熊本は石橋の宝庫であることを知っていますか。眼鏡橋の96%が九州に分布し、その半数は熊本県にあると言われています(熊本県HP「石橋のふるさと」より引用)。
その理由は、種山石工(たねやまいしく)と呼ばれる技術集団が熊本にあったからなのです。その種山石工の功績を紹介するのが、この東陽石匠館となります。
東陽石匠館(とうようせきしょうかん)
江戸時代後期、下益城郡美里町の霊台橋【弘化4年(1847)完成】や、上益城郡山都町の通潤橋【嘉永7年(1854)完成】などの築造を手がけた石橋の技術者集団「種山石工」の功績を紹介しています。
種山石工の代表的な石工のひとり、橋本勘五郎の生家前に建っており、当時の石材運搬や組み立ての知恵なども学ぶことができます。
鹿児島市の甲突川に架けられた五つの石橋、いわゆる甲突川五石橋【弘化2年(1845)~嘉永2年(1849)にかけてそれぞれ完成】は野津石工岩永三五郎、東京の神田筋違目鑑橋【明治6年(1873)完成】と浅草橋【明治7年(1874)完成】は橋本勘五郎が手がけています。
平成28年3月31日 八代市教育委員会
石匠館の脇を流れる鍛冶屋谷には、林七や橋本勘五郎が研究のためにかけたとされる小さな石橋が5つあります。石匠館は撮影禁止のため写真のご紹介ができませんので、今回はその5つの石橋をご紹介いたします。
谷沿いには遊歩道(鍛冶屋石橋群散策路)が整備されており、往復30分ほどでまわることができます。遊歩道沿いには、橋本勘五郎生家や、橋本勘五郎の墓、林七の墓などもあります。
これは東陽石匠館のいちばん近くにある鍛冶屋下橋(市指定有形文化財、昭和63年3月1日指定)。林七が試しに架けた石橋と伝えられており、技術面で他地域からの影響を受けていないのが特徴と言われています。
石匠館の道向かいにある、橋本勘五郎生誕の地。
種山石工 橋本勘五郎 生誕の地
橋本勘五郎(当初の名は丈八)は、ここ東陽町(旧種山村)西原の地に、石工嘉八の三男として文政五年(1822年)六月に生まれました。
血縁者はほとんど石工で、この一族は県内はもとより九州、東京に数多くの名橋をかけています。
嘉永七年(1854年)竣工した山都町(旧矢部町)の通潤橋の架設にあたっては、石工頭の兄宇一のもとで、丈八は副頭として天才的な技能を発揮し、その技術が認められ明治六年には明治政府から招かれて上京、神田筋違目鑑橋(のちの万世橋)を架設しました。このほか、浅草橋などの名橋を手がけました。
明治七年夏には熊本に帰り、その後熊本市の明八橋、明十橋、菊池市の永山橋、御船町の下鶴橋など多くの眼鏡橋を残しています。
明治三十年八月十五日、七十五歳で勘五郎はこの世を去りましたが、勘五郎の架設した眼鏡橋は一体幾つあったのか、はっきりとはわかっていません。眼鏡橋の美しさは、勘五郎のまじめな人柄そのものであったようです。
熊本県教育委員会は、昭和四十年十一月三日勘五郎を熊本県近代文化功労者として顕彰しています。
東陽まちづくり協議会(現地看板より引用)
鍛冶屋自然石橋(石工/石橋勘五郎、明治28年頃)
看板はあれど、目を皿のようにして探してみましたが、どう見ても石橋のようなものがありませんでしたので、おそらくは流されてしまったのでしょうか・・・?
鍛冶屋中橋(石工/林七、文化年間)
種山石工の祖とされる藤原林七の作。彼は元は長﨑奉行所の役人だったそうで、そのころ出島を訪れたオランダ人から目鑑橋の技術を学びました。しかし、当時は外国人と接するのは掟破りのことでしたので、林七は種山村に逃亡し、身を隠しました。その間に石工の技術を会得し、熊本独自の目鑑橋技術を完成させたと言われています。
鍛冶屋上橋(石工/林七、文化年間)
順路とされるところに金網が張ってあるので入れず・・・。もしかして地震の影響で道が崩れたりしたのでしょうか・・・?
散策路は往復30分といえど、行きは上り坂が続くので、結構たいへんです。見学時間もあわせれば、所要時間としては、1時間は見ておいたほうがいいんじゃないかな・・・。
大久保自然石橋(石工/橋本勘五郎、明治28年頃)
100年以上前に橋本勘五郎が試しに作った石橋が、大雨などでも流されずによくぞ現存しているものだなと、感心しました。
橋本勘五郎の墓碑。
今回ご紹介できませんでしたが、石匠館資料館もたいへん見応えのある資料の宝庫となります。みなさんも、熊本の石橋のふるさとを覗いてみませんか?