大河ドラマで知られるようになった「篤姫」さまが、江戸参府においてご休憩なされたということで、一躍注目されるようになったのがここ、御馬下の角小屋(みまげのかどごや)です。国道3号沿い(四方寄町)にありますので、熊本の人でしたら、中に入ったことはなくても、一度はこの通りを通ったことはあるのではないでしょうか。
御馬下(みまげ)とは、このあたりの古い地名で、いまでもバス停などでその名を見ることができます。
ドラマでは篤姫様ご一行は、瀬戸内海を海路で進んだことになっているのですが、実際には陸路を進んだと思われる古い記録が見つかっているのだそうです。そして、1853年8月29日に御馬下の角小屋に立ち寄り、この「御成りの間」(おなりのま)にて、ご休憩なされたということです。
御成の間の説明書き。篤姫様のみならず、豊前街道(ぶぜんかいどう)を参勤交代で通るお殿様などが、ご休憩のために立ち寄られています。
嘉永5年(1853年)8月29日に薩摩島津の篤姫が立ち寄り、休息したといわれる部屋です。この年の6月には、浦賀沖にペリーが開国を求めて黒船4隻を率いてやってきています。
手前が高貴な方がお休みになられる御成の間、奥が、次の間です。
篤姫さまが立ち寄った日は、残暑の厳しい夏の時期であり、スイカを食べたがられて、たくさんのスイカをお召し上がりになったそうです。
殿様専用の便所です。糞尿を受ける壺などはなく、くり抜いた床の下に置かれた砂箱を毎回交換するという方式です。この仕様になっているのは大きな理由がありまして、下手に糞尿受けなど置こうものなら、暗殺者などがそこに潜むなどということができてしまうからですね。
この便所は、殿様専用の便所です。便所の下には砂を厚く敷きつめた砂箱が置いてあります。
殿様は、この砂の上に便をされました。大便はそのたびごとに、ご典医が調べたそうです。
なお、便所の横には、常に警護の武士が待機していたとのことです。
殿様が便所を利用されている間、警護の武士が待機していた場所です。この下の隙間から、砂箱を取り出しました。
実はこの屋敷、旅籠(はたご)ではありません。問屋と質屋を営んでいた、庄屋の堀内家のお屋敷なのです。とても立派な屋敷であるがゆえ、お殿様などが参勤交代でお休みになるときに利用されていたということなのです。
篤姫さまがお召し上がりになったスイカを冷やしたと言われる井戸。熊本水遺産に指定されています。
質屋や問屋を営んでいたときの古道具なども数多く所蔵されており、しかもガラスケースにも入っておらず触れることもできますから、こういった古道具が好きな人にはたまらないのでは・・・と思います。
いまでいうところの、手提げ金庫についてるコインカウンターでしょうか。お金を素早く正確に数えるためにこんな道具があったんですね。
大福帳。商家での売り買いを記録した帳面です。
さおばかり。このほか、とても紹介しきれないほど多くのものがありますので、あとは実際に訪れて見てください。古道具を歴史ロマンにひたりつつ、味わってみはじめようものなら、ここは1日かかっても堪能しきれません。
日本初の落下傘部隊隊長である、堀内家最後の当主、堀内豊秋氏に関しての資料も数多く収蔵されているのですが、それはまた次回。