池の川水源

 

くまもと名水百選(昭和60年8月選定)のひとつ、南阿蘇にある池の川水源にやってきました。おいしい水が汲めるとの評判で、取材時にもちょうど地元の人が水を汲んでいるところでした。

 

 

平成の名水百選(平成20年6月選定)に選ばれた南阿蘇村湧水群の1つでもあります。湧水量は毎分約5トンあり、含有されるミネラルはナトリウム10.5mg/l、カリウム6.09mg/l、カルシウム22.9mg/l、マグネシウム6.86mg/lとのこと。

 

 

南阿蘇には湧水地が多くあって、いにしえの時代から農耕用水や生活用水として活用されてきました。

 

阿蘇火山に降った雨は地下に染みこむ課程で、火山によって形成された地層により濾過され、ミネラル分豊富な湧水となり、南阿蘇の各所で湧き出しています。

 

 

水源にある岩下神社。古くは三年妙見と呼ばれていて、阿蘇七十五社の一つとされています。

 

毎年7月18日の夏祭りと、11月18日の秋祭りはいまでも盛大に行われています。

 

 

お祭りでは各ご家庭から御神酒を持ちよって、かすあえを肴に飲み明かして水に対する感謝を表す風習が現在まで伝わっています。

 

 

池の中にはかぶと石という石が2つあり、水量が多くなって右の石が見えなくなると雨が多く凶作、見えていれば日年(ひどし)で豊作になるといういい伝えがあるそうです。(池には石がいくつもあるので、どれがかぶと石なのかはわかりませんでした・・・)

 

 

おいしい水を求める方は、ぜひポリタンク片手に訪れてみてくださいね。

 

貴賓館~北里柴三郎記念館

 

北里柴三郎記念館を前回取り上げさせていただきましたが、今回は同じ敷地内に隣接して建っている、貴賓館をご案内させていただきます。

 

貴賓館は北里文庫と同時期に建てられました。北里先生が帰省した際の住居として用いるほか、郷里を訪れた来賓をもてなす場所として作られた木造2階建ての建築物で、大正5年に完成しました。

 

 

大正5年8月10日の落成式には博士一家で参加し、数日滞在なされたということです。

 

小高い場所に建っていることもあって、2階の客間から村落を一望できるほか、小国富士と呼ばれる湧蓋山(わいたさん)も見ることができます。

 

 

建物の作りとしては華美さはないものの、造作の作り込みが細かく、来賓を迎え入れるための建物として作られただけはあると感じ入りました。

 

 

光るえんがわ。北里柴三郎先生が8歳の頃、教育のため伯母の嫁ぎ先であった小国郷志賀瀬村の橋本家に預けられ、四書五経を学ばせられました。

 

そのとき橋本家の縁側を柴三郎先生がぴかぴかになるまで毎日拭き続けたという話は、熊本県の小学1・2年生の道徳の教科書「くまもとのこころ」にも掲載されました。

 

橋本家から実際のえんがわの一部を預かったそうで、こうして展示してありました。

 

 

床の間の違い棚には、当時の写真や手紙などが飾られていました。天袋のふすまには柄などは見られず、上質でありつつも飾り立てない質素な作りが、印象的な建築物でした。

 

 

北里柴三郎記念館を訪れた際には、ぜひともこちらで100年前に北里先生が眺めたのと同じ景色に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

北里柴三郎記念館

 

北里柴三郎と聞いて、その名を知らない日本人はいないと思います。世界で初めて血清療法を確立し、ペスト菌を発見するなどして、日本細菌学の父と言われている医学博士です。

 

ところが、北里柴三郎が熊本出身(小国町)であることはほとんど知られていないと思います。今回は、その北里柴三郎記念館をご紹介いたします。

 

 

平成28年に設立100周年を迎えた北里文庫。私財1万円余を投じて、北里柴三郎が郷里の学生たちのために設立をしました。

 

 

もとは北里文庫と貴賓館だけがあったこの敷地内には、現在では博士の生家の一部も移設されております。当時は坂下屋敷と称し、もともとは記念館南側の集落内にあったといいます。明治28年に両親を東京に呼んで空き屋となったため、座敷二間をのぞいて取り壊されました。現存するのはその一部となります。

