緑川製紙工場跡

 

鮎の町としても知られる甲佐町。毎年、鮎解禁になる6月1日から11月頃まで、「甲佐町やな場」にて、新鮮な鮎をいただくことができます。この日は解禁されたばかり。大通り沿いではないにもかかわらず、多くのお客さんでにぎわっていました。みなさん、毎年恒例のこの時期を楽しみにしていたんでしょうね。

 

もともと肥後藩主加藤清正により作られた水田用水調節の場所でしたが、ここで落ち鮎が捕れるものですから、代々の藩主が鮎を食べにこられる場所として、知られるようになったところです。すなわち、お殿様が鮎料理を楽しんだところですから、地元ではかならず「お」を付けて、「おやな場」と言うようです。

 

 

 

しかし!今回取り上げるのは、同じ緑川の水を使ったものですが、鮎料理を取り上げるのではありません!いや、正直なところ、せっかくだから鮎も食べたかったのですが、時間の都合もありましたので、今回は泣く泣くパスしました。(予約もしていませんでしたしね・・・)

 

この、甲佐町やな場の隅に、ひっそりと緑川製糸場跡の石碑があります。緑川製糸場がこの地に作られたのは、緑川の水質が、繭から製糸を取り出す際に使う水として適していたからだ、ということです。

 

 

横井小楠の弟子である、長野濬平(しゅんぺい)氏により、明治8年、西日本初の西洋式機械製糸工場がこの地に誕生することとなります(富岡製糸工場は明治5年開業)。この長野濬平氏は、九品寺に養蚕試験場を作るのを主導するなど、熊本県の製糸業・養蚕業の推進に尽力した人物。九品寺の養蚕試験場では、西日本初の機械製糸が行われました。

 

緑川製糸場は、東日本が中心であった養蚕業を西日本で発展させることとなった最初の契機となった工場となりました。しかし、機械式製糸の設備は整ったものの、大量生産に対応できるほどには熊本の養蚕業が発展していませんでした。また、西南戦争により蚕の餌となる桑畑が荒廃したり、他の製糸工場の台頭などにより、明治15年に廃業に追い込まれることとなりました。

 

 

長野濬平氏は、緑川製糸場が閉鎖されたあと、明治26年に合資会社熊本製糸を立ち上げることとなりました。そのときの大煙突は、いまでもイオン熊本中央店の駐車場の一角に残されています。熊本製糸はその後、東亜シルクとして、現在では不動産賃貸業などを行っているようです(事務所もイオン熊本中央店の一角にあります)。

 

製糸業というと、農民などがたずさわるイメージですが、実際には明治維新により職を失った士族が多かったようですね。

 

甲佐に鮎を食べに来たときには、この地で熊本の製糸業が発展する礎となった工場があったことに、思いをはせてみてはいかがでしょうか。

 

石碑だけ残る、西南戦争関連史跡

薩軍病院跡

 

西南戦争関連史跡には、それこそ看板や石碑、木碑が1つあるだけ・・・、といった、派手さのない史跡が無数に存在しております。今回は、そんな熊本市に点在している、西南戦争関連の細かい史跡を一気にご紹介いたします!!興味のある方は、車でまわってみてくださいね。(そして、お車のない方はぜひ、観光ガイドタクシーである加来タクシーへ!)

 

まずは、木留の薩軍病院跡。篠原国幹が吉次峠で狙撃されたさい、即死したのではなく、この薩軍病院に運び込まれてから亡くなったと言われています。

 

建物自体は老朽化して取り壊され、いまは民家の片隅に石碑と看板が残るのみとなっております。

 

 

薩軍木留本営跡

 

さきほどの薩軍病院跡から、西に少し歩くと、植木町木留の薩軍本営跡があります。民家の一角に石碑があります。

 

3月20日、田原坂を政府軍が突破したあと、薩摩軍は木留まで撤退しこの地で抗戦したため、4月15日にかけて、ここ木留では激しい戦いが繰り広げられました(植木・木留の戦い)。

 

 

熊本隊本営跡

 

木留薩軍本営跡のすぐそばに、熊本隊本営跡があります。

 

