国造神社と、手野のスギ

 

肥後国(熊本県)には、延喜式神名帳に名前が載っている神社が四座あります。

 

延喜式神名帳とは、平安時代に編纂された神社一覧表のことで、編纂時期から逆算すると、これに載っている時点で1000年以上の歴史があることになりますね。四座のうち二座は阿蘇神社のことで、あとは玉名の疋野神社。そしてこの阿蘇・国造神社となります。熊本県でもっとも古い神社の1つとなります。

 

 

こちらの現在の社殿は、1672年に細川綱利公によって造営されたものとなります。

 

国造神社

阿蘇の開拓に尽力したとされる速瓶玉命をはじめ四神を祀っている神社です。阿蘇神社から約6km北に位置しているため、北宮とも呼ばれています。境内神社の一つ、鯰社は阿蘇カルデラに湖があった時代、湖の主であった大鯰を、阿蘇開拓の祖である健磐龍命による湖水干拓ののち祀ったものとされ、カルデラ湖の形成・消滅の歴史と深いつながりがある伝説が残されています。(現地案内文より)

 

 

国造神社は、位置的に阿蘇神社の北側にあるので、北宮という言い方をされることもあります。また、国造神社という名前は、速瓶玉命が阿蘇国造に任命されたことに由来します。

 

祭神

速瓶玉命(はやみかたまのみこと)
雨宮媛命(あまみやひめのみこと)
蒲智比咩命(かまちひめのみこと)
高橋神(たかはしのかみ)
火宮神(ひみみやのかみ)

 

 

深い森につつまれた神社であり、おごそかな神話の雰囲気がとてもよくでている場所です。こちらで行われる祭りの数々(歌い初め、春祭り、おんだ祭り、風祭り、眠り流し、田の実祭)は、阿蘇の農耕祭事として重要無形民俗文化財に指定されています。

 

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樹齢1000年とも2000年とも言われた、手野のスギ。速瓶玉命お手植えのスギだと、伝わっています。天然記念物に指定されていましたが、平成3年の台風19号によって高さ11mのところで折れ、その後、枯死したため、平成12年9月6日で天然記念物の指定を解除されました。

 

その後、地元の有志が集まって「手野の大スギ保存事業期成会」を立ち上げ、地上2.5メートル~7メートルの部分を切断し、2002年に上屋をかけ保存されています。

 

 

もとは夫婦杉だったらしく、手野の二本杉とも呼ばれていました。男杉は文政年間(1818~1830)に雷火により伐採されております。そのため、いま伝わっている手野のスギとは、この女杉のことを指します。

 

 

神符守札授与所で屋内保管されている、水神木。国造神社第二位の神木で樹齢800年を誇りましたが、これも平成3年9月の台風19号の影響ににより枯死しました。

 

 

阿蘇神社とも近い上に、パワースポットでもありますので、ぜひともに訪れて欲しい場所です。なお、御朱印はスタンプ方式なので、ちゃんと手書きのものが欲しいということであれば、阿蘇神社に訪れた日を伝えれば、書いていただけますよ。

阿蘇神社参道~水基めぐりの旅

 

阿蘇神社の門前町商店街「仲町通り」は、かつては観光客に素通りされてしまう、さびれたところだったそうです。あるとき、「水基めぐり」というコンセプトで町おこしをはかり、大成功をおさめているところです。

 

 

水基(みずき)とは、水飲み場のこと。豊富な湧水を使って、町の各所に水基を設置し、自由に湧き水を飲んだり汲んだりできるようにしたのですね。

 

 

見た目にも涼やかですし、ほどよく分散されていますので、お子さんにとっては巡って遊ぶスタンプラリー的な楽しみ方もできると思います。

 

 

この日は夏休み真っただなか、ということもあり、子ども連れの家族でごった返していました。

 

 

雰囲気がよくて、散策するだけでも楽しいですよ。あか牛や馬肉、湧水を使った、グルメの数々も魅力です。

 

 

おいしいものいっぱいありますが、特にあか牛関係の食事処はかなり待たされます・・・。実はここであか牛料理を食べようと思っていたのですが、あまりの行列に断念!とりあえず、小腹を満たすために、とり宮さんで、馬ロッケ(馬肉コロッケ)をいただくことにしました。

 

 

ここでも15分ほど待たされました・・・。仲町通りは観光地化がすさまじく、もう長期休暇のシーズン中は特に、人でごった返すのですよ。

 

 

馬ロッケ、やっと買えました!あげたてで熱く、少しやけどをしかけましたが・・・。しょうがの風味が効いてて、サクサクの食感でたいへん美味でした。メンチカツや唐揚げも人気のお店なんですよ。

