キリスト教伝来以降、日本各地に南蛮風の教会堂がたくさん建てられました。残念ながら、徳川幕府の禁教政策により破壊され、現存するものは1つもありませんが、日本人の大工が建てたこともあり、仏教寺院風の建物だったと言われています。
天草市上津浦には南蛮寺跡とされる史跡がありますが、現在は同じ場所に曹洞宗寺院である正覚寺が建っています。
南蛮寺は天草五人衆のひとり、上津浦種直こと、ドン=ホクロンが建立したといわれています。最盛期は3500人を超える信徒が、上津浦城主の庇護のもとにキリシタンに帰依し、宣教師もそこに駐在していたそうです。
昭和60年の本堂改修工事のさいに、床下よりキリシタン墓碑が多く見つかり、ここが南蛮寺跡であったことがわかりました。
かまぼこ型の墓碑には、干十字とIHSの文字が見えます。
IHSはイエズス会の略紋章で、「イエス」をギリシア語で表記したときの「Ihsouz Xristoz」の最初の3文字をとっているそうです。
IHSが刻まれているキリシタン墓碑は日本に3例しか確認されていない珍しいものです。
上津浦南蛮寺とキリシタン墓碑
天草五人衆に列する豪族上津浦種直が、キリシタン宗門に帰依し、洗礼名ドン・ホクロンを名のったのは、宇土城主ドン。アウグスチノ小西行長に服属していた天正十八年(一五九〇)のことである。かくしてこの地には、南蛮寺が建立され、全領民の間に信仰の火が燃えひろがった。
しかし、慶長十九年(一六一四)徳川家康のバテレン大追放令により、マルコス・フェラロ神父が、救世使天草四郎の出生を予言した「末鑑の書」を残してマカオに去り、南蛮寺は破壊されてしまう。
しかし寛永十四年(一六三七)上津浦古城を前進拠点として天草の乱がおこり、近郷近在は荒廃をきわめる「亡所」と化してしまった。
乱平定後、天草の再建策をすすめる名代官鈴木重成は、仏教による邪教根絶と民心安定を念願し、南蛮寺跡に圓明山正覚寺を創建した。正保三年(一六四六)のことである。以来、三百三十九年の歳月をけみした昭和六十年一月十七日、住職亀子俊道師が大改築のため本堂を解体したところ、ここに展示する扁平型、自然石型、かまぼこ形、以上三様式のキリシタン墓碑基が、その床下から出現したのである。
かもぼこ型二基の正面には、イエズス会の略紋章を示す「IHS」の文字と十字架がきり刻まれている。十字架はいわゆる干(かん)十字。その左右には人名と没年月がみられれう彫込みを有するが、のみか何かで人為的に削り取られ判読困難である。
それでも、ながいながい眠りから醒めたキリシタン墓碑は、見る者に、偉大だった天草の世紀を語りかけてやまない。(墓碑の説明文から引用)
正覚寺のナギ(天草市指定文化財・市-165、平成24年7月2日指定)
キリスト教宣教師コエリヨが植え付けたといわれるため、南蛮樹とも呼ばれる樹齢400年のナギの木。まっすぐに天に伸びた姿がとても美しいです。
正覚寺山門。
参道はわりと長く、足場も悪いため、ご来場の際は、山門脇の道からさらに上に登り、直接境内内に車を入れると楽ですよ。