松濱軒(しょうひんけん)は、元禄元年(1688年)に建立された大名庭園で、八代城代の松井直之が母の崇芳院尼のために作ったものだと言われています。
松井家は肥後藩主細川家の筆頭家老で、第三代城代となった松井興長以降、第十二代城代・松井盈之に至るまで、長らく八代城代を任されていました。熊本城の支城である八代城は、一国一城令のあとも特別に残すことを許された、例外的な存在でした。
干拓されるまではこの辺までが海であり、海岸沿いの庭園でありました。松林越しに八代海が望める雄大な眺望の庭園であり、松濱軒という名前もここから由来しています。
現在では干拓により海岸が遠くなり、松林も枯れてしまいましたが、江戸時代の見事な大名庭園が、現代までこのようにして良好に保存されているのが素晴らしいと思います。平成14年に国の名勝に指定されました。
受付のすぐ隣が展示室になっていて、松井家所属の茶器等の数々を見ることができました。(撮影禁止のため、中の写真はありません。)
松井家初代の康之は、わび茶で知られる千利休の高弟でした。さらに言うなら、康之が仕えた細川忠興は利休七哲のひとりに数えられる大名茶人。そのため、肥後国では肥後古流と呼ばれる武家茶道が伝えられてきたのです。
松濱軒
1688(元禄元)年、黄檗宗・慈福寺跡に、八代城主・松井直之が母・崇芳院のためにつくった御茶屋。保養所、客屋、避難所としても機能し、1873(明治6)年以降は松井家の住宅となる。昭和の一時期に旅館としても活用された。
1793(寛政5)年、肥後藩茶道方・小堀詮順により庭園は大改修された。主屋・書院棟はこれ以前の建築・鉤型で、書院・白菊の間が赤女ヶ池の州浜に突出する。ここからは中島と、かつては遠景に雲仙を望むことができた。白菊の間には床・違棚・書院・板絵のある板戸があり、雪の間(旧次の間)には置床、花の間(旧茶室)には茶湯棚がある。
1871(明治4)年頃に玄関棟など、その後、2階建の新居間棟を増築。新居間棟の角に三畳台目の茶室がある。またこの頃新居間棟西に、麓御茶屋を移築し茶室・林鹿庵とする。
1949(昭和24)年、昭和天皇宿泊時に玄関棟を南に曳き家し、その場所に大広間棟を増築、東に冠木門を設けた。大広間棟主室には一間半の畳床があり、次の間は能舞台としても使用された。玄関棟は唐破風で鬼瓦・掛巴・拝懸魚に松井家紋がある。冠木門付近の塀は板塀瓦とする。
また蔵が3棟並ぶ北西のエリアには、以前花火を作っていた棟があり、これを現在、綴玉軒という茶室としている。
(現地案内板から引用)
伏見の稲荷大明神を勧請した稲荷社もありました。
古くからあった赤女ヶ池、赤女ヶ森がそのまま庭園に取り入れてあるとのことです。
児宮鎮座記
宇土の細川家は代々早死にする人が多かったので、六代目興文公が神様を御信仰になりたいと思召して宇土三之宮の宮司三宮能登にお計りになりお庭の中に児宮明神をお祀りになりました。
すると其の後は御子様型方が皆々お元気にお育ちになり、天然痘の大流行の折りも皆様御無事であったと云う事です。この噂が一般にひろがり遠くの大名、小名までその御神徳を恭って疱瘡の難にかからぬ様お詣りに来たと言う事であります。
八代城主六代營之公も此の話をきかれ児宮明神をお祀りしたいと思召されていたところ、天明元年(一七八一)正月十日夜ごと御雲移が行はれると言ふ報せがあったので、西垣政萬と云う人が使いに立ち宇土三之宮に詣で御神霊を移した宝珠を捧げて翌十一日八代城に帰って来ました。營之公は直ちに御自身、祠にお移しになりました。大正の初め頃まで疱瘡除けに児宮の〆縄を頂きに来る人が多かったと申します。
(現地案内板より引用)
1949年(昭和24年)に、昭和天皇ご夫妻が熊本に巡幸したときには、こちらが宿泊所になりました。
八代城と歩いて行けるほどの距離にありますので、八代城、八代宮、臥龍梅、松浜軒あたりはセットでご覧いただくのをオススメいたします。