阿蘇白水龍神權現(金運アップ、宝くじ当選祈願)

 

先日、白蛇様をご神体として祀っておられる赤水蛇石神社をご紹介させていただきましたが、白蛇様を祀っている神社は阿蘇にはもう1つございまして、こちらも、金運や商売繁盛に御利益があるとされる、霊験あらたかな神社となります。

 

平成12年頃に白蛇様(白寿、白仙、紅龍)が鎮座したため、宮司がそれをお祀りするため創建されたという、新しい神社となります。

 

 

七福神像。この七福神を参拝すると、7つの災難が除かれ、7つの幸福が授かるとのこと。

 

 

厄祓、除災招福、金運開運、闘病平癒、延命長寿、健康、弁才、智徳と弁財天の八徳が込められているとされる龍神水。手水舎ですね。

 

 

阿蘇五岳岩。地下マグマが固まったこの岩を礼拝することで、岩にたまったエネルギーにより御神霊を頂けるとのことです。

 

 

授与所。こちらで初穂料千円を収めますと、金運アップの祈祷をしていただけます。祭壇にいつも使っている財布を置いて祈祷をしていただくため、とても御利益がありそうです。

 

神棚用の御札と、財布にいれておくための金のお守りをいただけました。

 

 

国道からの入り口がわかりづらいですので、通り過ぎませんようにご注意を。桜の時期ですと一心行の大桜も近いですので、いっしょに回るといいかもしれませんね。

 

乙姫子安河原観音/子宝祈願・子授かり

 

昨今の晩婚化もあって、子どもをなかなか授かれないご夫婦が多いと聞きます。不妊治療もたいへんお金がかかるそうで、なんとしても子宝を授かりたいと、多くの方が悩んでいるようです。

 

そんなご夫婦のために、今回は子宝祈願の観音様をご紹介させていただきます。

 

 

ご神体が河原に鎮座されている、とは・・・?

 

はい、今回ご紹介させていただく乙姫子安河原観音は、「河原の底にいらっしゃる」観音様なのです。

 

 

階段で河原まで降りて、間近で拝観することも可能ですが、踊り場の部分から上から拝観することもできますよ。

 

わりと急な階段ですので、動きやすい靴で拝観なされてください。

 

 

ご神体である観音様が、仰向けにねそべっている形になっております。この河原で石を拾って股間にはさんで寝ると、子どもを授かると言われています。黒い石なら男の子、赤い石なら女の子の授かりに御利益があるそうです。

 

また、石をご神体の上に乗せる参拝の仕方をなされる方もいたりするとか。

 

 

なお、日本の奇岩百景(登録番号102/2016年12月登録)にも登録されています。

 

 

阿蘇乙姫 子安河原子安河原観音 由来

乙姫子安河原観音様「子授かり安産」の守り神として、 広大な慈悲の姿で乙姫川の上流・子安川のこの地に鎮座されています。 上向きに寝た女体の形をした自然石で、胸から股の辺りまでを表し、それが観音様のお姿というのである。
約1500年前、神功皇后の安産を祈られたと伝えられ、また近くには大正天皇の御降誕の折、阿蘇大宮司は七日七夜、ご安産を祈られ、その御神石を宮中に奉持し金五円を宮中から下賜された。(明治12年) このように古来から皇室の尊信をはじめ、地域の尊崇を集めて参拝者が絶えない。
子供の欲しい人はここに来て川石を持って帰り股にはさむと必ず子宝を授かると言い伝えられている。
 祭日は毎年5月8日である。(乙姫子安河原観音公式HPより)

 

 

掲示板にはお礼の手紙や新聞の切り抜きなどでいっぱい。それだけ御利益があったということなのでしょう。

 

 

祈願成就後のお礼参りのさい、子宝祈願のために自宅に持ち帰った石は、こちらに返すことになります。赤石と黒石の比率は、ちょうど半々くらいかな~というところでしょうか。

 

 

子宝祈願ということで、絵馬もすこし小振りなものとなっておりました。

 

子宝を願うご夫婦は一度、ご参拝なさってみてはいかがでしょうか。

 

赤水蛇石神社

 

宝くじ当選祈願を熊本でなされるなら、阿蘇方面には金運に御利益のあるパワースポットが多くございます。

 

赤水蛇石神社はその1つで、名前の通り、「蛇石」といわれる巨岩がご神体となっています。七福神の一員たる弁財天の使いとされる白蛇様が大切に祀られています。

 