 

 

店内にも水基が・・・

 

 

各所に水遊びができる場所が設けられているのも、子育て世代に人気の理由のようですよ。

 

 

14時半をまわっているというのに、あか牛を食べさせる店はもうどこも満杯。湧水茶屋なかまちがそれほど混んでいませんでしたので、立ち寄りました。

 

 

だご汁定食(900円)。県外のかたは、熊本に来たら、だご汁はぜひ食べて欲しいと思います。うすく伸ばした団子がはいっている豚汁という感じです。

 

 

湧水茶屋なかまちはスイーツのお店でもあります。抹茶ソフトクリームをいただきました。冷たくてうまい!こちらでは、湧水を使ったコーヒーなどもありますよ。

 

 

熊本地震直後は、風評被害で来客が減ったりもしたようですが、もうすっかり人が押し寄せるかつての元気を取り戻していました。

 

阿蘇神社のいま~震災からの復興

 

拝殿が全壊しているため、仮参拝所で参拝する方々。楼門や拝殿が全壊するなどの甚大な被害を受けながらも、いまも変わらず多くの人が訪れていることに、いたく感銘を受けました。

 

 

拝殿奥の三つの神殿は倒壊こそまぬがれましたが、いずれも損傷を受けているため、現在復旧工事が行われています。

 

「二の神殿」「三の神殿」はすでに部分解体工事にはいっています。取材当時の8/16現在、まだ解体工事にはいってない「一の神殿」も将来的に部分解体工事が予定されています。これらの神殿へは木製のフェンスが敷かれていて、現段階では近づくこそすらできませんが、フェンスごしに外観を見ることはできます。

 

いずれも全壊した拝殿と楼門は、昨年11月から解体格納工事を行っています。重要文化財であるため、同じ部材をもって再建する必要があるためです。

 

 

二の神殿。建物がゆがむなどの大きな損害はないものの、部分解体工事のために足場が組まれています。

 

奇遇なことに、熊本震災の前日にも阿蘇神社を訪れています。そのときは、こんなたいへんな状態になるなど夢にも思ってもいませんでした。

 

 

参道北側入口。歴史を感じさせる木製の鳥居があります。

 

阿蘇神社は御創立が孝霊天皇9年(紀元前282年)とされていまして、約2300年の歴史があります。主祭神である健磐龍命の子孫である阿蘇氏がいまも大宮司を勤めています。こちらが全国に450ある阿蘇神社の総本社になります。

 

 

第一神陵の神杉。樹齢700年だそう。

 

阿蘇神社は、阿蘇十二明神を祭神とし、そのなかでも、健磐龍命(たけいわたつのみこと)、阿蘇都比咩命(あそつひめのみこと)、國造速瓶玉神(くにのみやつこはやみかたまのみこと)を主祭神としています。

 

阿蘇神社の祭神

一の神殿

健磐龍命、國龍神、彦御子神、新彦神、若彦神

 

二の神殿

阿蘇都比咩命、比咩御子神、若比咩神、新比咩神、彌比咩神

 

三の神殿

國造速瓶玉神、金凝神

 

 

手水場にいた親子。こうやって歴史を子どもに伝えていくのも大事なことだと、ほほえましく思いました。

 

 

手水場は神の水として、手水と飲用以外の利用は禁じられていますので、このように水くみ専用の水場を用意されています。ポリタンクで水をくんでいる姿がよく見られました。

 

 

一之神陵。このように、神殿とは別に、主祭神健磐龍命のお墓が設けられています。

 

 

二之神陵。こちらは阿蘇都比咩命のお墓ですね。

 

 

一之神陵前の池。

 

 

還御門。今年の5月から部分解体工事中です。

 

 

日本三大楼門の1つ・・・なのですが、すっかり工事用シートに覆われていて、中をうかがうことはできませんでした。

 

 

阿蘇神社参道は、珍しい横参道です。そして、南北の参道入り口には、このように門番の神として守社が置かれています。これは南門守社ですね。

 

 

こちらは北門ですね。右手に北門守神が見えます。

 

 

御札所。楼門工事にともない、すこし西側に移設されています。この建物も一部損壊したそうですが、こちらは復旧しているようです。

 

 

仮拝殿。

 

 

仮拝殿外観。

 

 

ガイド案内所。

 

 

阿蘇神社の御朱印です。じつは今年の五月にも一度訪れております。

 

さて、「水基(みずき)巡りの道」については、また機会をあらためてご紹介させていただきますね。こちらは豊富な湧水を生かし、商店街各所に湧き水をひきこんで、その湧水の涼やかさを楽しみつつ、散策できるように整備されていますよ。

