と位置づけられる神社が鎮座する」形式となっているようです。

 

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女神にくらべて全体的に小ぶりな施設となっております。こちらも男性器のモニュメントがあちこちに奉納されています。

 

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こちらの男神としての弓削神社は、上弓削神社とか、弓削法王社という言い方をすることもあります。

 

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性器奉納の由来。この看板に「法皇神社」という言葉がでてきますが、これは女神のほうの(先週紹介したほうの)弓削神社のことで、以前そうよばれていた時期があることから、「ホウオウさん」という言い方で親しまれているそうです。

 

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林に囲まれていて、駐車スペースもあまりなく、目立つ看板書きもないことから、ここに神社があることを知らない人もいるのではないかと思います。多くの人は弓削神社が1つだけだと思っているんじゃないかとも思います。

 

このような見落とされがちなスポットも、興味がありそうだとみれば、ご案内できますから、観光タクシーをご利用のさいには、どのようなことに興味をお持ちなのかドライバーにぜひお伝えください。時間に余裕があるときは、お客様にあった、小さいスポットを追加でどんどんルートにいれていきますよ!

弓削神社/生殖器信仰

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男根崇拝などの生殖器崇拝の神社が、実は熊本にもございまして…。その名を弓削神社といいます。祭神は孝謙天皇(こうけんてんのう、のちの、称徳天皇)で、五穀豊穣、家族円満、子宝、そして浮気防止にご利益があるとされています。

 

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女帝である孝謙天皇は、道鏡(どうきょう)法師と言う僧を寵愛し、ともに政治をとりおこなっていたといいます。道鏡法師は孝謙天皇が病に臥せっていたとき、祈祷を行ってこれを治したので天皇に気に入られ、以後、政権の中枢に食い込んでいきます。ついには天皇になろうと画策して、失敗に終わっています。道鏡法師のことを、日本のラスプーチンという言い方をする人もいますね。

 

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手水舎からして、男根だらけなので、特に女性のかたが知らずに来ると、かなり面食らうと思います。

 

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これはまた大きい男根があります。子宝繁栄にご利益がありそうですね。

 

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男性器、女性器に似せた木に願いを書いたものが、おびただしい数、奉納されています。棒状のものが男性器、板状のものが女性器を意味しています。

 

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正直なところ、はじめて見たときには、生きた人の持つ執念、怨念のようなものに威圧されてしまいました。性器に釘が打ってあるのは、浮気防止のためということです。「呪」と書いてあるものもありますし…。あと、個人名を書いて、「○○○○と××××は別れろ!」というようなものも。

 

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孝謙天皇は譲位し、一度は上皇となりますが、藤原仲麻呂の乱により淳仁天皇が廃位に追いやられたため、称徳天皇(しょうとくてんのう)として二度目の即位を果たします。この称徳天皇を後ろ盾に、道鏡は権力をふるいましたが、称徳天皇崩御によって権力を失い、熊本の弓削に落ち延びてきました。

 

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淫蕩で知られた道鏡も、この地で、天皇の侍女であったお藤の方に惚れ込み、深く愛されたため、夫婦円満の象徴とされたようですね。お藤の方がこの地では神聖視されていたため、「藤」の字を名につけることが禁じられているようです。いわゆる避諱(きひ)、日本には古来から目上のかたの諱(いみな)、すなわち本名を用いることを避ける風習がありますので。

 

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男根には、このようなかわいいものも…。

 

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腰痛にご利益があるとされるミニ鳥居も。ちょっと、わたくしの体形では狭くてくぐれる気がしないのですが…。

 

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弓削神社はじつはこの地に2つありまして、白川をはさんで対岸に、もう1つの弓削神社があります。この由来も含めて、翌週に語らせていただきたいと思います。

武蔵塚公園災害復旧工事

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宮本武蔵の墓といわれるものは全国に複数存在していますが、もっとも有名なものがこの武蔵塚公園となります。先週ご紹介した西の武蔵塚に対して、こちらを東の武蔵塚という言い方をすることもあります。

 

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この武蔵塚公園は、県道337号線沿い(大津街道、旧国道57号線)にありまして、宮本武蔵が遺言でこの立地を希望したということです。

 

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『我、君公二代に仕へその恩遇を被(かうむ)ること頗(すこぶ)る深し。

死せむ後も、大守(たいしゅ)参勤の上下を拝せむとおもふ。

願わくばその往還の目立つ処に葬れよ』

 

深くお世話になった細川藩の参勤交代を死後も見守りたいから、それがよく見える場所に葬ってほしいということですね。その遺言通り、参勤交代で通る大津街道沿いに、この武蔵塚公園が作られました。

