風の丘阿蘇大野勝彦美術館

創作活動中の大野勝彦先生

 

人生に迷ったとき。ここに来ると、前向きに生きるヒントを見つけることができるかもしれません。

 

菊池郡菊陽町生まれの画家、大野勝彦先生の美術館が南阿蘇村にあります。大野勝彦先生は、高校卒業後、家業の農業を営んでこられましたが、農作業中の不慮の事故で、両腕を切断しました。その後、農業から画家へ転向したという、珍しい経歴を持つ方です。

 

なんと、入院3日目より筆を腕にくくりつけて、字を書き始め、その2年後には個展も開催されました。

 

詩画集「はい、わかりました。」

 

それだけに、両腕を失ってはじめて気づいた多くのことを、作品を通じて語りかけてこられます。

 

独特の、力強いタッチの味わい深い絵と、心を打つ詩。この美術館は、1つ1つの作品をじっくりと味わうような観覧になります。この美術館にお客様を連れてくると、ほとんどの方は長く足を止めて作品をご覧になられるようで、長めの滞在時間となることを事前に想定された方がよろしいかと思います。

 

大野勝彦先生(左)とツーショット。

 

大野勝彦先生は、美術館内で創作活動をなされていることもあり、在館されていることも多いです。そのときは、このようにツーショット写真などにも気軽に応じてもらえますし、体験に基づくいろんな大切なお話をしてくださいます。

 

 

創作活動に使われる画材など。大野先生は、入院2ヶ月目には“湧き出る生”への想いを水墨画で表現されるようになった、とのこと。

 

 

大野先生の義手。トラクターを清掃中、ゴミを取ろうとした右手が巻き込まれ、それを取ろうとした左手も巻き込まれました。「死か」「手を切って助かるか」の二択を突然迫られ、まだ死ねない、と思った大野先生は、機械から手を引きちぎって助かることを選びました。

 

 

 

受付フロアでは、作品の販売もなされていて、こちらで作品を購入しますと、大野先生がサインをいれてくださいますよ。

 

わたくしはカレンダーを購入しようと思いましたが、人気があるということで在庫切れでした。

 

 

まだ美術館周辺の丘も崖崩れを起こしたままで、道路もあちこちで寸断されたままですが、なんとか美術館までは車で行けるようにはなっていますよ。

 

葉祥明阿蘇高原絵本美術館

 

絵本作家として名高い、葉祥明(よう・しょうめい)さんの美術館が阿蘇郡南阿蘇村の高原にあります。

 

絵本や芸術に疎い人でも、絵をみてもらえば、たいていは「ああ、この人が!」となりますね。

 

 

 

青々と茂る暖かそうな大草原に、ポツンと立つ可愛い木や家・・・。そんなイメージの絵が多いでしょうか。見る人の心を暖かくしてくれる、さわやかで不思議な魅力のある絵が魅力的です。

 

「かもメール」「はあとメール」「ふみの日記念切手」などでも、葉さんの絵がたびたび使われました。

 

 

葉祥明さんは1946年熊本生まれの絵本作家さんで、自然や人間の心を含めた地球上のあらゆる問題をテーマに創作活動を続けられています。ニューヨークの「アート・スチューデンツ・リーグ」に留学して、油絵を学びました。

 

童話作家さんの葉山祥鼎(はやま・しょうてい)さんは弟さんで、じつはこちらの館長もされています。

 

 

葉山祥鼎さんの「ブルービー」シリーズ。ブルービーとは、阿蘇で7月~10月ごろに見られる青いミツバチのこと。ルリモンハナバチが正式名称で、「シアワセを呼ぶ蜂」とも呼ばれています。南阿蘇村を走る「ゆるっとバス/ブルービー号」にはブルービーとルリの絵がデザインされており、阿蘇を巡回していますよ。

 

葉山祥鼎さんは、熊本県阿蘇郡の環境保全に取り組み、「ビレッジ・トラスト運動」を推奨しておられます。

 

 

この美術館には広い庭園があり、ブルービーが自然に生息しています。見かけたら幸運にあやかれるかもしれませんよ!

