天草・島原の乱後、天草は天領となり、鈴木重成という代官が派遣されました。
鈴木重成は、乱後の混迷を極めた天草を復興するため尽力した人物ですが、島民の民心安定と、キリシタンの仏教への転宗をうながすために、寺院も建立しました。その代表的なものの1つが、この明徳寺となります。
十字の彫り物が施されているとされる、石の階段。絵踏みとおなじく、十字架をふみつけて明徳寺へ登るようにしているのでしょう。しかし残念ながら、十字を見つけることができませんでした・・・。他の方の情報では、下から6段目にあった、ということでした。次に訪れるときは注意深く見てみようと思います。
現在、明徳寺のある場所は、かつての本渡城の城域内だと言われますが、本渡城の城域がどの範囲であったかは諸説あります。寺澤藩時代には、郡代所が置かれていた場所でもあります。
天草市指定文化財 明徳寺山門(双聯)
向陽山明徳寺は、正保二年(一六四五)、天草初代代官鈴木重成によって建立され、開山は中華珪法である。楼門は享保二年(一七一七)、三世丹州寿鶴の時に建てられ、文化五年(一八〇八)十世大容素海の時に再建された。天草にある楼門の中で、最も優れたものである。
門扉の両横には双聯が儲けられ、
祖門英師行清規流通佛陀之正法
将家賢臣革弊政芟除耶蘇之邪宗
との銘が残る。キリスト教に替わって、仏教で天草を再建しようとした先人を称えており、祖門英師は中華珪法、将家賢臣は鈴木重成のことを指すと考えられている。双聯からは、天草島原の乱のために混乱した天草を、仏教によって再興しようとする明確な意思がうかがえ、歴史資料として他に類を見ない貴重な文化遺産である。
平成26年3月 天草市教育委員会
どことなく聖母マリア様を思い浮かばせる、子安観世音様。
最初こちらに訪問したとき、他地域にあるものより豪華な造りであるな、と感じました。転宗も目的の1つということで、キリスト教の寺院よりも立派なものでなくてはならなかったのでしょうね。