 

蛇石神社をご紹介しておいて何ですが、わたくしは蛇が少々苦手でして・・・。白蛇様ご神体は、遠巻きに見させていただきました。

 

手前に白蛇様をモチーフにした開運の像があり、それを3回なでて祈願するとよいとのことでした。

 

 

白蛇様が二体いらっしゃいましたが、エアコンで快適な温度に保たれ、大切にされているようでしたよ。(右隅と、左の棚上)

 

 

蛇石神社の由来と霊験

阿蘇は外輪山に囲まれていた大きな湖水であった。
大噴火により湖水の水は流れて有明海へ流れ出た。
湖面の水位が下がるにつれて中島の五岳の裾野も大きく広がり、各所には今も蛇の尾、船の尾、舟形、船繋石、蛇石、雷石、鯨石、などの地名が名残りをとどめている。

神話によれば「赤水村と云う村があり隼風とともに黒雨天を覆い雷鳴とともに一条の竜巻天に冲するも、やがて巨岩の切れたるところ一尺あまりの白蛇居て不思議な霊験を現すので、村人たちは蛇石さんと崇め小祠を建て祭りをするようになりたと。」記載されている。

赤水村の古老の語り継ぎによれば約五百年前の応仁の乱時代より語り継がれ、それ以前より更に一千年以前から云い伝えられたとなっているので、今日からすれば一千五百年前よりこの地に自然動物崇拝があったと見られる。

蛇石と云う巨岩は上下二つに分かれて重なり、その裂け目に蛇が棲息し現在も姿を見せることがある。
何時のころより蛇が居たかは定かではないが代々村人に崇められていたので古くから居たのは疑う余地はない。

蛇石神社は昔より霊験厚く、いままでに数多くのお礼の手紙等が寄せられています。
又、蛇は金運・豊穣の神として他の国でも崇められています。

 

・無事故祈願
・無病息災祈願
・病気回復祈願
・金運、宝くじ祈願
・試験合格、学業向上祈願
・事業達成祈願
・各種祈願

 

 

宝くじ当選祈願に、ぜひ赤水蛇石神社に足を運んでみてはいかがでしょうか。その際には、加来タクシーでしたら周辺のパワースポットもあわせてご案内させていただきます。

 

風の丘阿蘇大野勝彦美術館

創作活動中の大野勝彦先生

 

人生に迷ったとき。ここに来ると、前向きに生きるヒントを見つけることができるかもしれません。

 

菊池郡菊陽町生まれの画家、大野勝彦先生の美術館が南阿蘇村にあります。大野勝彦先生は、高校卒業後、家業の農業を営んでこられましたが、農作業中の不慮の事故で、両腕を切断しました。その後、農業から画家へ転向したという、珍しい経歴を持つ方です。

 

なんと、入院3日目より筆を腕にくくりつけて、字を書き始め、その2年後には個展も開催されました。

 

詩画集「はい、わかりました。」

 

それだけに、両腕を失ってはじめて気づいた多くのことを、作品を通じて語りかけてこられます。

 

独特の、力強いタッチの味わい深い絵と、心を打つ詩。この美術館は、1つ1つの作品をじっくりと味わうような観覧になります。この美術館にお客様を連れてくると、ほとんどの方は長く足を止めて作品をご覧になられるようで、長めの滞在時間となることを事前に想定された方がよろしいかと思います。

 

大野勝彦先生(左)とツーショット。

 

大野勝彦先生は、美術館内で創作活動をなされていることもあり、在館されていることも多いです。そのときは、このようにツーショット写真などにも気軽に応じてもらえますし、体験に基づくいろんな大切なお話をしてくださいます。

 

 

創作活動に使われる画材など。大野先生は、入院2ヶ月目には“湧き出る生”への想いを水墨画で表現されるようになった、とのこと。

 

 

大野先生の義手。トラクターを清掃中、ゴミを取ろうとした右手が巻き込まれ、それを取ろうとした左手も巻き込まれました。「死か」「手を切って助かるか」の二択を突然迫られ、まだ死ねない、と思った大野先生は、機械から手を引きちぎって助かることを選びました。

 

 

 

受付フロアでは、作品の販売もなされていて、こちらで作品を購入しますと、大野先生がサインをいれてくださいますよ。

 