福の神大黒天~宝くじの神様

 

阿蘇・内牧温泉郷のはずれに、はな阿蘇美という複合観光施設がありますが、その裏手に、知る人ぞ知る、宝くじの神様がいらっしゃいますよ。場所は、加藤清正公の家臣であった、右馬允公様のお墓のすぐそばです。写真の石階段を上れば、右馬允公様のお墓に行くことができますよ。

 

はな阿蘇美について

はな阿蘇美のある土地は、かつて天下一家の会という、日本最大のネズミ講組織の本部があったところとしても知られています。その本部跡地はオウム真理教が買おうとしたので、町があわてて7億円で買収した、というエピソードがあります。

 

 

 

なんでも、新町活性化福の会会長の湯浅陸雄さんが、この付近に球根を植えようと土を掘っていたら、地中30cmのところにこの大黒天様が埋まっていたそうです。

 

そして、その大黒天様の姿が富くじを数えているようなお姿だったことから、お金について御利益のある神様ということで地蔵堂を建立し、宝くじの神様として祀られるようになったということです。

 

 

こちらにお参りされた方のなかから、3億円が4本出ているそう。その他、試験に合格した、子宝をさずかったなど、さまざまな御利益があるそうです。

 

 

平成七年一月、公園整備中に地中五〇センチメートル位から出土、年代は不詳ながら、かなり古いと思われる。手に持っている物が昔の富くじに思われる由、福の神大黒天と名付けた。(木碑にあった案内書より抜粋)

 

 

参拝の方法も一風変わっています。

1)2礼2拍

2)唱文「オンマカ、キャラヤ、ソワカ」×5回

3)お願い事をする

4)1礼2拍

 

 

では、さっそくわたくしも・・・

 

 

福の神大黒天のグッズ販売所。行ったときにはしまっていましたが、何が売ってあったんでしょうか・・・。

 

 

このようなパワースポットは阿蘇には点在しておりますので、熊本でパワースポット巡りをされたいかたは、加来タクシーをご指名くださいね。

 

檜垣寺(九品山浄土院蓮台寺)

 

宮本武蔵が五輪の書をしたためたとされる霊巌洞(れいがんどう)。雲巌禅寺(うんがんぜんじ)のなかにあるのですが、そこで桧垣媼(ひがきのおうな)の伝説を知ったという人は、意外と多いのではないでしょうか。雲巌禅寺には、檜垣が岩戸観音(=雲巌禅寺)に日参していたという逸話が残されています。

 

檜垣は、白川のそばに草庵を結び、観音像を安置した・・・とされていますが、蓮台寺(れんだいじ)は、まさにその檜垣の草庵の跡に建っているのです。

 

 

蓮台寺の塀の、住所表記にご注目ください。実は、地名もそのまま「蓮台寺」でして、江戸時代には蓮台寺村、明治後期から昭和初期にかけては、白坪村大字蓮台寺と呼ばれていました。

 

この地にあった草庵から岩戸観音まで、檜垣が日参したとされていますが、その距離をネット地図で経路検索をしてみますと、最短距離で10.6kmありました。足腰が丈夫な人で2時間ちょっと、というところでしょうか。現実的に徒歩で往復できない距離ではないですが・・・。

 

 

本堂には、熊本地震の影響が残っているようで、ブルーシートがかかっています。白川のほとりにある蓮台寺ですが、実は白川改修工事の際に、寺域が狭くなってしまったのだということです。

 

 

謡曲「檜垣」と蓮台寺

汲んだ水を報謝のためにと毎日岩戸観音に供える痛々しい老女があった。奇特に思った僧は水を汲む井戸を尋ね、昔、大宰府で舞の誉れ高い白拍子檜垣の亡霊である事を汁。

僧の回向を受けた桧垣は、昔を思って舞を舞い、なおも回向を乞いつつ消え去るのであった。

謡曲「桧垣」は、主題歌「年ふれば我が黒髪も白河の水はぐくむまで老いにけるかな」を軸とし老衰と因果の苦を、水を汲むことにかけて言い表して、有為転変のはかなさを語りかける名曲である。

蓮台寺は千有余年の歴史を持つ古刹であり人皇六五代花山天皇の頃、閏秀歌人桧垣がここに草庵を結び、観音信仰の生活を送った事が寺歴に記され、境内には墓と井戸がある。

謡曲史跡保存会

 

 

