国指定史跡・中世宇土城跡(宇土古城)

 

宇土市の西岡台と呼ばれる小高い丘陵(標高39m)にある中世宇土城を今回はご案内いたします。

 

なぜ「中世」などと名前に付けているのか?といえば、宇土城と言われるものは2カ所あるからです。しかも500mほどしか離れていませんので、混同を避けるために、便宜上そう呼ばれるようになりました。

 

 

宇土城東側の虎口(こぐち)。門や柵が復元展示されていました。ここを登り切れば、千畳敷と呼ばれる、主郭(本丸)に到着します。

 

西岡神宮の古い記録によれば、藤原頼通により1048年に築かれたと言われていますが、正確な築城年はわかっていません。宇土氏、名和氏の居城であったとのことです。

 

 

千畳敷を囲っている空堀。遺構保存のためコンクリートで固められています。

 

キリシタン大名・小西行長公により近世宇土城が築かれた16世紀末には、中世宇土城は使われなくなりました。

 

 

千畳敷にある16号建物跡。桁行13.9m、梁行5.0mの掘立柱建物跡です。掘立柱建物とは、素掘りの柱穴に柱を据え付けたもので、瓦が出土しないことから、屋根は板葺きもしくは茅葺きだったと考えられています。

 

 

昭和49年から平成23年度まで計24回におよぶ発掘調査が行われ、千畳敷ではおびただしい数の柱の痕跡が見つかりました。堀に堆積した土の中から、土師質土器や摺鉢、火鉢などの瓦質土器、備前焼や瀬戸焼、中国で焼かれた白磁・青磁・染付などの13~16世紀を中心とする陶磁器が出土しました。

 

 

千畳敷には、古墳時代前期(4世紀)に「首長居館」と呼ばれる豪族の住まいがありました。周囲を大きなV字型の堀で防御しており、敷地の広さは東西約80m、南北約93mと九州の首長居館でも最大規模を誇ります。首長居館の堀からは、生活に使った土師器の壺・甕・高坏などが出土しています。

 

首長居館の建物跡や古墳は、中世の城造りで大規模に土地が削られたために無くなったと考えられています。

(平成24年1月宇土市教育委員会/現地案内板より抜粋引用)

 

 

中世宇土城からの眺め。

 

宇土城は連郭式で、千畳敷のほか、三城と呼ばれる曲輪がありましたが、今回は時間に余裕がありませんでしたので、三城のほうは省略させていただきました。