わたくしはカレンダーを購入しようと思いましたが、人気があるということで在庫切れでした。

 

 

まだ美術館周辺の丘も崖崩れを起こしたままで、道路もあちこちで寸断されたままですが、なんとか美術館までは車で行けるようにはなっていますよ。

 

葉祥明阿蘇高原絵本美術館

 

絵本作家として名高い、葉祥明(よう・しょうめい)さんの美術館が阿蘇郡南阿蘇村の高原にあります。

 

絵本や芸術に疎い人でも、絵をみてもらえば、たいていは「ああ、この人が!」となりますね。

 

 

 

青々と茂る暖かそうな大草原に、ポツンと立つ可愛い木や家・・・。そんなイメージの絵が多いでしょうか。見る人の心を暖かくしてくれる、さわやかで不思議な魅力のある絵が魅力的です。

 

「かもメール」「はあとメール」「ふみの日記念切手」などでも、葉さんの絵がたびたび使われました。

 

 

葉祥明さんは1946年熊本生まれの絵本作家さんで、自然や人間の心を含めた地球上のあらゆる問題をテーマに創作活動を続けられています。ニューヨークの「アート・スチューデンツ・リーグ」に留学して、油絵を学びました。

 

童話作家さんの葉山祥鼎(はやま・しょうてい)さんは弟さんで、じつはこちらの館長もされています。

 

 

葉山祥鼎さんの「ブルービー」シリーズ。ブルービーとは、阿蘇で7月~10月ごろに見られる青いミツバチのこと。ルリモンハナバチが正式名称で、「シアワセを呼ぶ蜂」とも呼ばれています。南阿蘇村を走る「ゆるっとバス/ブルービー号」にはブルービーとルリの絵がデザインされており、阿蘇を巡回していますよ。

 

葉山祥鼎さんは、熊本県阿蘇郡の環境保全に取り組み、「ビレッジ・トラスト運動」を推奨しておられます。

 

 

この美術館には広い庭園があり、ブルービーが自然に生息しています。見かけたら幸運にあやかれるかもしれませんよ!

 

 

カフェ「Blue Bee cafe」も併設されていて、美術館では作品をながめつつも、くつろげるようになっています。

 

 

残念ながら、写真つきでご紹介できるのは、無料区間のみ。美術館の有料ブースは写真撮影禁止ですので、そちらは自身の目でご確認くださいね。

 

 

阿蘇大橋があった辺りは国道57号が通れなくなっていますので、今年8月から開通した迂回ルート「長陽大橋ルート」でご来場くださいね。阿蘇はいま通行止め区間が多数ありルート選びが難しいですので、加来タクシーにお声がけいただければ、周辺の阿蘇の楽しいスポットも含めてご案内いたしますよ!

 

三賢堂

 

三賢堂は、政治家の安達謙蔵氏が熊本市民の精神修養の場として、昭和11年に建立した二重円筒のお堂です。熊本市民であれば、誰でも有料でイベントスペースなどとして利用することができますので、近くにお住まいの方は、来られたことのある方も多いのではないでしょうか。

 

職員は常駐しておらず、内部見学は事前に市文化財課に予約しなければならないということで、今回は中を見ることができませんでした。(残念!)

 

 

仕方なく、窓越しに撮影。中央にある一対の螺旋階段が見れました。内部には肥後の三賢人として、菊池武時(きくちたけとき)、加藤清正(かとうきよまさ)、細川重賢(ほそかわしげかた)の座像が安置されているのですが、窓からでは見えず。

 

 

安達謙蔵の旧居である原泉荘。書斎は備於斉(びおうさい)という名前がついています。昭和24年に遺言にもとづき熊本市に寄贈されました。

 

 

安達謙蔵像。済々黌で学んだあと、新聞社社長兼記者として、ジャーナリスト活動を行いましたが、政界に転身しました。第7回総選挙で初当選を果たしたあと、14回連続で当選し、徳富蘇峰から「選挙の神様」と評されました。逓信大臣や内務大臣などを勤めました。

 

 

安達謙蔵氏の著書「十年間の八聖堂」にも、三賢堂について触れてある記述を発見しましたので、最後にご紹介しますね。現代語訳を試みましたが、かなり意訳となっておりますことお詫びいたします。(間違いがございましたら、ご指摘ください)

 