熊本隊とは、池辺吉十郎率いる1500名ほどの部隊で、薩軍と共に政府軍と戦いました。熊本隊の佐々友房は、田原坂に次ぐ激戦地となった吉次峠を守り、薩摩軍に匹敵する戦いぶりを見せたことにより、薩摩軍内にその名が轟いたとされています。なお、佐々友房は吉次峠で重傷を負って宮崎の監獄に収監されますが、出獄したのち、濟々黌のもととなった同心学舎を創設しました。

 

 

河原林雄太少尉戦死の地

 

河原林雄太少尉戦死の地。階段が設置され、間近で見ることができるようになりました。

 

2月22日午後7時よりはじまった植木・向坂での戦いでは、乃木少佐の率いる第十四連隊と、村田三介率いる薩軍が激戦を繰り広げましたが、薩軍の猛攻により戦線を支えきれず、政府軍は北の千本桜へ撤退することを決めます。ところが、連隊旗手であった河原林雄太少尉は、村田隊の岩切正九郎に斬られ、連隊旗を奪われてしまいました。

 

この軍旗喪失は乃木少将は責任を感じていたようで、明治天皇の御大葬の日に殉死した理由の一つになったといわれています。

 

 

 

西南戦争 官軍本営出張所跡

 

田原坂攻略に苦戦していた政府軍は、3月7日、それまで木葉に置かれていた仮本営(本営出張所)を二股村に移しました。田原坂を正面から攻撃するのではなく、側面から攻めようという作戦方針の変更があったためです。3月20日の官軍の田原坂突破まで、ここは田原坂攻略の大きな拠点となりました。

 

ここは資材置き場の隅っこに石碑があるだけなので、気づきにくいと思います・・・。

 

 

 

二俣古閑官軍砲台跡。政府軍が三カ所設置した砲座のうちの1つです。この場所は地元では「台場」と言われているところであり、植木の七本攻撃のための砲陣地と考えられています。

 

平成23年8月の玉東町の調査、大砲の消耗品である摩擦管が数多く出土したそうです。なお、当時の大砲は「四斤山砲」というもので、分解すれば人力で運搬することが可能でした。

 

篠原国幹戦没の地/半高山戦跡・吉次峠戦跡

吉次峠から半高山を見る

 

西南戦争では、田原坂が激戦地として知られますが、もう1つの激戦地が、この吉次峠でした。

 

吉次峠は、田原坂と共に、熊本城方面へ増援に向かう官軍にとって、交通の要衝となるからで、薩軍の主力部隊も田原坂と吉次峠に置かれました。

 

薩軍・熊本隊の佐々友房の評では、『吉次峠は城北唯一の要害。もしここを失えば拠って立つ所無く、十の西郷あるも熊本城の包囲を保つ事は難しい』と言わしめました。

 

 

 

吉次峠での薩軍の苦戦を察知し、3月4日、二番大隊隊長・村田新八とともに、手勢を率いてかけつけたのが、一番大隊隊長・篠原国幹(しのはらくにもと)でした。

 

篠原隊は三ノ岳、村田隊は半高山山頂に陣取り、吉次峠を占領すべく進撃してくる政府軍・野津大佐隊を挟撃しました。

 

 

篠原国幹は弾丸飛び交う中、士気高揚のため、姿勢を低くすることもせずに陣頭指揮を執りました。

 

しかも、その出で立ちは、銀色の太刀と緋色の外套といった、戦場ではひときわ目立つもの。それが篠原だとわかった同郷の政府軍・江田少佐が狙撃を命じて、六本楠で胸を撃たれて即死しました。

 

 

篠原が倒れたのち、薩軍はひるむどころか復讐心をたぎらせ政府軍を撃退、政府軍指揮官の野津大佐は弾丸を2発受け負傷、狙撃を命じた江田少佐もここで戦死しています。

 

この日以降、政府軍兵士は吉次峠のことを”地獄峠”と呼ぶようになったと言われています。

 

 

田原坂駅のすぐ西側に位置する、横平山の慰霊碑。時代のうねりに飲み込まれ、両軍ともに互いの正義を信じて大勢の若者の命が失われました。

 

