かの細川忠利公を荼毘に付したとされる、熊本市西区春日の「岫雲院」(しゅううんいん)。1071年創建といいますから、実に1000年もの歴史を誇る由緒正しいお寺です。
ただし、春日に古くから在住のかたはご存じかもしれませんが、近年は荒れ果てる一方で、廃墟としか表現のしようのない荒廃ぶりでした。(当時の写真を撮っておけばよかった・・・)ところが、熊本駅新幹線口の区画整理の際に、岫雲院は綺麗に再建されていました!
岫雲院の一角にある、この石垣に囲まれたエリアは、細川忠利公火葬場跡として、市指定史跡になっています。
肥後細川藩初代 細川忠利公火葬場跡
ここに四面を石垣で築いた区画の中に、大小の石塊を積み上げ、その中央頂点に「妙解院殿前越州太守羽林雲五公居市神儀」と彫った石碑が建てられている。岫雲院という名は忠利の命名によると伝えられ、また忠利が生前に、自分が死んだらこの寺で火葬してくれと遺言していたため、寛永十八年三月にその遺骨を荼毘に伏した。そのとき忠利愛育の鷹二羽も同時に殉死したと伝えている。
火葬場跡に建てられた石碑。下の方で真っ二つに割れてしまっています。
細川忠利公火葬場跡を、少し引いたアングルから撮影したものがこちら。熊本震災の影響か、石が崩れています。
火葬場の正面階段がこちらですが、現在は駐車場になっていて、なんとこの階段を使って下に降りることができなくなっています・・・。あとからできた駐車場によって塞がれた恰好なのでしょうが、なんというか、残念なことになっていますね・・・。
こちらは、忠利公がなくなった際に、飼っていた鷹が殉死したとされる井戸。いまでは立派な屋根がついているので、これでは鷹が飛び込み自殺しようにもできないような気がします。
岫雲院春日寺
寛永年九年(1632年)に肥後の国主となった細川忠利は春日寺を再興して岫雲院の名を与えたので、以後は岫雲院が正式の名称となった。忠利の死後、遺言によって遺骸をこの寺で荼毘に付したが、そのとき解き放たれた愛養の二羽の鷹のうち、「有明」は火葬の焔の中に飛び込み、「明石」は傍の井戸の中に飛び込んでともに殉死したという哀れな物語が伝えられている。
森鴎外の「阿部一族」で知られている忠利の殉死者十九名の位牌もこの寺に安置されている。
平成二十八年 熊本市観光政策課
細川忠利公が亡くなったあとは、19人が追い腹を切って殉死しました。その方々の位牌もこちらのお寺に安置されているとのことです(お墓は妙解寺跡、いまの北岡自然公園にあります)。
細川忠利公の殉死にまつわる話としては、「阿部一族」という森鴎外の小説が思い出されますね。忠利公に殉死を許されなかった阿部氏が、他の家臣が次々追い腹を切っていくなか、殉死せずにいままで通り奉公しつづけたことで周囲に責められたので、追い腹を切ったところ、「殉死まかりならぬ」との主君の命にそむいたとみなされて家格を下げられてしまい、ついには藩からの討伐隊に阿部一族が皆殺しにされるという、悲しいお話でした。
※もっとも、阿部一族はあくまで創作ですので、史実とは異なる部分もあるようです。記録では阿部氏は他の殉死者と同じ日に亡くなっているようですし、そもそも殉死の許可を出すのは、亡くなった主君ではなく、それを継ぐ新主君が行うことであり、つまりこのときは忠利を継いだ細川光尚が行うことだということです。そして、殉死者全員に「殉死まかりならぬ」という命が下っていたということでした。