 

 

貴賓館前の広場。北里柴三郎先生の銅像が設置されています。熊本医学校時代にオランダ人教師、マンスフェルトとの出会いにより、北里柴三郎先生は医学の道に本格的に進んでいくことになります。マンスフェルトからは解剖学や生理学など、さまざまな医学知識を学んだと言われています。

 

より専門的な医学知識を身につけるために進学した東京医学校では、医学知識が豊富であったため、教授の論文に口だしするなどして学校との折り合いが悪く、留年を繰り返すことになったそうです。それでも明治16年に医学士となりました。

 

 

北里柴三郎記念館入り口。真っ先に来場者を迎えるのは、北里先生が愛用した顕微鏡です。

 

北里柴三郎先生は東京医学校を卒業後、内務省衛生局に勤務することとなります。ここで当時、東大教授兼衛生局試験所所長を勤めていた東京医学校時代の同期、緒方正規のはからいにより、国の留学生として、ドイツのベルリン大学に留学することとなります。ここで、結核菌の発見者であるローベルト・コッホに師事することとなります。

 

 

ベルリン大学時代には、1889年、世界初となる破傷風菌純粋培養法に成功。翌1890年には破傷風菌抗毒素を発見し、功績をあげました。また、弱毒化・無毒化した菌体をすこしづつ動物に注射して抗体を作り出し、その血清を患者に投与するという血清療法も、北里先生が世界で初めて開発したものです。

 

 

1890年には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表し、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補となりました。結果として、ジフテリアについて単独名で論文を別に発表していたベーリングだけが評価され、ノーベル生理学・医学賞を受賞することとなり、北里柴三郎先生は受賞することがありませんでした。

 

 

この時代にはまだ共同受賞という考え方がなかったこと、また、選考にあたったカロリンスカ研究所が、北里柴三郎先生は実験結果を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリングが考えたものだと見なしたということがあるようです。受賞できなかったのは、日本人であることによる人種差別的なことではなかったものと考えられています。

 

 

さきほどの論文により医学界では大いに評価され、多くの欧州の各研究機関からスカウトが殺到したということです。しかし、北里柴三郎先生は、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制を改善することと、伝染病の脅威から日本国民を守ることであると、すべてスカウトを断り、日本に帰国しました。

 

 

帰国したのち、北里柴三郎先生は感染症の研究機関設立を目指しますが、東大医学部との対立をしていたために、政府への訴えは無視されてしまいました。

 

なぜ東大医学部との対立をまねいたかというと、それはドイツ滞在中に発表した論文に起因します。脚気の原因について、細菌が原因であるとした東大教授・緒方正規の説に否定的な見解を論文で示したことで、「恩知らず」とみなされ、対立関係になってしまったということです。

 

 

この状況を打破することになったのは、福沢諭吉でした。

 

彼が私財を援助することで、北里柴三郎先生は私立伝染病研究所を設立することができ、初代所長として就任することとなりました。私立伝染病研究所はのちに国に寄付され、内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)となりました。ここで北里柴三郎先生は伝染病予防と細菌について研究に打ち込みました。

 

 

明治27年にはペストが流行する香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見する功績をあげました。日本では何度もペスト流行の兆しがあったそうですが、北里柴三郎先生が感染症予防の必要性を政府にうったえかけていたため、日本で流行することはありませんでした。

 

 

北里研究所創立五十周年記念のメダル。

 

北里先生の功績がよくわかる記念館になっており、今回紹介できなかった貴賓館までもじっくり見ますと、それこそ一日費やせるほどに見応えのある施設です。熊本出自の偉人の功績にぜひ触れてみてくださいね。

 

高森殿の杉(たかもりどんのすぎ)

 

縁結びの御利益があるというウワサのパワースポット、高森殿の杉を今回はご紹介いたします!