 

かつては横平山に車で登るには、かなりの悪路を進む必要がありましたが、観光地としての整備が進んでいるようで、だいぶ道も整備されてきていますね。

 

西南戦争史跡は場所が分かりづらいところが多く、悪路も多いので、史跡訪問の際には観光ガイドタクシーのご利用をお勧めいたしますよ。

 

潮井水源のいま~布田川断層帯

 

益城町の震災遺構の現状を学びなおそうと、益城町在住の「熊本おもしろ観光ガイド」の永田幸一さんに同行いただいて、益城町杉堂地区の潮井水源にやって参りました。

 

杉堂地区は、熊本地震で猛威をふるった布田川断層の直上に位置しているため、壊滅的な被害を受けた集落で、住宅の建て直しや道路整備など、復興のための工事が各所で進められています。

 

 

熊本震災で崩落した潮井神社の石鳥居。

 

潮井神社本殿前には、地震後、長さ4メートル、落差70センチの断層が地表に現れたといいます。益城町はこの断層を文化財に指定、現在は防水シートがかけられ、保存が行われています。しかし、文化財保護の旗振り役となる益城町役場が、震災復興のため多忙を極めていることもあり、具体的にどのように保存していくか、どの範囲を保存するのかといった、具体的なプランが進んでいるわけではないようです。

 

 

根元から倒壊したご神木。

 

自治体の文化財指定につづき、文部科学省は布田川断層帯を天然記念物に指定する方針のようです。布田川断層帯は、熊本地震後、西原村、南阿蘇村などにかけて約31キロにわたって露出しました。熊本県は、断層や被災建物を「震災遺構」として保存・活用する方針のようです。

 

 

地域のかたの大切な水源となっている潮井水源の湧水は、震災後も枯渇することもなく湧き続けていました。水温は17~18度の清水が豊富に湧き出しており、コンクリート製の貯水槽にためられて、生活用水として利用されています。

 

この潮井水源にまつわる話がありますので、ご紹介しますね。(熊本弁がかなりきついですが・・・。)

 

潮井水源

この水源にまつわる面白か話があるたい。

文政6年(1823年)の春に、この杉堂に伊三次て言う百姓がおってな、自分の他のむぞさしゃ(可愛さに)、内緒で潮井の水源ば、深さ一丈(約3メートル)長さ百尋(約150メートル)ばかり掘って自分の田さん水ば引かしたたい。そるが潮井宮の神さんの気に障ってな、5月の中頃苗代時まじも、潮井の水の出らんな止まってしもうちな、ゆうと村中呆れち、時の郡代の里長(総庄屋)のにて訴え出た訳たい。それでその人たちが祭主となって、津森宮の宮司も共に寝食を忘れて、「大御心を和らげ給え、蒼生の為めに水を与え給え」て必死に祈らしたげな。そして、15日・16日・17日・18日と祈りに祈ってな、切り立つ崖かる水の吹き出して、太さ二丈(約6メートル)もある岩ば吹き離す勢いで流れ出し、轟々てい言うち下の井手も田も打つ流す如て流れ出したげな。こるば見て村中の百姓も村々の里長(庄屋)達も心から喜うじ、そるからいよいよこの潮井さんば、大切にする如てなったてたい。(津森宮社伝・益城町民話より)※益城町役場による立て看板より引用

 

 

割れてしまった徳富蘇峰誕生地碑。ジャーナリスト・政治評論家・歴史家と、いろんな顔を持つ徳富蘇峰ですが、上益城郡津森村の矢嶋家で生まれました。(津森村は合併して益城町となりました。)

 

 

母にあたる徳富久子は、熊本の四賢婦人の一人に数えられています。徳富久子の実家跡(矢嶋家跡)には、石碑が建てられています。

 

矢嶋家の建物は、老朽化のため昭和55年に取り壊されましたが、有志により一部復元し、四賢婦人記念館として利用されていました。この四賢婦人記念館もまた熊本地震により倒壊し、潮井自然公園内に移築される予定になっていて、すでに予定地は整地が進んでいるようでした。

 

 