八聖殿が落成したのち、私は直ちに三軒堂建立の準備に着手しました。もともと、我が故郷肥後熊本において、県民の最も厚い崇拝を得ているものは、菊池武時公、加藤清正公、細川重賢公の三賢であり、この方々の功績を子孫に伝えることをもって社会の改善に寄与したいというのが、三賢堂建立の目的です。

 

よって、1階には等身大の三賢座像を安置して、二階には八聖殿同様に大宇宙を象徴し、大榊州を表現する榊鏡を安置しておりまして、日中だけは公開し、参拝者には自由にお堂に出入りすることができるようにし、又、個人がお堂に座って瞑想を行ったり修練を行ったりすることも、あるいは多数の学生を引率したる各学校の諸先生が堂内に設けてある演壇を学校講堂の延長として使用し、講演をすることもできるようにしてあります。

(十年間の八聖堂/安達謙蔵より現代語訳)

熊本水遺産/延命水・長命水

 

松の内は明けましたが、新年、せっかくなので縁起のよい話題ということで・・・。「長命水」「延命水」をご紹介いたしましょう。健康に長く生きることは、皆の願いですからね。長命水と延命水は、いずれも名水百選に指定されている「金峰山湧水群」に含まれています。

 

熊本水ガイド「水守」としては、水遺産も積極的にご紹介していきませんとね。

 

長命水

 

長命水は、かつて細川家が茶の湯に用いたとされる名水です。かつてはここで汲んだ水を樽につめて、町の茶の愛好家に売って商いをしていたというのですから、どれほど人気があったか分かると思います。

 

昭和32年の水害で土砂に埋まったため、長らく忘れられていましたが、地元有志の努力により、見事に復元しています。崖に埋もれた石の祠が風流ですよね。球磨村の岩戸水源にも「長命水」なる名がつくものがありますね。

 

訪問当時は水量が少なかったです

 

長命水という名前は、「この一帯に住む人は皆長命である」と肥後国誌に書かれたことにはじまるとのことです。(「くまもと水検定公式テキストブック」から引用)

 

 

続いて延命水がこちらです。さきほどの長命水と近い場所にあります。去年ご紹介させていただいた、釣耕園叢柱園の水源となっているものです。

 

水源地ならではの水神祠もあります。

 

 

延命水の名は、長命水からあやかってつけられたと考えられています。

 

地元の生活用水として使われたもので、炊事や洗濯がしやすいように階段がつけられています。

 

 

水場が2つにわかれていて、上流側で米を研いだり野菜を洗ったりと炊事で使い、下流側では洗濯をしていたということです。

 

【長命水】

 

【延命水】

花岡山陸軍埋葬地~神風連の変

 

明治9年10月24日に発生した神風連の変で戦死した、熊本鎮台司令長官・種田政明少将以下、116名を埋葬するために開設されました。

 

神風連の変については、以前記事にさせていただきましたので、そちらもご参照ください。(→神風連資料館(桜山神社))そのときの記事にも書きましたが、わたくしの祖先が、神風連側として参加しておりました。

 

 

現状ですが、当墓地は草が伸び放題で、手入れが間に合っておらず、草をかきわけて取材をする感じになりました。もう少し綺麗に整備されてくれると観光地としてご案内しやすいのですが・・・。墓石も折れたりヒビがはいっているものが多く見受けられました。

 

 

軍人・軍属合葬之碑。当墓地は、西南戦争時に薩軍により熊本城を狙うための大砲陣地が設置されましたので、それにより多くの墓石が亡失するなどして荒廃することとなりました。そのため、西南戦争終結後、埋葬場所の特定が困難となった埋葬者136名を合葬した石碑が作られたのが、この石碑となります。

 

 

隣接する県官墓地にある、熊本県令安岡亮介の墓所。神風連の変のときに自宅で襲撃されて重傷を負い、その3日後に鎮台病院で亡くなりました。

 

 

花岡山には、頂上にある仏舎利塔のほか、加賀マリアの墓所があったり、招魂社があったり、阿蘇殿松跡など多くの史跡が集まっている場所でございますので、新幹線での出張のときなど、あまり熊本駅から離れられないときには、花岡山を観光に組み込むのをお勧めしますよ!加来タクシーなら短時間でガイドつきでご案内できますよ。

 

国指定史跡・池辺寺跡(ちへんじあと)~味生池の龍伝説

Googlemapより引用/池上小学校

 

新年明けましておめでとうございます。新年一発目は、おめでたく、龍伝説からスタートさせていただこうと思います!