桧垣の井戸

桧垣は、平安時代の女流歌人で蓮台寺に住み、岩戸観音を篤く信仰したと云われている。

肥後の国司、歌人としても名高い清原元輔との交流が深く、「桧垣集」にこの贈答歌が見られる。

この井戸は桧垣が使ったと伝えられる。

 

 

くまもと水守(水ガイド)として、熊本県内の水遺産はひととおり回りましたので、そのときに蓮台寺には一度訪れたことがありました。ここは面白くて、水遺産に指定されていますが水が見えない、というパターンなんですよ。

 

 

白川の氾濫の犠牲者を悼むため、明空上人が作り上げた千体地蔵。

 

 

地蔵群の中央には、昭和58年11月の地蔵堂改築のときに発見された放牛地蔵ゆかりの台石があります。(この写真では左端の小屋のところ)

 

毎年9月24日には千体地蔵まつりが行われています。

 

 

桧垣の塔は、加藤清正の時代には熊本城内に移されましたが、加藤家改易後に肥後に入国した細川忠興の目にとまり、蓮台寺に戻されました。文化的素養が高かったために、桧垣のことを知っていたのでしょう。

 

 

なお、返還の際、基礎の1段が返還し忘れになっているとか・・・。

 

 

蓮台寺と隣接している天満宮。

 

 

帰りがけに、御朱印もいただきました!

 

桜の馬場城彩苑近辺から見た、熊本城のいま

 

熊本城の現況を、外からうかがい知る方法ですが、前回は加藤神社から見る方法をご案内いたしました。今回は、桜の馬場近辺から見ていきましょう。

 

これは撮影場所は御幸橋のたもとで、崩れているのは馬具櫓の石垣です。左の熊本城の石碑が、角度がずれてしまっているのにもご注目ください。

 

特別史跡 熊本城

日本三名城の一つに数えられる熊本城は、加藤清正が幾多の実戦の経験を生かし、慶長六年(一六〇一年)から七ヶ年の歳月を費やして完成したものと伝えられている。周囲五.三キロに及ぶ豪壮雄大な構えで、百二十余の井戸を掘り、かつては櫓四十九、櫓門十八、城門二十九を数えた。

明治十年(一八七七年)の西南戦争で多くの建物を焼失したが、薩軍の猛攻撃に耐え、名城としての真価を発揮した。

熊本城の石垣は、特異な勾配と堅牢さで知られ、「武者返し」の石垣と呼ばれている。なお現在の天守閣は、昭和三十五年(一九六〇年)に再建されたものである。

(熊本市/案内板から引用)

 

 

飯田丸五階櫓の工事をやっている工事関係者が、「写真撮るなら、ここからがよく見えるよ!」と言ってくださいましたので、近くによって撮ることができました。馬具櫓の石垣の崩落部分です。

 

馬具櫓

馬具を収納したことから名前がついたと考えられる櫓で、平成26年に復元されました。本震で石垣に膨らみが生じ、度重なる余震の影響で、5月10日13時56分に崩落しました。

(熊本城調査研究センターの掲示文から引用)

 

 

竹の丸では、現在、飯田丸五階櫓の石垣復旧工事が進んでいます。一本足でふんばっている、あの飯田丸五階櫓ですね。

 

 

御幸橋のたもとには、加藤清正公の座像があります。

 

熊本には清正公の像は各所にありまして、例をあげると、健軍神社参道には馬上の清正公、八景水谷公園には土木治水工事を指揮する清正公、本妙寺の上に槍を天につきあげた清正公がいらっしゃいます。(あと、たしか柿原養鱒場にも清正公の像があったような気がします・・・、今度確認してきますね。)

 

 

熊本城の南側に沿って坪井川が流れていますが、その沿道は石畳で作られた遊歩道になっていて、熊本城をながめつつ散歩ができるスポットになっています。

 

 

坪井川にかかるこの行幸橋。熊本城の入り口にかけられたこの橋は、築城当時にはなかったものです。

 

もともとはこの20mほど東側に、下馬橋という橋がかけられていましたが、この旧橋は狭くて急だったので、天皇の行幸にあわせて、御馬車が通れるように新しくこの行幸橋をかけたのですね。

 

行幸橋

明治三十五年(一九〇二)、明治天皇が熊本に二度目の行幸をされた。当時、下馬橋から城内に入る南坂は傾斜が急で、曲折も多かったので陸軍は、この坂を改修して傾斜をゆるやかにし、末端の坪井川に、新橋をかけて天皇の御馬車が通れるようにした。このとき旧来の下馬橋は撤去され、新しい橋が新下馬橋と呼ばれたが間もなく天皇の行幸を記念して、この端を行幸橋、新坂を行幸坂と名付けた。行幸橋から眺めた花見時の景色は、古くから熊本の人々に親しまれている。