潮井水源に隣接する、やまめ料理・神水荘。そうめん流しのほか、釣り堀などもあり、新鮮なやまめ料理が堪能できるお店だったのですが・・・、現在は休業状態だそうです。潮井自然公園の整備が進み、この潮井水源に人がまた集まるようになることを願います。

 

明徳寺

 

天草・島原の乱後、天草は天領となり、鈴木重成という代官が派遣されました。

 

鈴木重成は、乱後の混迷を極めた天草を復興するため尽力した人物ですが、島民の民心安定と、キリシタンの仏教への転宗をうながすために、寺院も建立しました。その代表的なものの1つが、この明徳寺となります。

 

 

十字の彫り物が施されているとされる、石の階段。絵踏みとおなじく、十字架をふみつけて明徳寺へ登るようにしているのでしょう。しかし残念ながら、十字を見つけることができませんでした・・・。他の方の情報では、下から6段目にあった、ということでした。次に訪れるときは注意深く見てみようと思います。

 

現在、明徳寺のある場所は、かつての本渡城の城域内だと言われますが、本渡城の城域がどの範囲であったかは諸説あります。寺澤藩時代には、郡代所が置かれていた場所でもあります。

 

 

天草市指定文化財 明徳寺山門(双聯)

向陽山明徳寺は、正保二年(一六四五)、天草初代代官鈴木重成によって建立され、開山は中華珪法である。楼門は享保二年(一七一七)、三世丹州寿鶴の時に建てられ、文化五年(一八〇八)十世大容素海の時に再建された。天草にある楼門の中で、最も優れたものである。

門扉の両横には双聯が儲けられ、

祖門英師行清規流通佛陀之正法

将家賢臣革弊政芟除耶蘇之邪宗

との銘が残る。キリスト教に替わって、仏教で天草を再建しようとした先人を称えており、祖門英師は中華珪法、将家賢臣は鈴木重成のことを指すと考えられている。双聯からは、天草島原の乱のために混乱した天草を、仏教によって再興しようとする明確な意思がうかがえ、歴史資料として他に類を見ない貴重な文化遺産である。

 

平成26年3月 天草市教育委員会

 

 

どことなく聖母マリア様を思い浮かばせる、子安観世音様。

 

 

最初こちらに訪問したとき、他地域にあるものより豪華な造りであるな、と感じました。転宗も目的の1つということで、キリスト教の寺院よりも立派なものでなくてはならなかったのでしょうね。

 

宇土マリーナ~大王のひつぎ実験航海

 

国道57号沿い、御輿来(おこしき)海岸のそばにある、宇土マリーナを訪れました。

 

※御輿来海岸は、景行天皇が九州をご訪問なされた際に、海岸線があまりに美しいので御輿をとめて見入っておられた、という伝説から、その名がついています。「日本の渚百選」・「日本の夕日百選」に選定される景勝地です。

 

 

宇土マリーナの施設設備の1つ、門型30トンクレーン。宇土マリーナでは、船舶を係留できるドックや、モーターボート200隻を保管できるボートヤードなどを完備しており、熊本県でのマリンスポーツのメッカとなっています。

 

道の駅宇土マリーナと、うと海の駅(宇土マリーナ)は敷地的につながっていまして、一般的には全体として宇土マリーナと認識されていると思いますが、厳密には道の駅と海の駅がくっついた形になっています。(海の駅とは、国土交通省に登録された船舶係留施設のことで、宇土マリーナにも多数の船舶が係留されていました。)

 

 

クラブハウス(宇土マリーナハウス)。2F端はわたしの記憶ではレストランだったと思いますが、階段にはチェーンがかけられ、壁にあったレストラン名もなくなっていますので、撤退したのでしょうか・・・。こちらに、合宿所や研修施設などがあります。

 

 

宇土マリーナハウスは、1998年吉松秀樹氏設計により造られましたが、くまもとアートポリス参加プロジェクトのために独特な形状をしております。

 

 

宇土マリーナには、石造りの前衛的なアート作品がいくつもありまして、それらの作品群をながめつつ、海岸沿いをただ散歩するだけでも楽しめますよ。

 

 