 

女優の菅野美穂さんは、この樹齢400年を超す夫婦杉を見たのち、抱きついてパワーをもらい、その直後に堺雅人さんとの結婚が決まったということで、そのような謂われが出来たそうです。

 

 

幹回り10m以上もあり、枝も八方に伸びていて、独特の雰囲気を醸し出しています。阿蘇合戦に敗れた高森城主・高森惟直とその家臣が自刃した場所だと言われていて、夫婦杉の2本のうち1本を高森殿の杉と言っています。(高森殿の杉のほうの根元には墓石があり、賽銭が置かれています。)

 

天正十四年正月二十三日、島津勢との三度の戦いに高森落城し、再起をはかろうと豊後にのがれる途中、追手に囲まれ城主高森伊予守惟直・家臣三森兵庫守能因、虎御前原がこの地で自刃した。元々は墓があったが、寛永六年に含蔵寺に移された。

(天然記念物「高森殿の杉」木碑の解説文より引用)

 

 

高森殿の杉の入口。駐車場こそアスファルトできれいに整備されていますが、200mほど牛の放牧地を通らなければならず、がけ状の斜面を降りるところもあるので、歩きやすい恰好で行くことをおすすめいたします。

 

 

高森の自然に見とれていると、牛の落とし物を踏みます・・・。

 

 

斜めになっている茶色の木碑が、高森殿の杉の目印。ここからがけ状になっている斜面を降りていきます。

 

 

樹齢400年の夫婦杉からパワーをもらいたいという方、菅野美穂さんの縁結びの御利益にあやかりたい、という人はぜひ訪れてみてください。

 

角宮(津の宮)

 

阿蘇の鬼八伝説に登場する、健磐龍命(たけいわたつのみこと)に折られた鬼八法師の角が収めてあるという角宮をご紹介します。

 

鬼八法師は、阿蘇地方で農作物に深刻な被害をもたらしていた霜を擬人化したものと考えられておりまして、角が2本生えた鬼の姿をしていて、地域に霜害をもたらす厄神とされています。

 

 

角宮は、阿蘇神話の舞台である穿戸羅漢山のふもとにあり、津の宮と称されることもあります。

 

鬼の角が落ちたことから、夫婦げんかもたちまち収まる(角がひっこむ)と言われているそうですよ!

 

 

阿蘇の開拓神・阿蘇大明神こと健磐龍命の家来であった鬼八法師。あるとき、健磐龍命は遠くの石にむかって矢を射る遊びをはじめ、鬼八法師に矢を取りに行かせていました。99本目までは真面目に取りに行っていた鬼八法師ですが、何度も行き来することに疲れた鬼八法師はいらだって、主の矢を足指にはさんで投げ返しました。

 

その矢はあろうことか、健磐龍命の足に刺さり、怪我をさせてしまいました。主の矢を足蹴にし、怪我までさせるとは許せぬと激怒した健磐龍命は、鬼八法師の首をはねんと追いかけ回すこととなります。鬼八法師はなんとか高森方面まで逃げてきたものの、この地でついに首をはねられてしまったということです。

 

そうして、殺された鬼八法師は恨みから凶神となり、この地に霜害をもたらすこととなってしまいました。

 

 

角宮の北方にある霜神社は、鬼八法師の怨念を鎮めるために建立されたものと言われています。

 

穿戸羅漢山を訪れる際には、一緒に立ち寄られるといいと思いますよ。

 

 

高森田楽保存会

 

高森町を観光でご案内しますと、名物料理である田楽を食べたい!と言われることが多いです。そんなときに、必ず第一候補としてご案内していますのが、今回ご紹介する高森田楽保存会さんです。東京オリンピックのときに、ちょうど60周年を迎える予定という、歴史のある老舗の料理屋さんです。

 

 

田楽は炭火で焼き上げるので、夏場はちと暑いですが、囲炉裏を囲んで炭火で燻された田楽を食すのは、なかなか乙なものですよ。

 

 

高森田楽コースには、上記の味噌だれを塗った4本の串焼きのほかに、生揚げと山菜団子汁、香のものがつきます。

 

 

高森田楽コース(1,890円)

