北里柴三郎と聞いて、その名を知らない日本人はいないと思います。世界で初めて血清療法を確立し、ペスト菌を発見するなどして、日本細菌学の父と言われている医学博士です。
ところが、北里柴三郎が熊本出身(小国町)であることはほとんど知られていないと思います。今回は、その北里柴三郎記念館をご紹介いたします。
平成28年に設立100周年を迎えた北里文庫。私財1万円余を投じて、北里柴三郎が郷里の学生たちのために設立をしました。
もとは北里文庫と貴賓館だけがあったこの敷地内には、現在では博士の生家の一部も移設されております。当時は坂下屋敷と称し、もともとは記念館南側の集落内にあったといいます。明治28年に両親を東京に呼んで空き屋となったため、座敷二間をのぞいて取り壊されました。現存するのはその一部となります。
貴賓館前の広場。北里柴三郎先生の銅像が設置されています。熊本医学校時代にオランダ人教師、マンスフェルトとの出会いにより、北里柴三郎先生は医学の道に本格的に進んでいくことになります。マンスフェルトからは解剖学や生理学など、さまざまな医学知識を学んだと言われています。
より専門的な医学知識を身につけるために進学した東京医学校では、医学知識が豊富であったため、教授の論文に口だしするなどして学校との折り合いが悪く、留年を繰り返すことになったそうです。それでも明治16年に医学士となりました。
北里柴三郎記念館入り口。真っ先に来場者を迎えるのは、北里先生が愛用した顕微鏡です。
北里柴三郎先生は東京医学校を卒業後、内務省衛生局に勤務することとなります。ここで当時、東大教授兼衛生局試験所所長を勤めていた東京医学校時代の同期、緒方正規のはからいにより、国の留学生として、ドイツのベルリン大学に留学することとなります。ここで、結核菌の発見者であるローベルト・コッホに師事することとなります。
ベルリン大学時代には、1889年、世界初となる破傷風菌純粋培養法に成功。翌1890年には破傷風菌抗毒素を発見し、功績をあげました。また、弱毒化・無毒化した菌体をすこしづつ動物に注射して抗体を作り出し、その血清を患者に投与するという血清療法も、北里先生が世界で初めて開発したものです。
1890年には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表し、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補となりました。結果として、ジフテリアについて単独名で論文を別に発表していたベーリングだけが評価され、ノーベル生理学・医学賞を受賞することとなり、北里柴三郎先生は受賞することがありませんでした。
この時代にはまだ共同受賞という考え方がなかったこと、また、選考にあたったカロリンスカ研究所が、北里柴三郎先生は実験結果を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリングが考えたものだと見なしたということがあるようです。受賞できなかったのは、日本人であることによる人種差別的なことではなかったものと考えられています。
さきほどの論文により医学界では大いに評価され、多くの欧州の各研究機関からスカウトが殺到したということです。しかし、北里柴三郎先生は、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制を改善することと、伝染病の脅威から日本国民を守ることであると、すべてスカウトを断り、日本に帰国しました。
帰国したのち、北里柴三郎先生は感染症の研究機関設立を目指しますが、東大医学部との対立をしていたために、政府への訴えは無視されてしまいました。
なぜ東大医学部との対立をまねいたかというと、それはドイツ滞在中に発表した論文に起因します。脚気の原因について、細菌が原因であるとした東大教授・緒方正規の説に否定的な見解を論文で示したことで、「恩知らず」とみなされ、対立関係になってしまったということです。
この状況を打破することになったのは、福沢諭吉でした。
彼が私財を援助することで、北里柴三郎先生は私立伝染病研究所を設立することができ、初代所長として就任することとなりました。私立伝染病研究所はのちに国に寄付され、内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)となりました。ここで北里柴三郎先生は伝染病予防と細菌について研究に打ち込みました。
明治27年にはペストが流行する香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見する功績をあげました。日本では何度もペスト流行の兆しがあったそうですが、北里柴三郎先生が感染症予防の必要性を政府にうったえかけていたため、日本で流行することはありませんでした。
北里研究所創立五十周年記念のメダル。
北里先生の功績がよくわかる記念館になっており、今回紹介できなかった貴賓館までもじっくり見ますと、それこそ一日費やせるほどに見応えのある施設です。熊本出自の偉人の功績にぜひ触れてみてくださいね。