宇土マリーナに、このような石棺が展示してあるのに気づいている方は、きっとほとんどいないと思います。目立つ場所ではありませんからね。

 

これは、大王のひつぎ実験航海事業で造られた、馬門石(まかどいし)製の復元石棺でして、重さは約7トンあります。馬門石は宇土でしか産出されません。

 

 

この馬門石(阿蘇ピンク石)が、歴代天皇のひつぎに用いられているのですが、こんな重いものを、どうやって宇土から800kmも遠く離れた近畿地方の大王の墓墳までに運べたのか?考古学的な謎として長年、考古学者を悩ませました。

 

 

ひつぎを運ぶ台船。航海実験のため、蓋用と、身用の2隻が造られました。

 

古代船を復元し、実際に熊本から大阪まで石棺を運搬してみよう、というのが、大王のひつぎ実験航海事業です。馬門石製(7t)の石棺を復元した古代船に載せ,有明海から関門海峡を通って瀬戸内海を経由し,最終的には大阪湾へと運び込む実験航海が行われました。

 

 

2005年7月24日に宇土マリーナを出航し、22の港に寄港して、34日かけて大阪南港に到着し、大王のひつぎ実験航海は無事成功しました。

 

宇土マリーナには、天草方面への長時間ドライブの休憩で訪れる人が多いと思うのですが、大王のひつぎもご覧になってみてはいかがでしょうか。こんな重いものをよく木船で・・・と、きっと驚かれると思いますよ!

 

天草ビジターセンター

 

雲仙天草国立公園のインフォメーションセンターである、天草ビジターセンター

 

天草地方特有の植物や、自然環境について学ぶことができる施設です。

※本来は撮影禁止ですが、取材ということで、特別に係員さんに許可をいただきました。

 

 

代表的な天草特有の生物としては、やはりハクセンシオマネキ(絶滅危惧種)でしょう。

 

体長2cmほどの小さいカニで、松島町永浦島の干潟でよく見られ、4~10月頃の暖かい時期が見頃と言われています。6~8月頃の繁殖時期には、干潮時に愛らしい求愛ダンスを見ることができますよ。

 

 

天草陶石として知られる、変質流紋岩。流紋岩質岩脈が熱水変質作用により陶石化したものとされています。日本で産出される磁器原料の8割を占めるそうですよ!

 

 

天草各地で見られる石の分布。

 

 

大矢野町の特産品である、天草砥石が販売されていました。いまや資源枯渇により、多くの産地で天然砥石の採掘が終了していますので、貴重なものです。

 

現在、世に出回っている砥石のほとんどが、酸化アルミニウム及び炭化ケイ素を主原料とする人工砥石になっています。

 

 

天草の干潟のひろがりを示す模型。

 

右下の高杢島(たかもくじま)は、別名「天草富士」といわれ、引き潮のときには歩いて登ることができます。

 

 

船の模型。

 

 

展望休憩所では、天草の海岸をながめつつ、軽食を取ることができます。

 

さまざまな天草のお土産を買うこともできるほか、シモン茶の試飲もいただけますよ。また、ここでしか買えない、天草関連の書籍が販売されています。

 

 

自然の風景を生かした、記念撮影用のブースもありますよ。

 

小代焼ふもと窯~経産省指定伝統的工芸品

 

細川家の御用釜として生まれ、400年続いてきた、熊本県を代表する焼き物「小代焼」。「小岱焼」とも表記され、その名から推察されるとおり、「小岱山」の山麓で産出される材料を使っている焼き物です。

 

荒尾町や南関町をはじめとする熊本県北部で、さまざまな特徴の小代焼が作られています。共通する特徴としては、鉄分が多く含まれる粗めな陶土を、茶褐色の鉄釉で覆い、灰釉を流しかけるというもの。大胆かつ奔放な風合いが魅力です。

 

 

 

 

訪問時、陶工・井上尚之さんが作陶中でしたが、アポもなく突然見学にきた私たちを見て、わざわざ手をとめて熱心に説明をしてくださいました。

 

