人吉城歴史館~相良清兵衛屋敷の謎の地下室

 

人吉城歴史館では、人吉城や相良藩の歴史を学べるのはもちろん、最大の見どころは全国的にも珍しい、水が湧き出る謎の地下室

 

平成9年の発掘調査で見つかったという謎の地下空間、それが相良清兵衛という家老屋敷の地下にあったということまでは判明していますが、それが何のために作られたのかは、はっきりしていません。

 

 

普段は施錠されていますが、職員さんに声がけをすると鍵を開けてくれて、ガイダンスに来てくださいます。

 

この地下室の謎の判明が難しい原因は、まずこの件に触れた古文書や古記録がないこと。また、全国の発掘調査でもこの地下室と同様の構造を持つ地下室が発見されていないこと。

 

そこで、地下室底で見つかったスギの板材に対し、放射性炭素年代測定法を用いて、このスギが伐採された年代値を算定することで、地下室が作られた年代を探ろうと試みられました。この結果、スギの年代が分かり、その時代にその地下室が発見された敷地を使用していた相良清兵衛の地下室であろう、ということになったようです。

 

 

6m四方の大きさで、深さは約3.2m。布目積みという石積み方法で、出入り用の階段が2つあります。

 

相良清兵衛屋敷は、寛永十七年の「お下の乱(おしものらん)」によって消失していますが、「お下の乱絵図」によれば、屋敷内にあった持仏堂の地下室である可能性が高いとのことです。お下の乱のときは、この持仏堂は犬童半兵衛一派の隠れ場所になったそうです。

 

 

床の一角には途中まで石段がついた水深2.3mのおおきな井戸。この井戸の底からは、刀が出土しています。

 

用途はいまだ断定されておらず、貯水場、井戸、風呂場、キリシタンに関する施設、沐浴の施設など、さまざまな説が唱えられていますがどれも断定には至っていません。

 

持仏堂の地下にあったことから、持仏堂の護摩祈祷に関連する行水、沐浴といった何らかの宗教行為を行う場所であった可能性もあります。

 

 

この地下室の発見後、相良清兵衛の嫡男である内蔵助の屋敷跡からも、同様の石組の地下室が見つかりました。この地下室は、清兵衛の地下室の東に120mほどの場所に位置しています。

 

 

地下室遺構から出土した石造物群。

 

相良清兵衛は、相良家第20代当主相良長毎から相良の姓を与えられるほど、相良藩に貢献し活躍した人物ですが、あまりに権力を持ちすぎて、人吉藩主さえないがしろにするような行動が見られるようになり、次第に人吉藩主との折り合いが悪くなっていきました。

 

 

その後、第20代当主長毎の死後、第21代藩主頼寛に「清兵衛に専横の振る舞いがある」と幕府に訴えられ、江戸に召喚されることになります。これは第20代当主が遺言で、「清兵衛の横暴が振る舞いが目に余るので、機を見て罰せよ」と指示していたことを受けてのものです。

 

その間、人吉で相良清兵衛の息子、犬童半兵衛を中心とする一族に謀反の嫌疑をかけられ、一族121人が殺害され、もしくは自害するというお下の乱が起こりました。

 

相良清兵衛は幕府評定所で数回にわたる審議をうけ、その結果、津軽弘前藩への流罪が決定しました。その後16年間弘前で生活したのちに人生を終えました。

 

 

地下室遺構以外にも展示はたくさんありますよ!

 

内蔵助の屋敷跡の地下室もすぐ近くですので、いっしょに寄っていかれるといいですよ。