女流歌人・桧垣と交流があったことで知られる、肥後国司・清原元輔。三十六歌仙に称される和歌の名人で、そして、かの清少納言の父でもあります。彼は都から肥後守として派遣され、寛和二年から正暦元年まで、肥後を治めていました。それから彼は都に戻ることなく、熊本で生涯を終えました。
都に戻れなかった清原元輔の霊を慰めるために、熊本市西区春日に、彼を祭神とする清原神社があります。交流のあった女流歌人・桧垣もともに祀られております。
ここは北岡神社の飛地境内ということで、北岡神社の境内社という扱いになるそうです。そのせいか、鳥居も祠も、一般的な神社と比べると小振りに作られていました。もともと北岡神社本社の敷地内にあったのですが、それが飛び地となっている理由としては、北岡神社本社と清原神社の間に道路が建設されたからとのこと。もともとはこの辺一帯は境内内の茶畑であったそうです。
なお、祇園社(いまの北岡神社)が1647年にこの北岡の地に移ってきたのですが、そのときに清原神社もこの地に移設されたということです。
清原神社の木碑。
そして右に見える手水鉢には、「奉寄進石盥 元文四年 呉服一丁目」と刻まれており、清原神社の歴史の長さを物語っています。
住宅地にひっそりとあるために、地元の人でも存在を知らないのではないかなあ・・・と思われます。特に案内看板があるわけでもないですので。
拝殿再建碑。大正十三年七月建とあります。なにかの原因で拝殿が損壊していたのでしょう。
清原公民館も境内内に併設されていました。
余談ですが、北岡神社は熊本城を見下ろすことができるとして、西南戦争時には薩軍の本営が設けられていた時期もございまして、境内内に「西郷隆盛先生本営の跡」なる石碑もたっていますよ。(やがて政府軍の砲撃により二本木に退くことになります。)