「なんでも聞いてくださって結構ですよ!」と、陶器づくりに素人な私たちの素朴な疑問にも丁寧に対応してくれ、作業している姿も作業場も自由に撮影してくださいとのこと。訪問時はお世話になりました。

 

 

皿に絵付けをしているところを、拝見させていただきました。まず、全体に柄杓で灰色の釉薬を流しがけします。

 

 

次に赤褐色の釉薬でデザインをいれていきます。お皿の形を作ってからじゃなくて、真っ平らな状態で絵付けをするんですね。

 

 

絵付けが終わり、窯で焼かれるのを待つお皿たち。窯では何千個という焼き物を一気に焼き上げるとのこと。

 

 

昔ながらの、薪を大量に使う「登り窯」にこだわっておられるので、燃料の薪代がかさむため、1個でも多く焼かないといけないんだそうで・・・。

 

 

連房式登り窯。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本に連れてこられてきた朝鮮人陶工からもたらされた技術と言われています。

 

内部温度が1300度にも達するため、壊れることも多く、補修しながら使い続けているんだとか。

 

 

連房式登り窯は、窯がいくつも連なっているような形状になっていますが、熱を伝えるための小さい穴があいているそうです。こうやって外から覗いた感じでは、熱を伝える穴の存在は確認できず・・・。あまり大きな穴が空いているわけではなさそうです。

 

 

店舗2階では、さまざまな小代焼の名品の数々が展示されていました。

 

 

その中でも、目玉となる作品がこちら。天皇皇后両陛下様ご注文(平成12年)の、46cmの大皿です。一方的に献上したのではないのですよ。

 

何枚か焼いたうち、もっとも出来映えの優れたものを、天皇陛下にお渡しされたとのことで、これはそのお渡ししなかったもののうちの1枚です。秋篠宮ご夫妻もご来店なされたこともあるとのことで、皇族からも小代焼が優れた焼き物であると認めてくださっているものと思われます。

 

 

もちろん店舗ではふもと窯で作られたものを買うことができます。小代焼のビールジョッキなんてのもありましたが、これは内側にだけ釉薬がかかっていないのが特徴で、ざらざらした表面がビールの泡立ちをよくしてくれるんだとか。

 

 

焼き物の好きな人だと、窯の見学や資料館の見学、買い物などで、余裕で1~2時間はかかるんじゃないでしょうか・・・。加来タクシーでは、焼き物好きの方のためのツアーなども企画できますので、お気軽にお声がけくださいね。

 

祇園橋~日本最大の石造りの桁橋/天草島原の乱・激戦地

 

石造りの桁橋では国内最大とされるのが、天草市の町山口川にかかる祇園橋です。しかも珍しい多脚式、日本百名橋にも選ばれています。

 

 

国指定重要文化財 祇園橋平成9年12月3日指定

この石橋は、天保3年(1832年)町山口村庄屋大谷建之助が発起し架設したもので、祇園神社の前にあることから、祇園橋と呼ばれています。石造桁橋では日本最大で、長さ28.6m幅3.3mあり45脚の石柱により支えられています。下浦村(現下浦町)石屋の辰右衛門により建造され、地元の砂岩が使用されています。

 

この付近は、寛永14年(1637年)11月 天草の乱で、天草四郎の率いる宗徒軍と、富岡城番代三宅藤兵衛の唐津軍とが激突した場所です。両軍の戦死者により川の流れは血に染まり、屍は山を築いたと伝えられています。

 

毎年、10月の第4日曜日には殉教祭が催され、宗派を超えて御霊の供養が行われています。

 

熊本県観光課の案内文から引用

 

 

多くの橋脚で石橋が支えられる構造になっています。

 

 

国指定重要文化財「祇園橋」の碑。

 

20年以上前には、祇園橋のたもとに南蛮えのきという樹齢300年の榎がそびえたっていて、祇園橋や祇園神社とあいまって、見事な景観を有していたということですが、老朽化により倒壊の危険がでてきたため、平成九年に南蛮えのきは伐採されてしまいました。

 

 

天草の乱激戦地之跡の石碑。

 

天草・島原の乱が起こっていた時代には、まだ祇園橋はありませんでした。(乱後、200年たってから祇園橋が作られました。)