  • こんにゃくと山菜…1串
  • お豆腐…1串
  • 鶴の子芋…1串
  • 山女魚…1串
  • 生揚げ…1皿
  • とうきびご飯/香のもの
  • 山菜だんご汁

 

 

この揚げたての生揚げに、ショウガとお醤油をたらして食べるのが、またうまい!生揚げがこんなにおいしいものだとは気づきませんでした。

 

 

メニュー表を見ますと、さきほど囲炉裏で焼いていた里芋の串焼きは「鶴の子芋」という芋だということがわかります。

 

鶴の子芋は子芋を利用する田楽専用の品種で、石川早生長系統の在来種。飲食店との契約栽培がほとんどであり、そもそも生産者が4~5名しかおらず、青果として入手するのは難しいものです。

 

 

建物も古くからある建物であるようで、それがとても良い風情を醸し出しています。排煙設備がないからなのか、夏場でも窓を開け放し、クーラーなどもついておりませんので、そこだけはお気を付けくださいね!

 

旧宮原線遺構/竹筋コンクリートアーチ橋

 

道の駅「小国ゆうステーション」にある「洋食屋三代目吉井商店」でいただいた、あか牛ハンバーグ。デミグラスソースがかかっていてたいへん美味で、ライス・スープまでセットになって、2,600円でした。同行カメラマンさんのぶんも出したので、結構な出費になってしまいましたが、将来への投資と思うことにしましょう・・・。

 

この道の駅「小国ゆうステーション」は、昭和59年に廃線になった宮原線(みやのはるせん)の鉄道の駅「肥後小国駅」があったわけですが、当時の線路跡がウォーキングコースとして、いまだに残されていることをご存じでしょうか。道の駅・小国をスタート地点として、北里駅跡まで約4kmほど。煙を吐き出しながら力強くSLが走っていた当時を偲びながら、廃線跡を歩いて散歩するのも、ロマンがあっていいんじゃないかな、と思いますよ。

 

 

この写真は、宮原線の鉄道橋として使われていた幸野川橋梁です。前出のウォーキングコースの途中にあります。

 

実はこの橋、現存する構造物としては珍しい、竹筋コンクリートアーチ橋なんですよ!戦時中は鉄は戦略物資として軍に優先的にまわされ、鉄は不足して調達価格も高騰してたことから、鉄筋のかわりに竹筋を用いることがあったといいます。北里柴三郎記念館の近くにある北里橋梁も同様で、いずれも文化庁により登録有形文化財に指定されているものです。

 

 

この宮原線は、どこからどこまでを結んでいたか、ご存じですか?熊本市-小国町間で接続していたと思われるかたが意外に多いんですが、じつは大分県玖珠郡九重町の恵良駅から、阿蘇郡小国町の肥後小国駅間を結ぶ26.6kmが、運行路線だったんですね。森林資源の搬出や観光路線での活躍を期待されましたが、人口の少ない県境を通る路線であることや、他の主要鉄道網とも接続していない盲腸線だったこともあってか、利用がふるわず廃線となりました。

 

 

地元有志により旧宮原線跡地活用検討委員会が設立され、橋梁遺構を地域活性化に生かす取り組みがなされているようです。ただし、現状では現地に看板や説明板なども見当たりません。これが価値のある橋であるとなかなか気づかれないのでは、せっかくの貴重な遺構が、もったいないと思います。看板ひとつあれば、だいぶ違うと思うのですが・・・。

 

鍋ヶ滝~小国郷の裏見の滝

 

松嶋菜々子さんを起用した、KIRINの清涼飲料水「生茶」のCMのロケ地として有名になったのが、この鍋ヶ滝。滝壺の裏側に歩いていくことができる、いわゆる「裏見の滝」の代表的なもので、滝の裏側を歩いて、対岸まで行くことが可能です。

 

 

滝の裏側から撮影したもの。当然ながら、水しぶきがすごい!!なぜだかカップルで来ている人が多く、デートスポットとしても人気のようです。

 

滝の裏側はなんと、幅45m、奥行13mもあります。なお、滝の大きさは幅約20m、高さは10mとなっています。(鍋ヶ滝の観光パンフレットより)