 

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そして、やはりここも熊本地震で被災してしまっています。武蔵塚公園災害復旧工事は来年1月16日までとなっていますが、震災前の状態になりそうなんでしょうか…。心配です。

 

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筆舌につくしがたい惨状でした。復旧工事のため、業者さんが公園内に車を乗り入れて、なにか作業をされておりました。

 

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あちこちに規制が敷かれていました。熊本市の史跡はどこもこんな状況です・・・。

 

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小高い丘になっていますので、南側の長嶺方面がよく見渡せます。旧熊本空港(健軍空港)があった頃は、ここから飛行機の発着するのがよく見えたといいます。

 

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残念ながら復旧中で、崩れているものも多いですが、難をのがれたものもたくさんありますし、公園としても緑豊かで落ち着いた環境が素晴らしいですから、ぜひ訪れていただきたいと思います。

 

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一、 世々の道をそむく事なし
一、 身にたのしミをたくます
一、 よろすに依枯の心なし
一、 身をあさく思世をふかく思ふ
一、 一生の間よくしん思わす
一、 我事におゐて後悔をせす
一、 善惡に他をねたむ心なし
一、 いつれの道にもわかれをかなします
一、 自他共にうらミかこつ心なし
一、 れんほの道思ひよるこヽろなし
一、 物毎にすきこのむ事なし
一、 私宅におゐてのそむ心なし
一、 身ひとつに美食をこのます
一、 末々代物なる古き道具を所持せす
一、 わか身にいたり物いミする事なし
一、 兵具ハ格別よの道具たしなます
一、 道におゐてハ死をいとわず思ふ
一、 老身に財寳所領もちゆる心なし
一、 佛神ハ貴し佛神をたのます
一、 身を捨ても名利はすてす
一、 常に兵法の道をはなれす

 

ちょうどお昼頃に訪れるなら、武蔵塚公園すぐ近くの「武蔵うどん」にお連れしますよ!

 

 

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兜岩/熊本県大津町・瀬田堰(下井手堰)

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阿蘇大明神が蹴飛ばしたとされるのが、この兜岩(かぶといわ)。場所は大津町の瀬田神社の近くにあります。加藤清正公は熊本の数々の治水事業をすすめましたが、なんともとからある巨岩を生かした堰を作り上げたんですね。

 

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下井手取入堰。加藤清正公時代からのものが、現代風の改良を加えて、使い続けられているんですね。

 

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清正公の治水事業がらみで、もう1箇所ご紹介いたしましょう。場所が一気にかわりますが…。熊本市中央区大江の、土手から見た白川の写真です。岩のようなものが川に張り出しているのがわかりますでしょうか。

 

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これは「石刎(いしばね)」といって、川の勢いを削ぐための仕掛けなんですね。

 

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航空写真で見ると一目瞭然ですが、白川にはこのような石刎がまだ多く残されています。撮影場所からは渡鹿堰(とろくぜき)も近いですね。鼻ぐり井出など、清正公の治水事業が行われたところを巡っていくのも面白いのではないかと思います。

 

熊本の水には詳しく、くまもと「水」検定1級、熊本水守の資格を持っているほどですので、こういう治水事業にまつわるところを巡るのであれば、加来タクシーにお任せください!誰よりもていねいにご説明してさしあげられますよ。

西の武蔵塚

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宮本武蔵の墓所としては、熊本市龍田の武蔵塚公園が有名ですが、実は墓所は熊本県内にさらに数カ所、県外にも存在するのです。そのうちの1つがこの「西の武蔵塚」です。

 

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ここは宮本武蔵の弟子である、寺尾信行一族の墓所なのですが、龍田の武蔵塚公園には刀剣のみを埋め、寺尾一族の墓所に遺体を埋めたという説があります。

 

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ことの真偽はわかりませんが、宮本武蔵ゆかりの地であることだけは間違いなさそうです。

 

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自然石に、宮本武蔵の名である玄信居士の文字が刻まれています。

 

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野田派二天一流・二天会の石碑。

 

現地までは熊本都市バス「東荒尾」下車、徒歩5分くらいです。鎌研坂(かまとぎざか)が近く、夏目漱石の「草枕」の冒頭「山路を登りながら、こう考えた」の「山路」が近くにありますよ。草枕ハイキングコースの出発点近くでもありますから、ハイキングコースの途中で立ち寄るのも良いかもしれませんね。

岩戸の里公園(雲巌禅寺・霊巌洞)

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霊巌洞(れいがんどう)・雲巌禅寺(うんがんぜんじ)をおとずれた際、そのまま帰ってはいけませんよ!せっかくでしたら、岩戸の里公園にある、黒岩展望所にお立ち寄りください。ここから、有明海を見渡すことができ、天候次第では雲仙岳まで見ることができます。ここで見る夕日は格別ですよ。(ちなみにこの日は曇りがちでした…残念!)