 

 

カフェ「Blue Bee cafe」も併設されていて、美術館では作品をながめつつも、くつろげるようになっています。

 

 

残念ながら、写真つきでご紹介できるのは、無料区間のみ。美術館の有料ブースは写真撮影禁止ですので、そちらは自身の目でご確認くださいね。

 

 

阿蘇大橋があった辺りは国道57号が通れなくなっていますので、今年8月から開通した迂回ルート「長陽大橋ルート」でご来場くださいね。阿蘇はいま通行止め区間が多数ありルート選びが難しいですので、加来タクシーにお声がけいただければ、周辺の阿蘇の楽しいスポットも含めてご案内いたしますよ!

 

三賢堂

 

三賢堂は、政治家の安達謙蔵氏が熊本市民の精神修養の場として、昭和11年に建立した二重円筒のお堂です。熊本市民であれば、誰でも有料でイベントスペースなどとして利用することができますので、近くにお住まいの方は、来られたことのある方も多いのではないでしょうか。

 

職員は常駐しておらず、内部見学は事前に市文化財課に予約しなければならないということで、今回は中を見ることができませんでした。(残念!)

 

 

仕方なく、窓越しに撮影。中央にある一対の螺旋階段が見れました。内部には肥後の三賢人として、菊池武時(きくちたけとき)、加藤清正(かとうきよまさ)、細川重賢(ほそかわしげかた)の座像が安置されているのですが、窓からでは見えず。

 

 

安達謙蔵の旧居である原泉荘。書斎は備於斉(びおうさい)という名前がついています。昭和24年に遺言にもとづき熊本市に寄贈されました。

 

 

安達謙蔵像。済々黌で学んだあと、新聞社社長兼記者として、ジャーナリスト活動を行いましたが、政界に転身しました。第7回総選挙で初当選を果たしたあと、14回連続で当選し、徳富蘇峰から「選挙の神様」と評されました。逓信大臣や内務大臣などを勤めました。

 

 

安達謙蔵氏の著書「十年間の八聖堂」にも、三賢堂について触れてある記述を発見しましたので、最後にご紹介しますね。現代語訳を試みましたが、かなり意訳となっておりますことお詫びいたします。(間違いがございましたら、ご指摘ください)

 

八聖殿が落成したのち、私は直ちに三軒堂建立の準備に着手しました。もともと、我が故郷肥後熊本において、県民の最も厚い崇拝を得ているものは、菊池武時公、加藤清正公、細川重賢公の三賢であり、この方々の功績を子孫に伝えることをもって社会の改善に寄与したいというのが、三賢堂建立の目的です。

 

よって、1階には等身大の三賢座像を安置して、二階には八聖殿同様に大宇宙を象徴し、大榊州を表現する榊鏡を安置しておりまして、日中だけは公開し、参拝者には自由にお堂に出入りすることができるようにし、又、個人がお堂に座って瞑想を行ったり修練を行ったりすることも、あるいは多数の学生を引率したる各学校の諸先生が堂内に設けてある演壇を学校講堂の延長として使用し、講演をすることもできるようにしてあります。

(十年間の八聖堂/安達謙蔵より現代語訳)

熊本水遺産/延命水・長命水

 

松の内は明けましたが、新年、せっかくなので縁起のよい話題ということで・・・。「長命水」「延命水」をご紹介いたしましょう。健康に長く生きることは、皆の願いですからね。長命水と延命水は、いずれも名水百選に指定されている「金峰山湧水群」に含まれています。

 

熊本水ガイド「水守」としては、水遺産も積極的にご紹介していきませんとね。

 

長命水

 

長命水は、かつて細川家が茶の湯に用いたとされる名水です。かつてはここで汲んだ水を樽につめて、町の茶の愛好家に売って商いをしていたというのですから、どれほど人気があったか分かると思います。

 

昭和32年の水害で土砂に埋まったため、長らく忘れられていましたが、地元有志の努力により、見事に復元しています。崖に埋もれた石の祠が風流ですよね。球磨村の岩戸水源にも「長命水」なる名がつくものがありますね。

 

訪問当時は水量が少なかったです

 

長命水という名前は、「この一帯に住む人は皆長命である」と肥後国誌に書かれたことにはじまるとのことです。(「くまもと水検定公式テキストブック」から引用)

 

 

続いて延命水がこちらです。さきほどの長命水と近い場所にあります。去年ご紹介させていただいた、釣耕園叢柱園の水源となっているものです。

 

水源地ならではの水神祠もあります。

 

 

延命水の名は、長命水からあやかってつけられたと考えられています。

 

地元の生活用水として使われたもので、炊事や洗濯がしやすいように階段がつけられています。

 

 