 

 

鍋ヶ滝がここまで整備される前にも、一度訪れたことがありますが、そのときはこのような立派な階段はついていませんでした。きちんと遊歩道が整備されたため、こんな雨の日でも鍋ヶ滝に気軽に訪れることができるようになりました。ありがたいことですね。

 

 

こういった売店も以前はありませんでした。駐車場もきれいに整備されていますし、駐車場には誘導員が4人も配置されていました。付近の道路も昔より拡幅されているようですね。

 

その代わり、入場料が大人300円必要になっていますが、ここまで快適に鍋ヶ滝を堪能できるようになったのですから、整備前には鍋ヶ滝へ行くことがたいへんだったことを考えると、安いものではないかと思います。(なお、小学生と中学生は150円、小学生未満は無料。)

 

 

このような遊歩道が整備される前は、こういったマムシに注意しながら、山の斜面を降りていったのです・・・。滝を見るだけで、軽く命がけでした。

 

 

ただ、遊歩道が整備されたとはいえ、そこそこ高低差もありますし、滑りやすいところも通りますので、足腰の悪いかたはすこし訪れるのが難しい場所かもしれません・・・。

 

 

滝ごしに自然の風景を堪能できるのが鍋ヶ滝の特長ですが、この日はあいにくの雨模様でしたので、水量が多すぎて、滝ごしにあまり風景が見えなくなっていました。

 

撮影をされる場合は、水しぶきでカメラが故障する可能性がありますので、防水対策はしておかれたほうがいいかと思います。

 

 

平成26年9月23日に世界ジオパークに認定された「阿蘇ジオパーク」のひとつになります。この鍋ヶ滝は、阿蘇のカルデラをつくった約9万年前の巨大噴火で出来たと言われています。それが長年浸食を繰り返し、いまの形になっているのですね。

 

 

春限定でライトアップイベントもありますから、そういった機会を狙って来るのも良いですね。平成30年のライトアップはすでに終了しており、今年は3月31日~4月5日まで、18時から21時にかけて行われていましたよ。

 

小国両神社~千両・万両の神様

 

小国郷の総鎮守とされる小国両神社。江戸時代の富くじのエピソードに由来して「千両・万両の神様」と呼ばれておりまして、宝くじ当選祈願に訪れる人も多い、金運のパワースポットとなっています。

 

 

正面の鳥居。三方に鳥居があります。小国郷を開拓した兄弟神、高橋大神(兄神)と火宮大神(弟神)、その母神である雨宮媛命を祭神として祀ってある神社です。

 

 

三神杉。小国両神社に祀られている三神が、仲睦まじく寄り添っているかのよう。神門よりも高く、まっすぐにそびえ立ち、小国郷を見守ってくださいます。

 

 

福銭のエピソードでも知られる小国両神社。かつて境内にあった神護寺で百姓に賽銭を貸したりして多くの人を救ったほか、商家では商いの元手に賽銭を混ぜると万倍返しになると言われており、小銭を借りたそう。これが福銭と呼ばれるものです。

 

 

 

現在、福銭はスタンプラリー形式で行われているようで、福運三社とされる「けやき水源水神様」「小国両神社」「鏡ヶ池」に備え付けてあるスタンプをそろえて、福銭の店に行くと福銭を貸してもらえるシステムになっているようです。(福銭交換店は複数あります。)

 

両神社と富くじ

江戸時代の文政元年(西暦一八一八年)より両神社で「富くじ」を行うことが許された。この頃、宮原上町(現在の一番街)で造り酒屋を営む湊屋橋本順左衛門は、毎朝早起きして井川(現在のけやき水源)で手を洗い身を清め太古から湧き出る水を祀る水神様に自然の恵みを感謝した。そして小国郷の氏神である両神社へ参拝し、天下の太平と商売繁盛を祈ることを日々の勤めとしていた。

 

