補陀落渡海供養塔附石塔群~生きては戻れぬ捨て身行

 

補陀落渡海(ふだらくとかい)という捨て身行があることを、ご存じでしょうか。

 

観音菩薩の住処があるという南方の海の果て、「補陀落世界」を目指して、行者が、帆や艪(ろ)といった動力をなにも持たない木船に乗り込み、船出をするというものです。

 

船出といっても、沖まで曳航して切り離し、あとは海を漂うだけですので、生きて帰ることはありませんでした。なかには、自発的なものだけでなく、なかには他人から強制されて流された者もいたらしいです。船室は外に出られぬよう釘が打ち付けられ、灯火のための油と、30日分の食料だけ持たされたということです。

 

 

この、補陀落渡海での航海の安全と、大願成就を祈願した石碑が、玉名市繋根木(はねぎ)の稲荷神社(繁根木八幡宮)にあります。つまり、玉名市を出発地として行われた補陀落渡海があったというわけですね。この石碑は西光坊が施主となって建立されたという記録が残っています。

 

肥後藩からの補陀落渡海は2例記録に残っており、ここ繁根木八幡宮のほか、もう1つは玉名市伊倉北方の報恩寺跡にもそのような石碑があるそうです(県指定重要文化財)。

 

 

写真の右側の石板が、補陀落渡海碑です。石碑の表面には、日、月、中央に阿弥陀、観音、勢至の阿弥陀三尊の線刻と、刻文があります。表面が風雨に削られ、わかりづらいと思いますので拡大してみましたが、それでもかなり分かりづらいですね。

 

なお、阿弥陀三尊の簡単な見分け方ですが、真ん中におわすのが阿弥陀菩薩、髻(もとどり)の正面に阿弥陀の化仏がおわすのが観音菩薩、髻の正面に水瓶があるのが勢至菩薩です。注意深く見分けてみてください。

 

 

玉名市指定重要文化財

補陀落渡海碑並びに宝塔塔身(昭和三十七年三月三十一日)

三基の板碑と一基の宝塔塔身があるが、これらの石造物のうち、向かって右側の阿弥陀三尊来迎図を刻んだ板碑が補陀落渡海碑である。

補陀落渡海とは、海上にあるとされる観音信仰における補陀落浄土を目指して往生(船出)することで、その供養として立てられたのが補陀落渡海碑である。

この補陀落渡海碑は、永禄十一年(一五六八)十一月十八日に、下野国の弘円上人、駿河国の善心、遠江国の道円らが補陀落渡海したのにちなみ、西光坊が施主となって建立したもので、現存の補陀落渡海碑は、本市の伊倉本堂山及び大阪府泉南市の一基、計三基だけである。

この補陀落渡海碑と並ぶ板碑二基の左端に、永禄四年(一二六七)銘の宝塔塔身がある。

平成九年三月 玉名市教育委員会

 

 

 

補陀落渡海碑がある稲荷神社ですが、実は稲荷山古墳の上に建っています。ただし、石碑の碑文にも記載されていますが、寿福寺の境内とするため削平したりしたため、いまとなっては外見上これが古墳だと判別できる人はほとんどいないと思います。(寿福寺は明治の廃仏毀釈により廃寺となりました。)

 

寿福寺は、このときの補陀落渡海を行った3人の渡海僧である、弘円上人(下野国)、善心上人(駿河)、道円上人(遠江)が身を寄せたお寺でもあります。そのあと、松の木川から出航しました。

 

史跡 稲荷山古墳

西暦六世紀頃この地に全長百米を超える玉名最大の前方後円墳が営まれた。この地点より東が後円部で西が前方部である。

後円部は中世寿福寺の境内となって削平されたので明らかでないが、前方部は葺石に覆われ、朝顔型を含む埴輪円筒列が二列めぐっていた。

縄文式時代の貝塚が南一帯にあり、弥生式末期の竪穴住居址が古墳の下から発見された。

また、奈良時代には立願寺瓦と同一の瓦を持つ薬師堂がその前方部に建立された。鎌倉時代大野荘の鎮守繁根木八幡宮が移建され、寿福寺はその神宮寺となり、室町時代には末社の稲荷堂がこの地にあった。

ここに並ぶ古墳碑は寿福寺境内にあったもので、特に永禄十一年(一五六八年)の板碑は観音の浄土である補陀落山へ入水往生し永遠の安楽を求めようとした熱烈な信仰を示す補陀落渡海碑で全国に珍しいものである。

昭和三十五年都市計画のため古墳の現状を変更するに当り学術調査を行い、諸事実を明らかにすることができたので、ここに碑を建訤する次第である。

昭和三十七年六月 玉名市

 

 

この補陀落渡海の習慣は江戸時代まで続きますが、末期になると、希望者がいなくなったため、すでに亡くなった人を流すという水葬の形に変わっていったそうです。