水場が2つにわかれていて、上流側で米を研いだり野菜を洗ったりと炊事で使い、下流側では洗濯をしていたということです。

 

【長命水】

 

【延命水】

花岡山陸軍埋葬地~神風連の変

 

明治9年10月24日に発生した神風連の変で戦死した、熊本鎮台司令長官・種田政明少将以下、116名を埋葬するために開設されました。

 

神風連の変については、以前記事にさせていただきましたので、そちらもご参照ください。(→神風連資料館(桜山神社))そのときの記事にも書きましたが、わたくしの祖先が、神風連側として参加しておりました。

 

 

現状ですが、当墓地は草が伸び放題で、手入れが間に合っておらず、草をかきわけて取材をする感じになりました。もう少し綺麗に整備されてくれると観光地としてご案内しやすいのですが・・・。墓石も折れたりヒビがはいっているものが多く見受けられました。

 

 

軍人・軍属合葬之碑。当墓地は、西南戦争時に薩軍により熊本城を狙うための大砲陣地が設置されましたので、それにより多くの墓石が亡失するなどして荒廃することとなりました。そのため、西南戦争終結後、埋葬場所の特定が困難となった埋葬者136名を合葬した石碑が作られたのが、この石碑となります。

 

 

隣接する県官墓地にある、熊本県令安岡亮介の墓所。神風連の変のときに自宅で襲撃されて重傷を負い、その3日後に鎮台病院で亡くなりました。

 

 

花岡山には、頂上にある仏舎利塔のほか、加賀マリアの墓所があったり、招魂社があったり、阿蘇殿松跡など多くの史跡が集まっている場所でございますので、新幹線での出張のときなど、あまり熊本駅から離れられないときには、花岡山を観光に組み込むのをお勧めしますよ!加来タクシーなら短時間でガイドつきでご案内できますよ。

 

国指定史跡・池辺寺跡(ちへんじあと)~味生池の龍伝説

Googlemapより引用/池上小学校

 

新年明けましておめでとうございます。新年一発目は、おめでたく、龍伝説からスタートさせていただこうと思います!

 

熊本市西区・池上小学校の外壁には、大きな昇り龍が2匹いますね。この龍のオブジェ、西回りバイパスから見えますので、「あの龍の意匠はいったい何か意味があるのか・・・?」とそばを通るたびに不思議に思っていたドライバーもいるのではないでしょうか。あれは、この地区に伝わる龍伝説がもととなっています。

 

 

あの龍は、味生池(あじうのいけ)に住むとされる龍をモチーフにしたものです。『池辺寺縁起絵巻』(熊本県立美術館収蔵)によると、その龍を鎮めるために大和の僧・真澄が、百塚地区に寺院を建立し、悪龍の害を鎮めた、と伝えられています。

 

なお、味生池は加藤清正の時代に埋め立てられており、現在は住宅地になっています。上記図の推定地を見るに、かなり大きなため池だったようですね。

 

石塔

 

その、龍を鎮めるために建立された寺院が「池辺寺」でして、長らくはどこに存在していたかも分かっていませんでしたが、昭和33年の最初の現地踏査で寺跡の存在が予想されるようになり、昭和61年度に開始された発掘調査により、百塚地区にて寺跡が発見されました。

 

百塚地区は、古くから「開墾してはいけない場所」として言い伝えられていたということです。

 

百基の石塔跡

 

かつて百基の石塔が立ち並んでいたという石塔跡。この10×10の石積みが見つかったことで、池辺寺の特徴について現代に知らせる金子塔(かなごのとう)の碑文の記述と一致することとなり、ここが池辺寺跡であると特定されました。かつては、1つ前の写真のような石塔が、ずらっと並んでいたのだろうと思われます。

 

10×10の、壮大なる百基の石積みにどのような意味合いがあるのか?といったことについては、まだわかっていません。

 

 

本堂については復元はなされていません。おそらくは、外観の根拠となる資料が残っていないために、礎石の位置や溝の位置、当時の寺院の建築洋式などから形状を推定するしかない…ということではないかと思います。

 

上の模型も、あくまで復元案の1つだということです。

 

 

本堂跡。雨水を流す溝が作られているのがわかります。この溝の位置から、だいたいの本堂の規模が推測できるとのことです。

 

 

金子塔(かなごのとう)のレプリカ。池辺寺のことについて記述された碑文が刻まれており、本物はここから北西500mほど、西平山の山中にあり、鉄柵で四方を覆われ、損壊しないように保護されています。