(熊本市、案内板から引用)

 

 

もう下馬橋は跡形もなくなった・・・と思いきや、実は一部、橋の名残が当時のまま残されています。

 

 

下馬橋跡

下馬橋は、花畑邸前から坪井川を渡って本丸に通じる橋である。城内に入るとき、ここから先は馬を降りることになっていたため、この名がついている。明治35年、行幸橋、行幸坂が新設されたときこの橋は撤去された。

 

 

行幸橋を渡って、行幸坂のほうに行こうとすると、このように車両通行止めとなっています。(お花見の時期に歩行者のみ通行が許可されたことがあります。)そのため、加藤神社に行こうと思ったら、熊本城の東側をぐるっと迂回して、京町側から入るしかありません。

 

 

城彩苑の入り口に、竹細工の「復興」の文字が刻まれたオブジェがありました。

 

これは山都町の神社で毎年恒例で行われている「みたけ竹灯り」のイベントで制作されたもので、今年のテーマは「復興」ということから熊本のシンボルである熊本城が描かれたということです。約20名で1ヶ月かけて作り上げた作品だということです。今年の5月末まではライトアップも行われていました。

 

 

城彩苑の入り口広場。

 

 

明治時代には熊本城は、熊本鎮台という陸軍施設として使われました。

 

桜の馬場城彩苑のあたりは、兵器庫として使われていたようです。城彩苑の駐車場の近くに、「近代のレンガ造りの建物跡」として、陸軍施設時代の基礎の一部が展示されていますので、探してみてくださいね。

 

近代のレンガ造りの建物跡

ここには、平成20~21年度に行われた発掘調査で発見されたレンガ造り建物の基礎の一部を展示しています。

旧日本陸軍時代の建物で、規模は幅約14m・長さ80~90mと長大で、基礎も頑丈に作られています。そうした建物が4棟並んでおり、主に、兵器等を格納しておくための施設でした。熊本城には400年の歴史があり、もちろん、その本質的な価値は江戸時代の城郭にあります。しかし、その後の明治以降の近代において、約80年にわたり軍用地として使用されたということも重要な歴史事実です。このレンガ造り建物は、熊本城の近代を物語ることのできる、数少ない歴史遺産なのです。

(平成23年3月熊本市/案内板から引用)

 

 

城彩苑には、飲食店やお土産屋、歴史体験施設などが多数ありますので、行くところに困ったらここに来ると、熊本の食を堪能できると思います。

 

 

城彩苑から、二の丸公園および二の丸広場へ通じる階段があります。二の丸公園からも熊本城をながめることができますよ。

 

 

なお、観光客に人気の城彩苑ですが、慢性的な駐車場不足が集客の足をひっぱっていると言われています。

 

そのため、城彩苑の西側に隣接する合同庁舎跡を駐車場として整備する計画があるそうですが、遅々として進んでおりません。業を煮やした熊本商工会議所等から「熊本合同庁舎移転後の跡地利用を契機とした桜の馬場地区整備事業の促進について 」なる要望書も当時の幸山市長に提出されたとか・・・。要は駐車場が足らないから急いで整備しないと観光客をよそに取られてしまうよ!という内容なのですが・・・。

 

 

取材におとずれた2017年7月時点ではまだ合同庁舎の解体工事をしていましたので、もう少しこの状況は続きそうですね。それにしても、震災の影響があってもなお、駐車場が足らないほどの来客があるというのは素晴らしいことだと思います。

加藤神社から見える熊本城のいま

 

熊本城はいまでは各所崩落しているため立ち入りができませんが、加藤神社からすこしなら現状が見れますので、ご紹介してみたいと思います。

 

写真は、戌亥櫓(いぬいやぐら)といって、飯田丸五階櫓といっしょで、一本足でなんとか残っている櫓の1つです。こちらは加藤神社に行く途中で、車から見ることができます。

 

 

加藤神社は名前のとおり、加藤清正公を祀る神社です。もともとは本妙寺内の浄地廟がその役目を担っていましたが、明治政府から神仏分離令が布告されたことにともない、本妙寺・浄地廟の神社部分を分離し、熊本城内に錦山神社を創建したのがはじまりとされます。(明治42年に錦山神社から、現在の加藤神社に改称されました。)

 

 

加藤神社の鳥居からすこし出たところから、宇土櫓を見ることができます。熊本城は天守閣を含めほとんどが、昭和35年に再建されたものですが、宇土櫓だけは、建物から石垣に至るまで築城当時のまま残る、熊本城で最も古い施設です。