ある日の朝方、港屋順左衛門は、けやき水源に小さな舟が流れに逆らい入る夢を見た。湊に舟が入ることを吉兆と感じた、順左衛門は富くじを買い、見事に大乙(一番くじ)を当てた。湊屋順左衛門の正夢の話を聞いた、郷内城尾村市郎右衛門は、毎朝一里の道をけやき水源に通い水神様と両神社に「一番くじ」を願って祈り続け心願成就し、両神社富くじと久住宮富くじに四回大乙(一番くじ)を当てたのである。

 

このことから、両神社の高橋宮・火宮の二祭神は「千両・万両の神様」と呼ばれるようになった。その後富くじは年毎に盛んになり、嘉永より安政年間まで十年間に七十六回も行われたと古文書に記載されている。明治維新となり、両神社の富くじは無くなったが、今も祈願者に開運招福を授けてくださるのである。

平成十五年十二月 小国町商工会

 

 

とてもかっこいい、石造りの龍の手水舎。

 

 

地元の総鎮守として、地元に根付いた歴史と格式のある神社という感じで、宝くじ当選祈願の神社特有の派手さはなかったのが、むしろ金運があがり当選しそうな雰囲気がありました。金運パワースポットとして、みなさんもぜひ行かれてみてはいかがでしょうか。

 

穿戸岩(うげといわ)~上色見熊野座神社

 

パワースポットとして最近注目を集めている穿戸岩(うげといわ)。岩山の横っ腹に、鬼八法師が蹴破ったという伝説のある、縦横10mもあろうかという大穴が空いています。

 

巨岩を貫いて大穴が空いているので、困難な目標でも達成できる御利益があるとか・・・!その御利益にあやかろうと、岩肌にはびっしりとお賽銭が貼り付けられていましたよ。(お賽銭箱は別にあるのですけど・・・)

 

 

穿戸岩に登るための登山道は、コンクリートで固められた道が作られるなど整備が進んでおり、以前訪れたときよりは登りやすくなっていました。

 

それでもきつい急坂を延々と登っていかないといけないことには変わりませんので、訪れるさいには、運動靴など動きやすい恰好で、万全の体調で登られてくださいね。

 

 

穿戸岩へ行くには、上色見郵便局の向かいから、上色見熊野座神社の参道を登っていかなくてはなりません。上色見熊野座神社は、伊邪那岐命、伊邪那美命、石君大将軍をお祀りしている神社となります。

 

なお、上色見郵便局の隣の空き地は郵便局の駐車場です。ここに止めると地元のかたにご迷惑がかかりますので、かならず上色見熊野座神社の駐車場をご利用ください。(国道265号を上色見郵便局から80mほど北東に進んだところにあります。)

 

 

誰の仕業か、狛犬に帽子がかけられていました。向かい側の狛犬も、同様に帽子をかぶっていました。なんだか笠地蔵を思い起こしますね。

 

 

100基近くもの灯籠が立ち並ぶ参道。登っても登っても先が見えません・・・。

 

こんな登りやすい綺麗な道がついているのなんて、ここだけです。

 

 

長い長い、あまり整備のされていない苔むした石階段を上っていくと、杉林が深くなり、じつに幻想的な情景となります。この、ほどよく古びた、枯れた趣きは、日本人の美意識としてはとても美しいと感じるのではないでしょうか。

 

夏目友人帳で知られる漫画家・緑川ゆきさん原作の「蛍火の杜へ」の舞台ともなりました。

 

 

260段はあるという石段を登り切ると、上色見熊野座神社が見えますが、ここで参拝がてら小休憩したのち、さらに穿戸岩をめざして上に登っていくことになります。

 

なお当然ですが飲料水の販売などは一切ありませんので、特に夏場は飲み物持参で来られたほうがよろしいかと思います。

 

 

登山道はコンクリートで整備されているとはいえ、とても滑りやすくなっています。そのため、このような竹製の杖が用意されています。

 

 

熊本地震で崩壊した登山道。迂回路が作られていますので、そちらを登ります。ここまでくればあと一息ですね。

 

 

穿戸岩は、参道と神殿からまっすぐ伸びた延長線上にあります。

 

非日常感をより味わうには、晴れた日よりも曇りや雨の日に来たいスポットだと感じました。