 

 

まだまだ熊本にもわくわくするような史跡がたくさんあるということを、多くの方に伝えていけたらと思います。

 

本年も加来タクシーをよろしくお願いいたします。

釣耕園(ちょうこうえん)

 

細川綱利公の建てた、お茶屋と呼ばれる別荘です。飛び石を用いた池に山渓を取り入れたもので、米田波門が、その景観を「雲を耕し月を釣る(釣月耕雲)」と詩に詠じたことから、釣耕園(ちょうこうえん)と名づけられたといいます。

 

 

西渓の名園ともいわれているそうで、また、前回ご紹介した叢桂園(そうけいえん)とは地理的に繋がっていて、この釣耕園の水を叢桂園に流している形になってます。

 

 

以前伺ったときには、軒下に「釣月」と書いた木製の額が下がっていたはずですが、取材のときには見当たりませんでした。台風対策などでどこかに避難させているのでしょうか。

 

 

案内板には、ここが続家の私有地であること、続家の好意で開放しているにすぎないことが、書かれています。施設管理人が置かれているわけでもないため、庭は自由に見学できますが、別荘建物内を見学することはできません。

 

 

藩主・細川綱利公が、元禄年間に国政参議の功で続弾右衛門英常に釣耕園を与えたとされています。そのさい、杖でお茶屋とその周辺を示して弾右衛門に与えたため、続家ではこのお茶屋を「お杖先」と呼び、守り続けているそうです。

 

 

苔むした切石の台。木漏れ日の光が降り注いで、何とも幻想的な雰囲気を醸し出しています。

 

庭園南部には、シャクナゲの群落がありますよ。

 

 

高浜虚子の句碑。

「時雨傘 やみたれば 主 受取りぬ」

 

 

本年も多くの方にたいへんにお世話になりました。来年もこのブログは毎週更新していきますので、今後ともよろしくお願いいたします。

叢桂園(そうけいえん)~熊大医学部にゆかりのある庭園

 

叢桂園は、熊本藩医学校”再春館”の師役をつとめた、村井家の別荘跡です。別荘跡ということで、無人ですが、無料で誰でも見学することができます。

 

村井家といっても、わからない人が多いと思いますので、説明いたしますと・・・。

 

第8代細川藩主・細川重賢(ほそかわしげかた)に、再春館の設立を進言したのが、当時まだ市井の一医師にすぎなかった村井見朴(むらいけんぼく・初代の再春館師役)でした。この、見朴の子、村井琴山が作庭し、その子・村井蕉雪の代で完成されたのが、この叢桂園なのですね。

 

ちなみに再春館は、いまの熊本大学医学部の前身にあたりまして、そして、日本初の公立医学校となります。

 

 

釣耕園(ちょうこうえん)の下手(しもて)にあたり、中で繋がっています。百梅園(ひゃくばいえん)も近いですので、見学されるのであれば、この辺をまとめて見学なされるとよろしいかと思います。

 

叢桂園は江戸時代肥後の分か、医学教育に貢献した村井家歴代の別荘跡である。
村井琴山(1733年~1815年)が工をおこし、その子蕉雪(1769年~1814年)の代に完成した。園の入口に「出者不逐入者不拒 山家自然妙境」と刻んだ石がある。
揚子江、洞庭湖を象った池があり遣水が流れている。頼山陽子はじめ多くの文人墨客が訪れた。村井琴山の父見朴(1702年~1760年)は藩主細川重賢に藩立医学校「再春館」設立を建議し、宝暦7年開講した。
「患者を身分貧富で差別せず、治療技術のみでなく学理を学ぶ、師弟関係を尊重する」を教育方針とした。村井琴山は京都の山脇東洋や吉益東洞の教えをうけ、古医方を唱え、医道二千年眼目編・和方一万方などの著書を残し多くの門下生を指導した。その子蕉雪も偉業を嗣ぎ再春館医学監を務めた。
【平成11年4月 日本東洋医学会 熊本県部会】(現地案内板より)

 

 

釣耕園から引き込んだ清流で曲水を造り、中国の洞庭湖に模した池も設けられています。この辺一帯はまとめて、「金峰山湧水群」として平成の名水百選に指定されています。

 

 

保存工事や補修などは特になされていないので、残念ながら、風化していたり、荒廃している部分も見うけられます。江戸時代の名園の当時の姿を想像して、楽しむのがよいでしょうね。

