轟水源は、宇土古城跡から西に1kmの場所にあります。
これを、およそ3kmほど離れた宇土の町まで運ぶ轟泉水道を、寛文3年(1663年)に宇土細川藩初代藩主・細川行孝公が整備しました。
宇土の町は地下水に恵まれず、水質がよくなかったために、昔から名水として知られていた轟水源から水道を引こうと思ったのですね。
驚くべきは、轟泉水道がまだ現役で使われているということなのです。(上記写真)現在でもなお、約90戸の家庭に上水を供給しつづけています。
もっとも、当初使われていた瓦質製樋管では水漏れや濁りがひどくなってきたため、敷設から約100年後の明和八年(1771年)、宇土藩五代藩主・細川興文公が、馬門石製の樋管に改修しております。
馬門石は、約9万年前の阿蘇山大爆発で流出した火砕流が凝結してできた「阿蘇溶結凝灰岩」のうち、宇土市網津町馬門付近で産出するものをそう呼んでいます。
通称「阿蘇ピンク石」と言われており、ピンク色をしているので、これが使われているとすぐに分かります。堆積して冷えたときの条件により、赤みを帯びることになったのだと考えられています。
訪問時は夏休みの真っ盛り。子ども連れの家族が次から次に、水遊びをしたり、水くみをしたりしていました。
水遊びができるこの場所と、上水用の水源とは当然別になっています。
轟泉水道のスタート地点です。
轟水源は、宇土半島の大岳系山塊や白山などを源流とした地下水であり、肥後三轟水と呼ばれていました。湧水量は1日約6千トン、水温は約18度で、お茶に適していると言われています。
轟水源は標高約8m、終着点付近の船場あたりは標高4mなのですから、その高低差はわずか4m。
総延長4.8km、そのうち本管3.5kmとのことですが、勾配をどのように管理していたのか・・・?いまほど精密に高低差を測定できないと思うのですが、当時の土木技術のすごさにうならされますね。
なお水漏れなどの修理には、昔から赤土や貝灰、塩、松枝、松葉の煮汁を混ぜ合わせ、杵でついたガンゼキと言われるものが使われています。
水中でも固まる性質があるため、これは現在でも修繕に使うそうです。