 

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岩戸の里公園には、平成15年NHK大河ドラマ「武蔵MUSASHI」放送を記念して、勝ち運を呼ぶ武蔵像が建てられていますよ。かなりのいかつい表情ですね。

 

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また、岩戸の里公園の近くには、鼓ヶ滝(つつみがだき)というものがあります。この辺は肥後耶馬渓(ひごやばけい)と呼ばれる渓谷となっていまして、紅葉が美しい景勝地として知られています。そして、この滝は、拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)に掲載されている下記の和歌が詠まれた場所として知られているものです。

 

「音に聞く鼓の滝を打ちみれば山川の鳴るにありける」

 

知識豊富の観光ガイドタクシーならば、こういう見落としがちな観光スポットをたくさん知っていますから、ぜひ活用していただければと思っております。

霊巌洞(雲巌禅寺、五百羅漢)

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宮本武蔵が五輪の書を書いたとされる霊岩洞(れいがんどう)は、金峰山の西麓にある、熊本の人気観光地です。熊本市中心部からはかなり外れており、バスの本数も少なく、しかもバスで行くとかなり手前で下ろされるので(岩戸観音入口バス停から霊巌洞まで、急坂を1kmほど歩きます)、意外と行ったことがないという方もいらっしゃるのではないでしょうか。自家用車があると行きやすいんですけどね。

 

霊巌洞は、雲巌禅寺(うんがんぜんじ)というお寺の裏山にありまして、この雲巌禅寺自体も、平安の歌人「檜垣」(ひがき)が日参したといういわれのある歴史のあるお寺さんとなります。実は、雲巌禅寺に安置されている岩戸観音は、お寺よりも歴史が古いものとなります。

 

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この周辺はこのように棚田が広がっている地域でして、農村の醸すたたずまいがなんともいえません。近くには古民家カフェ「ココペリ」さんがあるので、雲巌禅寺・霊岩洞に行くまえにこちらで腹ごしらえするのも良いかもしれませんね。(写真左側がココペリさんの駐車場となります。)

 

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参拝料は大人200円、子ども100円となります。宮本武蔵の使った木刀や書画などが展示されている宝物館も併設されております。

 

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宮本武蔵は兵法家として有名になりましたが、多才なかたで、たくさんの芸術作品も残されています。

 

 

 

 

 

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右から、「蘆葉達磨図」「枯木鳴鵙図」、いちばん左は武蔵の肖像画で、こちらは作者不詳となっております。※いずれも複製

 

 

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檜垣女(ひがきおんな)の愛用品も収蔵されています。檜垣は、世阿弥の能『檜垣』によって知られるようになりました。歌人・檜垣の歌は、後撰和歌集に載っています。

 

 年ふればわが黒髪も白川のみづはくむまで老いにけるかな

 

 

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岩を削った道を歩いていくと、五百羅漢が広がります。宮本武蔵が生きていた時代にはまだなかったということです。

 

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1つ1つのお地蔵様がすべて違う表情をしています。過去の地震などの影響で、首がおちてしまっているものも多数あります。

 

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結構なアップダウンのある、古い石段を歩きますので、歩きやすい靴で来られるのをおすすめします。雨上がりなどは特に滑りやすくなります。

 

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五百羅漢の見事さはカメラで写しきれませんので、ぜひその目で実際に広がる光景をご覧になってください。

 

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霊巌洞までの道すがら、五百羅漢だけでなく、多数の石塔や石碑がたっています。熊本地震の影響はないわけではありませんが、大きく崩れて立ち入り禁止になったりしているところはないようです。

 

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霊巌洞入口。ここがまた、かなりの急坂です。階段は右手のものより左手の奥側ほうが、昇降しやすいですよ。

 

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岩戸観音にお参りする参拝客。木柵が設けられていて、すこし手前で拝むこととなります。

 

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五輪の書を書いたとされる霊巌洞。この場所を堪能するために、長いすも用意されています。

 

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武蔵がここで座禅を組み、瞑想にふけっていたであろう、船頭石です。よくパンフレットに載っていますね。

 

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境内内には、名水百選に選ばれた「金峰山名水群」の祈念碑がたっています。【くまもと「水」検定1級】資格及び【くまもと「水」ガイド水守】資格を持っていますので、名水めぐりがしたいということでしたら、かなりマニアックなところにもご案内できますよ!

