天草シリーズ第2弾。前回は三角西港でしたが、今回は天草の焼き物がテーマ。熊本の焼き物といえば、小代焼(荒尾・玉名)や高田焼(八代)、網田焼(宇土)などが知られますが、実は天草も、1650年頃から窯業が行われてきた、歴史ある窯業地域なんです!
その中でも、今回は高浜・皿山を起源とする高浜焼をご紹介します。今回はその高浜焼の伝統をうけつぐ「寿芳窯」と、その高浜焼を支えつづけてきた庄屋・上田家の屋敷がまだ現存しておりますので、そちらにもお邪魔させていただきました。
天草でなぜ窯業がさかんになったかといえば、「天草陶石」と呼ばれる、真っ白で良質な陶石が産出されるからなんです。その品質は、平賀源内に「天下無双の上品」と言わしめた質の良さで(「陶器工夫書」の一節)、いまでも有田や瀬戸に高級磁器の白磁原料として利用されています。年間の出荷量は約3万トンにも及び、全国の陶石生産量の8割を占めています。
ちなみに当初は砥石として出荷されていましたが、わずかに鉄塊を含むため刃こぼれの原因となってしまい、砥石としての評価は低かったということです。
天草陶石を用いた高浜焼は、代々、高浜村で庄屋を勤めてきた上田家によって営まれてきました。その高浜焼や、それを営んできた上田家のことを知るための歴史資料館として、上田資料館という建物があります。
寿芳窯の隣に上田庄屋屋敷があり、上田資料館はその敷地内にあります。見学者がいるときだけ開放されるスタイルですので、見学されるときには、寿芳窯の店員さんに入場料を払って、鍵を開けてもらってください。
高浜村皿山で働く人たちのために発行されていた紙幣「皿山札」。皿山地区でしか通用しないものでしたが、贋札防止のために透かしをいれたり、印刷に版木を用いたりしました。季節ごとに金銭と交換することができました。
皿山札は、江戸時代に各地で見られた藩札を見本に作られたようですね。
高浜焼は、長崎の町人が肥前長与の陶工を連れて高浜を訪れたさいに、開窯を提案されたことにはじまるということです。それを受け、当時の高浜村庄屋であった上田伝五右衛門は、村内で協議の上で、富岡の役所へ開窯を願いでました。
もともと天草陶石を村民が農作業のあいまに掘り出し、肥前へ販売していたのですが、陶石は険しい山中にあり搬出がたいへんで、現地に窯をおこして村人に焼き物造りを習わせた方が、よほど村の繁栄につながると考えたようです。
この上田家庄屋宅は、高浜焼をはじめた上田伝五右衛門の息子、7代目当主・上田源太夫宜珍(よしうず)の時代に作られたものです。こちらも見学することができます!(この中にさきほどの上田資料館があります)
600坪の土地に南向きに建てられ、部屋数は約20、居室の広さは約100畳だとのこと。建物内部は老朽化が著しく見学はできませんが、建物外観や庭園を見ることはできます。いちばん広い大広間は17畳もあるそう。
国の有形文化財に主屋、離座敷、表玄関、正門、裏門・塀が登録されていて、昭和7年8月、与謝野鉄幹・晶子夫妻が天草を訪れたときは、離座敷の客房に宿泊されたとのことです。
1815年当時の建物がまだ現存していることに驚きです。中に入ることはできないまでも、こうして外から中をうかがうことは可能ですよ。
屋敷内に船を浮かべられるほどの池が・・・。当時の上田家の力を垣間見るようですね。