西南戦争では、田原坂が激戦地として知られますが、もう1つの激戦地が、この吉次峠でした。
吉次峠は、田原坂と共に、熊本城方面へ増援に向かう官軍にとって、交通の要衝となるからで、薩軍の主力部隊も田原坂と吉次峠に置かれました。
薩軍・熊本隊の佐々友房の評では、『吉次峠は城北唯一の要害。もしここを失えば拠って立つ所無く、十の西郷あるも熊本城の包囲を保つ事は難しい』と言わしめました。
吉次峠での薩軍の苦戦を察知し、3月4日、二番大隊隊長・村田新八とともに、手勢を率いてかけつけたのが、一番大隊隊長・篠原国幹(しのはらくにもと)でした。
篠原隊は三ノ岳、村田隊は半高山山頂に陣取り、吉次峠を占領すべく進撃してくる政府軍・野津大佐隊を挟撃しました。
篠原国幹は弾丸飛び交う中、士気高揚のため、姿勢を低くすることもせずに陣頭指揮を執りました。
しかも、その出で立ちは、銀色の太刀と緋色の外套といった、戦場ではひときわ目立つもの。それが篠原だとわかった同郷の政府軍・江田少佐が狙撃を命じて、六本楠で胸を撃たれて即死しました。
篠原が倒れたのち、薩軍はひるむどころか復讐心をたぎらせ政府軍を撃退、政府軍指揮官の野津大佐は弾丸を2発受け負傷、狙撃を命じた江田少佐もここで戦死しています。
この日以降、政府軍兵士は吉次峠のことを”地獄峠”と呼ぶようになったと言われています。
田原坂駅のすぐ西側に位置する、横平山の慰霊碑。時代のうねりに飲み込まれ、両軍ともに互いの正義を信じて大勢の若者の命が失われました。
かつては横平山に車で登るには、かなりの悪路を進む必要がありましたが、観光地としての整備が進んでいるようで、だいぶ道も整備されてきていますね。
西南戦争史跡は場所が分かりづらいところが多く、悪路も多いので、史跡訪問の際には観光ガイドタクシーのご利用をお勧めいたしますよ。