 

その宇土櫓だけが地震でほぼ無傷だったといいますから、加藤清正公の築城技術のすごさに気づかされます。

 

 

2017年7月時点の立ち入り禁止エリア。加藤神社側から見る方法(図の黄色のルート)と、二の丸駐車場から見る方法、桜の馬場デッキから歩いて行く方法などがあります。御幸坂はいまでの通行止めが続いています。

 

 

頬当御門(ほほあてごもん)に、工事用の橋がかけられています。ここから資材を搬入するのでしょう。

 

 

西出丸はほぼすべて、工事用資材置き場となっています。

 

 

ニュースで見た人も多いかと思いますが、崩落した石垣から現れた観音様も、加藤神社の境内内で展示されています。

 

 

このような観音様が石垣の裏に隠れていたんですね・・・。石垣用の石材をかき集めてくる際に、墓石やら板碑までも持ってきてしまったのでしょう。ありがたい、というよりは・・・、当時の石工もなんとも罰当たりなことをするもんだな、と思いますが・・・。

 

 

熊本城天守閣の修繕の様子も、加藤神社境内から見ることができます。左側(手前)が小天守、右側(奥)が大天守です。

 

 

ここからは、加藤神社のことをご紹介していきます。拝殿にはくまモンだるまが置いてありました。

 

 

清正公お手植えの樹。大天守前の銀杏と共に、加藤清正公がお手植えされたものと伝えられています。

 

 

お手植えの樹ではない種子も発芽して、いろんな植物がからみあっていて、力強い生命力を感じます。

 

 

境内内にある小さな神社を末社といいます。加藤神社の末社では以下のような神様を祀っています。

猿田彦神 ・・・・ 道開き・道びきの神
菅原道真公 ・・・・ 学問の神
大国主神 ・・・・ 福徳円満の神
恵比寿神 ・・・・ 商売繁盛の神
※例祭日 毎年10月5日 午前10時より(加藤神社Webサイトより引用)

 

 

清正公の旗立石。文禄の役記念として、明治42年に肥前名護屋城より移したもの。

 

 

拝殿には加藤家の家紋である「蛇の目紋」「桔梗紋」が見えます。なぜ、加藤家には2つも家紋があるのでしょうか?蛇の目紋がもともとの加藤家の家紋で、桔梗紋はいったいどこから?

 

これは、肥後入国の際の加藤清正公の境遇が関係しています。清正公は肥後入国前は5500石でしたが、一気に出世して、肥後北半国19万5千石を任されることになりました。当然、家臣も調度品もまったく足りません。そこで豊臣秀吉がとりはからって、讃岐で改易された尾藤知定氏の武具や調度品を清正に与えました。

 

秀吉より賜った食器類には尾藤家の家紋である桔梗紋がありました。加藤清正はこれを加藤家の家紋として、そのまま取り込んだのです。そして、尾藤家の家臣300人もあわせて召し抱えたといわれています。そのため、武具には蛇の目紋、調度品には桔梗紋が使われたということです。

 

 

熊本市は震災で立ち入りができなくなった施設があったり、通れなくなった道路などがあちこちにあります。ぜひ、地元の事情に熟知した観光タクシードライバーをご活用くださいませ。さまざまな歴史検定を持つ観光ガイドとしてもお役に立てるかと思います。

 

淡成居~後藤是山旧居

 

後藤是山が使用していたという安楽椅子。

 

前回、後藤是山記念館を訪れた際は、まだ熊本地震の影響で復旧をしていませんでしたから、中を取材することができませんでした。今回はちゃんと中を見てくることができましたので、改めてご案内させていただきます。後藤是山とは何ぞや?という方は、まずは前回記事をご覧ください。

 

 

案内図。なかなかの広さです。上の安楽椅子は、ここでいうガラス戸の部屋になります。

 

 

茶の間。小さいながら囲炉裏があって雰囲気がいいですね。ガラスや障子、畳は新しいものに入れ替えられていますが、調度品や柱、壁、天井などは、当時のままだそうです。

 

 

昔の鉄のアイロン、懐かしいですね。

 

 

廊下。

 

 

座敷の南側の部屋。床の間になっています。じつはこの床の間、熊本藩藩校時習館教授として知られる、藪孤山(やぶこざん)から譲り受けた武家の床の間だそう。

 

 

床の間のふすま絵。一部破けており、また、すすけて黒っぽくもなってはいますが、なんとも豪奢で見事。落款印も確認できます。

 

 

鶴の図案を用いた釘隠し。

 

 

座敷を仕切る鴨居の上には、見事な透かし彫りが・・・!

