玉名市の平野部は、いまでは熊本の一大穀倉地帯となっていますが、その平野部は実は江戸時代から行われてきた干拓事業により生まれたものです。菊池川流域で75カ所もの干拓地が開かれました。
明治26年に築堤された、この明丑(めいちゅう)堤防は、その一連の干拓事業の遺構の1つ。国営横島干拓による潮止工事が完了してからは第一線堤防としての役割がなくなり、以降の近代的な改修を受けなかったため、当時の姿を良好に保存した遺構となっています。
加藤清正公は肥後入国後、領地を視察し、菊池川の流路をつけかえて潮受け堤防を築くことができれば、広大な領地を造成できると考えました。天正17年(肥後入国の翌年)には、さっそく工事に着手しました。
その清正公の築いた潮止堤防(石塘)の近くに、加藤神社が建立されました。
加藤神社
当社の祭神は加藤清正公である。熊本の領主となった清正公は、玉名平野を流れる菊池川河口一帯の広大な洲や干潟に着目し、これを水田化するために大々的な河川改修工事を行った。
その最終工事として困難を極めた石塘の築堤が、以後の横島発展の礎となったのである。
後世、村民が深くその遺徳を偲び、明治三年、清正公の遺像を石の祠に納めここに安置した。その後明治二十五年に社殿を建築し、現在に至っている。
平成二十年四月 横島校区まちづくり委員会(引用)
横島丘陵と久島山を結ぶ潮受け堤防は、長さ380mほどですが、激流のために造っては壊れを繰り返し、工事が難航したようで、ついには人柱を建ててようやく工事を完了させました。
ようやく慶長10年に完成し、小田牟田新地として、新たに約880町歩の土地が造られました。
潮受け堤防付近は、現在では石塘史跡公園として整備されていて、加藤清正公の造った石塘を間近で見ることができます。
石塘
往時菊池川の主流は横島山と久島山間を流れていた。加藤清正は菊池川の水路変更と石塘築堤によって、数百町歩の耕地が出来ることに着眼し、天正十七年(一五八九年)工を起し十七年間の歳月をついやし、慶長十年(一六〇五年)これを完成した。その間、横島久島間約四〇〇米の築堤は最も難工事で人柱と読経の加護によって築かれたと言い伝えられている。
人柱の跡
加藤清正公の小田牟田新地干陸で最も困難だったのは石塘の潮止工事であった。築いては幾度となくこわれるので人力では如何ともしがたく、古例にならって人柱を入れ、横島山頂より読経して潮止に成功したと言う。
その場所がここであると伝えられる。この築堤に当たり多数の犠牲者と人柱に立った人の霊を祀ったのが大園にある本田大明神である。
横島町教育委員会/横島町文化保存顕彰会(引用)
加藤清正公による菊池川流路変更の前は、菊池川本流であったとされる唐人川。
いまでは、当時人柱を立てたほどの激流であったことが嘘のように、川の流れ方がおだやかです。