熊本県菊池市には、かつて旧陸軍菊池飛行場がありました。花房台地にあったことから、花房飛行場と呼ばれることもあります。
現在でいう富の原区にて昭和10年に着工し、昭和15年に完成しました。航空通信学校や陸軍病院、気象観測所も併設され、敷地の広さは県内の陸軍飛行場で最大規模の、約150ヘクタールもありました。大戦末期には、沖縄へ向かう航空特攻隊の中継基地となりました。
菊池飛行場の歴史を後世に伝えるべく、泗水町豊水の孔子公園内に地元有志が設立した「菊池飛行場ミュージアム」。(中は撮影禁止のため、外観のみ)
現在でも菊池飛行場戦跡は良好な保存状態で、数多く残されています。しかし、遺構のほとんどが私有地に存在しており、このミュージアムも含め、地元有志により維持されている状況であります。
今回は、「花房飛行場の戦争遺産を未来に伝える会」代表の倉沢泰氏にご案内いただきました。
富の原保育園の園長さんであり、さきほどご紹介した菊池飛行場ミュージアムの館長さんでもあります。戦時中は北九州小倉の高射砲部隊に所属なされていて、終戦後は菊池飛行場跡に開拓団として移住しました。
よくパンフレットなどでも紹介されることの多い高架給水塔。主に飛行隊や陸軍病院の給水施設として昭和15年に設置されました。鉄筋コンクリート製で高さ13.57mあります。終戦後は国立病院の給水施設や入植してきた開拓団の生活用水として利用されました。
軍関係の給水塔は耐震性の問題があり、全国でもわずか10基しか残されていません。ところが、この給水塔は驚くべきことに、外観が保存されているだけでなく、平成19年までは現役で稼働していたとのこと!外壁や柱には、空襲時の機関銃の跡が数十カ所残っています。
給水塔内部。菊池飛行場ガソリン貯蔵庫の扉がなぜかここで保管されていました。
水槽部の直径は7.8m、貯水量は160~180立方メートルあります。取水場所はここより500m東側の台地の下にあり、そこにはポンプ小屋があり、高架給水塔まで配管が敷設されています。通信教育隊側にも同様の高架給水塔がありましたが、こちらは爆撃により現存していません。
道路の脇に、菊池飛行場の正門がありました。正門前には立哨所があり、当番兵が監視していました。
ガソリン貯蔵庫跡。非常に頑丈な作りになっており、当時は上から土を盛り、芝生が植えてありました。数十カ所に機銃掃射の跡が残ります。
戦後は開拓団2世帯の住居として使用されました。
木造大型格納庫基礎。将校専用機の格納庫だったという証言があります。
木造大型格納庫の左側の基礎には、機銃掃射の跡が生々しく残されています。
風呂場・給湯施設なのですが、草に埋もれてほとんど見えませんでした。菊池飛行場戦跡はほとんどが私有地であるため、どうしても管理が行き届きません。
昭和20年5月13日の米軍による空襲で亡くなられた方の慰霊塔の前で、倉沢さんと写真を撮らせていただきました。加来タクシーでも、戦争遺構を伝える活動の一端を担えればと考えております。公共交通機関でまわるのが難しいため、菊池飛行場戦跡をタクシーで見て回りたいというときには、お声がけいただければと思います。