 

熊本市西区・池上小学校の外壁には、大きな昇り龍が2匹いますね。この龍のオブジェ、西回りバイパスから見えますので、「あの龍の意匠はいったい何か意味があるのか・・・?」とそばを通るたびに不思議に思っていたドライバーもいるのではないでしょうか。あれは、この地区に伝わる龍伝説がもととなっています。

 

 

あの龍は、味生池(あじうのいけ)に住むとされる龍をモチーフにしたものです。『池辺寺縁起絵巻』(熊本県立美術館収蔵)によると、その龍を鎮めるために大和の僧・真澄が、百塚地区に寺院を建立し、悪龍の害を鎮めた、と伝えられています。

 

なお、味生池は加藤清正の時代に埋め立てられており、現在は住宅地になっています。上記図の推定地を見るに、かなり大きなため池だったようですね。

 

石塔

 

その、龍を鎮めるために建立された寺院が「池辺寺」でして、長らくはどこに存在していたかも分かっていませんでしたが、昭和33年の最初の現地踏査で寺跡の存在が予想されるようになり、昭和61年度に開始された発掘調査により、百塚地区にて寺跡が発見されました。

 

百塚地区は、古くから「開墾してはいけない場所」として言い伝えられていたということです。

 

百基の石塔跡

 

かつて百基の石塔が立ち並んでいたという石塔跡。この10×10の石積みが見つかったことで、池辺寺の特徴について現代に知らせる金子塔(かなごのとう)の碑文の記述と一致することとなり、ここが池辺寺跡であると特定されました。かつては、1つ前の写真のような石塔が、ずらっと並んでいたのだろうと思われます。

 

10×10の、壮大なる百基の石積みにどのような意味合いがあるのか?といったことについては、まだわかっていません。

 

 

本堂については復元はなされていません。おそらくは、外観の根拠となる資料が残っていないために、礎石の位置や溝の位置、当時の寺院の建築洋式などから形状を推定するしかない…ということではないかと思います。

 

上の模型も、あくまで復元案の1つだということです。

 

 

本堂跡。雨水を流す溝が作られているのがわかります。この溝の位置から、だいたいの本堂の規模が推測できるとのことです。

 

 

金子塔(かなごのとう)のレプリカ。池辺寺のことについて記述された碑文が刻まれており、本物はここから北西500mほど、西平山の山中にあり、鉄柵で四方を覆われ、損壊しないように保護されています。

 

 

まだまだ熊本にもわくわくするような史跡がたくさんあるということを、多くの方に伝えていけたらと思います。

 

本年も加来タクシーをよろしくお願いいたします。

釣耕園(ちょうこうえん)

 

細川綱利公の建てた、お茶屋と呼ばれる別荘です。飛び石を用いた池に山渓を取り入れたもので、米田波門が、その景観を「雲を耕し月を釣る(釣月耕雲)」と詩に詠じたことから、釣耕園(ちょうこうえん)と名づけられたといいます。

 

 

西渓の名園ともいわれているそうで、また、前回ご紹介した叢桂園(そうけいえん)とは地理的に繋がっていて、この釣耕園の水を叢桂園に流している形になってます。

 

 

以前伺ったときには、軒下に「釣月」と書いた木製の額が下がっていたはずですが、取材のときには見当たりませんでした。台風対策などでどこかに避難させているのでしょうか。

 

 

案内板には、ここが続家の私有地であること、続家の好意で開放しているにすぎないことが、書かれています。施設管理人が置かれているわけでもないため、庭は自由に見学できますが、別荘建物内を見学することはできません。

 

 

藩主・細川綱利公が、元禄年間に国政参議の功で続弾右衛門英常に釣耕園を与えたとされています。そのさい、杖でお茶屋とその周辺を示して弾右衛門に与えたため、続家ではこのお茶屋を「お杖先」と呼び、守り続けているそうです。

 

 

苔むした切石の台。木漏れ日の光が降り注いで、何とも幻想的な雰囲気を醸し出しています。

 

庭園南部には、シャクナゲの群落がありますよ。

 

 

高浜虚子の句碑。

「時雨傘 やみたれば 主 受取りぬ」

 

 

本年も多くの方にたいへんにお世話になりました。来年もこのブログは毎週更新していきますので、今後ともよろしくお願いいたします。