 

 

当時のままの水屋箪笥。

 

 

友の部屋では、是山の年表や、作品展示がなされていました。

 

 

友の部屋。昔はこの一帯には建物がなにもなくて、阿蘇山まで見渡すことができたといいます。

 

 

ご案内くださった館長様、長々と歴史談義にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

 

 

個人の邸宅としては大きいものだとはいえ、じっくり見てまわって解説を聞いておりましたら、1時間以上滞在していました。展示物もそうですが、建物自体が歴史があって見応えがありますので、楽しいですよ!資料館も展示物たくさんで、広い施設ではないものの訪れる際には結構時間を長めに見ておいたほうがいいかもしれませんよ。

 

細川忠利公火葬場跡~阿部一族

 

かの細川忠利公を荼毘に付したとされる、熊本市西区春日の「岫雲院」(しゅううんいん)。1071年創建といいますから、実に1000年もの歴史を誇る由緒正しいお寺です。

 

ただし、春日に古くから在住のかたはご存じかもしれませんが、近年は荒れ果てる一方で、廃墟としか表現のしようのない荒廃ぶりでした。(当時の写真を撮っておけばよかった・・・)ところが、熊本駅新幹線口の区画整理の際に、岫雲院は綺麗に再建されていました!

 

 

岫雲院の一角にある、この石垣に囲まれたエリアは、細川忠利公火葬場跡として、市指定史跡になっています。

 

肥後細川藩初代 細川忠利公火葬場跡

ここに四面を石垣で築いた区画の中に、大小の石塊を積み上げ、その中央頂点に「妙解院殿前越州太守羽林雲五公居市神儀」と彫った石碑が建てられている。岫雲院という名は忠利の命名によると伝えられ、また忠利が生前に、自分が死んだらこの寺で火葬してくれと遺言していたため、寛永十八年三月にその遺骨を荼毘に伏した。そのとき忠利愛育の鷹二羽も同時に殉死したと伝えている。

 

 

火葬場跡に建てられた石碑。下の方で真っ二つに割れてしまっています。

 

 

細川忠利公火葬場跡を、少し引いたアングルから撮影したものがこちら。熊本震災の影響か、石が崩れています。

 

 

火葬場の正面階段がこちらですが、現在は駐車場になっていて、なんとこの階段を使って下に降りることができなくなっています・・・。あとからできた駐車場によって塞がれた恰好なのでしょうが、なんというか、残念なことになっていますね・・・。

 

 

こちらは、忠利公がなくなった際に、飼っていた鷹が殉死したとされる井戸。いまでは立派な屋根がついているので、これでは鷹が飛び込み自殺しようにもできないような気がします。

 

岫雲院春日寺
寛永年九年(1632年)に肥後の国主となった細川忠利は春日寺を再興して岫雲院の名を与えたので、以後は岫雲院が正式の名称となった。

忠利の死後、遺言によって遺骸をこの寺で荼毘に付したが、そのとき解き放たれた愛養の二羽の鷹のうち、「有明」は火葬の焔の中に飛び込み、「明石」は傍の井戸の中に飛び込んでともに殉死したという哀れな物語が伝えられている。

森鴎外の「阿部一族」で知られている忠利の殉死者十九名の位牌もこの寺に安置されている。

平成二十八年 熊本市観光政策課

 

 

細川忠利公が亡くなったあとは、19人が追い腹を切って殉死しました。その方々の位牌もこちらのお寺に安置されているとのことです(お墓は妙解寺跡、いまの北岡自然公園にあります)。

 

細川忠利公の殉死にまつわる話としては、「阿部一族」という森鴎外の小説が思い出されますね。忠利公に殉死を許されなかった阿部氏が、他の家臣が次々追い腹を切っていくなか、殉死せずにいままで通り奉公しつづけたことで周囲に責められたので、追い腹を切ったところ、「殉死まかりならぬ」との主君の命にそむいたとみなされて家格を下げられてしまい、ついには藩からの討伐隊に阿部一族が皆殺しにされるという、悲しいお話でした。

 

※もっとも、阿部一族はあくまで創作ですので、史実とは異なる部分もあるようです。記録では阿部氏は他の殉死者と同じ日に亡くなっているようですし、そもそも殉死の許可を出すのは、亡くなった主君ではなく、それを継ぐ新主君が行うことであり、つまりこのときは忠利を継いだ細川光尚が行うことだということです。そして、殉死者全員に「殉死まかりならぬ」という命が下っていたということでした。

補陀落渡海供養塔附石塔群~生きては戻れぬ捨て身行

 