 

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焔魔堂。奥に閻魔様が安置されています。

 

霊巌洞はパワースポットとしても有名ですし、宮本武蔵の足取りを追うもよし、熊本をおとずれるならば見ておくべき場所だと思います。バスで行くとかなり歩きますが、タクシーだと雲巌禅寺の入口まで乗せていけますので、足腰に自信がないという方や、時間に余裕がないという方は、ぜひ観光タクシーで訪れてくださいね。ていねいな解説付きでご案内いたします。

 

神風連資料館(桜山神社)

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神風連(しんぷうれん)の変、をご存じでしょうか。明治時代に起こった旧肥後藩士族の反乱で、急激に欧米化をすすめる明治政府(廃刀令、秩禄処分など)や、日本古来の伝統文化の破壊が進んで行くさまを憂い、熊本鎮台(くまもとちんだい)を大田黒伴雄(おおたぐろともお)率いる約170名で襲撃したものです。有名な映画「ラストサムライ」の元となっていると言われています。

 

なお、熊本鎮台とはいまでいう自衛隊駐屯地のようなもので、旧合同庁舎跡にあり、歩兵第13連隊と砲兵第6大隊が駐屯していました。奇襲攻撃をかけ、鎮台司令官・種田政明(たねだまさあき)や熊本県令(いまでいう県知事)安岡良亮(やすおかりょうすけ)を討ち取りますが、槍や刀などの古来の武装をした神風連の志士たちは、近代的な銃砲の前に倒れていき、翌日には鎮圧されることとなりました。

 

この事件が、のちの秋月の乱、萩の乱、そして翌年の西南戦争につながっていくこととなります。

 

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神風連の変で散った百二十三の志を弔うために、熊本市黒髪に、有志で桜山祠堂(さくらやましどう)が建立され、これがのちの桜山神社となります。桜の字は、神風連(敬神党)の思想の元となった、林桜園(はやしおうえん)の名から取っていると言われています。

 

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神風連の変で散った、百二十三士之碑。じつは、わたくし加来英俊のご先祖様が、こちらで眠っております。

 

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加来十郎といい、神風連の変の当時、25歳でした。

 

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両脇に立ち並ぶ石碑1つ1つが、各志士の墓となっています。

 

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林桜園の墓もここにあります。

 

 

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桜山神社には神風連資料館が併設されており、神風連の変を知らないかたには、館長がていねいに解説を加えてくださいます。

 

 

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なお、神風連とは実は反対派が名付けたもので、本当の名は敬神党(けいしんとう)といいます。旧肥後藩派閥「勤王党」の一派で、その名の通り、神道を重んじる思想を持っている人たちで、多くが神職についていました。ですから、神風連の変の出兵のさいも、新開大神宮で宇気比(うけい)という神事をとりおこない、神託を受けて、出兵したのです。

 

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神風連資料館の創設に尽力した、初代理事長、荒木精之(あらきせいし)氏の碑もあります。神風連資料館が造られる前は、神風連に対しては世間一般の認識はかんばしいものではなかったため、それを憂いてこの資料館を造ろうとされたということです。

 

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神風連に関しては、その末裔たるものとして、広くこの出来事を後世に伝えていきたいと考えています。神風連資料館へ向かうさいには、加来タクシーを使っていただければと思っております。

リデル・ライト両女史記念館

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かつて熊本には回春病院という、ハンセン病患者のための医療施設がありました。この跡地に、ハンセン病治療に尽力した「ハンナ・リデル」と「エダ・ライト」を称える記念館が作られています。この建物は、ハンセン病病原菌研究所の建物を再利用したものとなります。

 

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回春病院跡地には、この記念館のほか、リデルライトホームという老人福祉施設が、いまも運営されております。リデルたちの「分かち合い」の精神を受け継いだ施設だということです。

 

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この建物も熊本地震の被害を受けていたため、このようにロープで立ち入り禁止とされており、施設は閉鎖されていました。再開の日時などは発表されておらず、復旧の見通しがたっていない状況のようです。

 

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震災後は、地震を受けて閉鎖されていたり、取り壊されていたりする史跡も多いですので、観光のさいには、現地の事情を把握している観光タクシードライバーに頼んでいただければ、無駄足になることもなく歴史ロマンをじっくりと堪能していただけるのではないか、と思っております。