 

頼山陽が村井蕉雪を訪ねたときには、一日中庭づくりを手伝ったというエピソードが残っているそうです。

 

 

夏場はホタルを見ることができ、秋には紅葉が見事ですよ!取材したときは11月上旬だったために、紅葉にはすこし早かったようですね。

 

谷尾崎梅林公園(武蔵ゆかりの座禅石)

 

宮本武蔵関連の史跡としては、武蔵塚公園霊巌洞西の武蔵塚武蔵の引導石泰勝寺跡武蔵旧居跡などをご紹介して参りましたが・・・。

 

もっともマニアックなものをご紹介いたします。それが、この武蔵ゆかりの座禅石です!!

 

 

なにしろ案内板と平たい巨石があるだけで、墓碑などがあるわけでもないため、宮本武蔵に思い入れがないと、「えっ?この石だけ?」と言われてしまいかねないのですが・・・。

 

歴史好きのかたであれば、この石で座禅を組んでから霊巌洞に向かったのかなあ?とか・・・、歴史浪漫に思いをはせることができると思います。

 

 

梅林公園内にあるだけあって、座禅石に至る道には、さまざまな種類の梅の木がたくさん。梅のシーズンに、取材に来ればよかったですね・・・。

 

 

座禅石の傍らにある案内板。

 

伝 宮本武蔵ゆかりの座禅石

この巨石の上面は畳二枚敷位の広さがあり、昔から「座禅石」と呼ばれてきた。また傍の立石には地蔵の石像が納められていて、地蔵石と言われていたが、今は失われた。

この座禅石で、宮本武蔵も座禅を組んだとの伝承が強く残っており、そのため別名を「武蔵先生座禅石」とも伝えている。ここは昔の臨済宗隠軒の寺域で、座禅石があっても不思議ではない。武蔵は城下から岩戸観音にしばしば参禅しているから、まず妙解寺に詣で、ついでこの地で野外座禅を試み、古くからの山路をたどって岩戸観音に籠もったと考えることもできよう。

熊本市(※案内板より抜粋)

 

熊本市には宮本武蔵関連史跡が多くありますので、武蔵関連のところだけを効率よく1日で、一気にまわりたい!というようなときには、ぜひ加来タクシーにご用命ください。歴史に通じているタクシードライバーだからこそ、きっと歴史ファンにご満足いただけるツアーを行うことができると思いますよ。

 

清原神社~肥後守・清原元輔を祀る神社

 

女流歌人・桧垣と交流があったことで知られる、肥後国司・清原元輔。三十六歌仙に称される和歌の名人で、そして、かの清少納言の父でもあります。彼は都から肥後守として派遣され、寛和二年から正暦元年まで、肥後を治めていました。それから彼は都に戻ることなく、熊本で生涯を終えました。

 

都に戻れなかった清原元輔の霊を慰めるために、熊本市西区春日に、彼を祭神とする清原神社があります。交流のあった女流歌人・桧垣もともに祀られております。

 

 

ここは北岡神社の飛地境内ということで、北岡神社の境内社という扱いになるそうです。そのせいか、鳥居も祠も、一般的な神社と比べると小振りに作られていました。もともと北岡神社本社の敷地内にあったのですが、それが飛び地となっている理由としては、北岡神社本社と清原神社の間に道路が建設されたからとのこと。もともとはこの辺一帯は境内内の茶畑であったそうです。

 

なお、祇園社(いまの北岡神社)が1647年にこの北岡の地に移ってきたのですが、そのときに清原神社もこの地に移設されたということです。

 

 

清原神社の木碑。

 

そして右に見える手水鉢には、「奉寄進石盥 元文四年 呉服一丁目」と刻まれており、清原神社の歴史の長さを物語っています。

 

 

住宅地にひっそりとあるために、地元の人でも存在を知らないのではないかなあ・・・と思われます。特に案内看板があるわけでもないですので。

 

 

拝殿再建碑。大正十三年七月建とあります。なにかの原因で拝殿が損壊していたのでしょう。

 

 

清原公民館も境内内に併設されていました。

 

余談ですが、北岡神社は熊本城を見下ろすことができるとして、西南戦争時には薩軍の本営が設けられていた時期もございまして、境内内に「西郷隆盛先生本営の跡」なる石碑もたっていますよ。(やがて政府軍の砲撃により二本木に退くことになります。)