補陀落渡海(ふだらくとかい)という捨て身行があることを、ご存じでしょうか。

 

観音菩薩の住処があるという南方の海の果て、「補陀落世界」を目指して、行者が、帆や艪(ろ)といった動力をなにも持たない木船に乗り込み、船出をするというものです。

 

船出といっても、沖まで曳航して切り離し、あとは海を漂うだけですので、生きて帰ることはありませんでした。

 

 

この、補陀落渡海での航海の安全と、大願成就を祈願した石碑が、玉名市繋根木(はねぎ)の稲荷神社(繁根木八幡宮)にあります。つまり、玉名市を出発地として行われた補陀落渡海があったというわけですね。この石碑は西光坊が施主となって建立されたという記録が残っています。

 

肥後藩からの補陀落渡海は2例記録に残っており、ここ繁根木八幡宮のほか、もう1つは玉名市伊倉北方の報恩寺跡にもそのような石碑があるそうです(県指定重要文化財)。

 

 

写真の右側の石板が、補陀落渡海碑です。石碑の表面には、日、月、中央に阿弥陀、観音、勢至の阿弥陀三尊の線刻と、刻文があります。表面が風雨に削られ、わかりづらいと思いますので拡大してみましたが、それでもかなり分かりづらいですね。

 

なお、阿弥陀三尊の簡単な見分け方ですが、真ん中におわすのが阿弥陀菩薩、髻(もとどり)の正面に阿弥陀の化仏がおわすのが観音菩薩、髻の正面に水瓶があるのが勢至菩薩です。注意深く見分けてみてください。

 

 

玉名市指定重要文化財

補陀落渡海碑並びに宝塔塔身(昭和三十七年三月三十一日)

三基の板碑と一基の宝塔塔身があるが、これらの石造物のうち、向かって右側の阿弥陀三尊来迎図を刻んだ板碑が補陀落渡海碑である。

補陀落渡海とは、海上にあるとされる観音信仰における補陀落浄土を目指して往生(船出)することで、その供養として立てられたのが補陀落渡海碑である。

この補陀落渡海碑は、永禄十一年(一五六八)十一月十八日に、下野国の弘円上人、駿河国の善心、遠江国の道円らが補陀落渡海したのにちなみ、西光坊が施主となって建立したもので、現存の補陀落渡海碑は、本市の伊倉本堂山及び大阪府泉南市の一基、計三基だけである。

この補陀落渡海碑と並ぶ板碑二基の左端に、永禄四年(一二六七)銘の宝塔塔身がある。

平成九年三月 玉名市教育委員会

 

 

 

補陀落渡海碑がある稲荷神社ですが、実は稲荷山古墳の上に建っています。ただし、石碑の碑文にも記載されていますが、寿福寺の境内とするため削平したりしたため、いまとなっては外見上これが古墳だと判別できる人はほとんどいないと思います。(寿福寺は明治の廃仏毀釈により廃寺となりました。)

 

寿福寺は、このときの補陀落渡海を行った3人の渡海僧である、弘円上人(下野国)、善心上人(駿河)、道円上人(遠江)が身を寄せたお寺でもあります。そのあと、松の木川から出航しました。

 

史跡 稲荷山古墳

西暦六世紀頃この地に全長百米を超える玉名最大の前方後円墳が営まれた。この地点より東が後円部で西が前方部である。

後円部は中世寿福寺の境内となって削平されたので明らかでないが、前方部は葺石に覆われ、朝顔型を含む埴輪円筒列が二列めぐっていた。

縄文式時代の貝塚が南一帯にあり、弥生式末期の竪穴住居址が古墳の下から発見された。

また、奈良時代には立願寺瓦と同一の瓦を持つ薬師堂がその前方部に建立された。鎌倉時代大野荘の鎮守繁根木八幡宮が移建され、寿福寺はその神宮寺となり、室町時代には末社の稲荷堂がこの地にあった。

ここに並ぶ古墳碑は寿福寺境内にあったもので、特に永禄十一年(一五六八年)の板碑は観音の浄土である補陀落山へ入水往生し永遠の安楽を求めようとした熱烈な信仰を示す補陀落渡海碑で全国に珍しいものである。

昭和三十五年都市計画のため古墳の現状を変更するに当り学術調査を行い、諸事実を明らかにすることができたので、ここに碑を建訤する次第である。

昭和三十七年六月 玉名市

 

 

この補陀落渡海の習慣は江戸時代まで続きますが、末期になると、希望者がいなくなったため、すでに亡くなった人を流すという水葬の形に変わっていったそうです。