 

 

実際に渡ってみますと、石と石のすきまから川が見えるので、ちょっと怖かったりします。

 

 

町山口川の

流れせきとめし

殉教者の

むくろ数百千にして

名をはとどめず

德壽

 

 

祇園橋のそばには、真新しい祇園橋公園が整備されていました。

 

 

橋の近くには地元の郷土史家のかたのご自宅があり、さまざまな石碑がところ狭しと置いてありました。

 

 

この近辺には天草島原の乱にまつわる史跡が多数密集している地域になりますが、記事が長くなりすぎますので、つづきは次回以降にもちこします。

 

南蛮寺跡

 

キリスト教伝来以降、日本各地に南蛮風の教会堂がたくさん建てられました。残念ながら、徳川幕府の禁教政策により破壊され、現存するものは1つもありませんが、日本人の大工が建てたこともあり、仏教寺院風の建物だったと言われています。

 

 

天草市上津浦には南蛮寺跡とされる史跡がありますが、現在は同じ場所に曹洞宗寺院である正覚寺が建っています。

 

南蛮寺は天草五人衆のひとり、上津浦種直こと、ドン=ホクロンが建立したといわれています。最盛期は3500人を超える信徒が、上津浦城主の庇護のもとにキリシタンに帰依し、宣教師もそこに駐在していたそうです。

 

 

昭和60年の本堂改修工事のさいに、床下よりキリシタン墓碑が多く見つかり、ここが南蛮寺跡であったことがわかりました。

 

 

かまぼこ型の墓碑には、干十字とIHSの文字が見えます。

 

IHSはイエズス会の略紋章で、「イエス」をギリシア語で表記したときの「Ihsouz Xristoz」の最初の3文字をとっているそうです。

 

IHSが刻まれているキリシタン墓碑は日本に3例しか確認されていない珍しいものです。

 

 

上津浦南蛮寺とキリシタン墓碑

 

天草五人衆に列する豪族上津浦種直が、キリシタン宗門に帰依し、洗礼名ドン・ホクロンを名のったのは、宇土城主ドン。アウグスチノ小西行長に服属していた天正十八年(一五九〇)のことである。かくしてこの地には、南蛮寺が建立され、全領民の間に信仰の火が燃えひろがった。

 

しかし、慶長十九年(一六一四)徳川家康のバテレン大追放令により、マルコス・フェラロ神父が、救世使天草四郎の出生を予言した「末鑑の書」を残してマカオに去り、南蛮寺は破壊されてしまう。

 

しかし寛永十四年(一六三七)上津浦古城を前進拠点として天草の乱がおこり、近郷近在は荒廃をきわめる「亡所」と化してしまった。

 

乱平定後、天草の再建策をすすめる名代官鈴木重成は、仏教による邪教根絶と民心安定を念願し、南蛮寺跡に圓明山正覚寺を創建した。正保三年(一六四六)のことである。以来、三百三十九年の歳月をけみした昭和六十年一月十七日、住職亀子俊道師が大改築のため本堂を解体したところ、ここに展示する扁平型、自然石型、かまぼこ形、以上三様式のキリシタン墓碑基が、その床下から出現したのである。

 

かもぼこ型二基の正面には、イエズス会の略紋章を示す「IHS」の文字と十字架がきり刻まれている。十字架はいわゆる干(かん)十字。その左右には人名と没年月がみられれう彫込みを有するが、のみか何かで人為的に削り取られ判読困難である。

 

それでも、ながいながい眠りから醒めたキリシタン墓碑は、見る者に、偉大だった天草の世紀を語りかけてやまない。(墓碑の説明文から引用)

 

 

正覚寺のナギ(天草市指定文化財・市-165、平成24年7月2日指定)

 

キリスト教宣教師コエリヨが植え付けたといわれるため、南蛮樹とも呼ばれる樹齢400年のナギの木。まっすぐに天に伸びた姿がとても美しいです。

 

 

正覚寺山門。

 

参道はわりと長く、足場も悪いため、ご来場の際は、山門脇の道からさらに上に登り、直接境内内に車を入れると楽ですよ。