歴史公園鞠智城(きくちじょう)・温故創生館

 

今回ご紹介させていただく鞠智城(きくちじょう・くくちのき)は、朝鮮式山城という方式の古代山城です。戦国時代に活躍した日本式のお城とは異なり、朝鮮によってもたらされた築城技術を用いているのが特徴です。

 

まずは、鞠智城の資料館である、温故創生館にお邪魔しました。

 

 

鞠智城イメージキャラクターのころう君がお出迎え。なかなか可愛らしいデザインです。鞠智城内には、国内の古代山城で類を見ない、4つもの八角形鼓楼跡が見つかっていまして、それから名前を取ったのだろうと思います。

 

 

八角形鼓楼の模型です。日本ではまず八角形という形状の建築物は見られませんので、当時同盟関係のあった、百済の朝鮮人からの指導があったものと思われます。その特別な形状から、見張り台として用いられたのか、太鼓などで時を知らせる役割があったのではないかと考えられています。(イベントで、ころう君がそう言っていました。)

 

 

古代山城は大別すると、「朝鮮式山城」「神籠石式(こうごいししき)山城」の2つにわかれます。分け方は、日本書紀や続日本紀などに記載があったかどうか、という1点のみです。鞠智城は、続日本紀に記載がありますので、朝鮮式山城となります。(「大宰府をして大野、基肄、鞠智の三城を繕治せしむ」)

 

いずれも外国勢の侵略からの防衛拠点として作られたのだと考えられていますが、神籠石式はこれほど大規模な土木工事、しかも防衛拠点の整備という国家プロジェクトであるにもかかわらず、日本書紀などに記載がないというのは、とても不思議な感じがします。そのため、長年にわたって、神籠石式山城は、「霊域説」と「山城説」にわかれて議論されてきました(神籠石論争といいます)。いまでは、山城説が定説となっています。

 

古代山城は、熊本城のような戦国時代に活躍した日本のお城とは違い、国家をあげて整備したものであるという点が特徴です。鞠智城は大宰府の防衛のための兵站基地としての役割があったのだと考えられます。

 

 

ではなぜ、古代山城のごとき対海外の防衛拠点が当時必要だったのでしょうか。

 

長年、倭国の同盟国であった百済は、660年に唐・新羅連合軍に滅ぼされたわけですが、その滅亡した百済残党による百済復興運動に援軍を派遣したのです。その結果、白村江(はくすきのえ)の戦いで、百済残党と倭国の連合軍は大敗してしまいました。

 

その結果、倭国は唐・新羅による追撃を懸念しなくてはならなくなったわけです。国史上はじめて、日本は海外からの脅威にさらされることになります。これにあわてた大和朝廷は、大宰府防衛のため古代山城の築城をすすめ、烽火(のろし)を用いた通信手段を整備し、防人を東日本から九州に派遣したのです。

 

 

古代山城サミットでは、当時の主要な通信手段であった烽火(のろし)を用いたリレーを行いました。

 

 

2011年に行われたリレーでは、大宰府から鞠智城までの100kmを、わずか47分でつなぎました。

 

 

館内では、ころう君とくまモンのツーショット写真がたくさん展示されていました。

 

 

ころう君は週1回ほど館内に登場するようですが、今回はその日程ではなかったので、実際に見ることはできませんでした。どうしても会いたいという方は、事前に確認したほうがよさそうですね。

 

 

2Fは展示スペースとなっていました。復元された八角形鼓楼や米倉、兵舎が一望できます。朝鮮式の城は非常に広大な敷地を持つために、時間的制約もありましたので、城跡を歩いてまわるのは断念しました。家族で子どもさんを連れて、ハイキングがてら歩き回るといいんじゃないかな、と思います。

 

 

貯水池で見つかった菩薩立像。左が発見当時のもののレプリカ、左が当時の状態を復元したものです。なんのために貯水池に沈んでいたのかは、まだわかっていません。

 

 

鞠智城のことがわかるショートムービーの上映もされています。

 

 

そうそう、刀剣女子に人気の同田貫正国(模造刀)の展示もありましたよ。鞠智城とは時代がかなり違うのでは?と首をひねりましたが、同田貫はこの鞠智城跡のすぐ東側の、稗方地区で作られていたために、特別に展示しているそうでした。

 

 

古代山城は時代が1300年も遡るために、わからないことも多く、建物も現存しておらず、研究途上のようでしたが、発見された当時の遺物・遺構をつなぎあわせ、当時の姿を考えてみるのもいいなと思いましたよ。