海軍体操の創始者・堀内豊秋海軍大佐(御馬下の角小屋資料館)

 

御馬下の角小屋資料館では、堀内家最後の当主となった、海軍大佐・堀内豊秋(ほりうちとよあき)氏の資料も数多く展示されていました。堀内式海軍体操の考案者で、日本初の落下傘部隊の隊長でもありました。

 

 

資料館にある堀内豊秋氏の展示物は、もともとは御馬下の角小屋の2Fにあったものでした。ですが、ごらんの通り、古い日本家屋特有の急階段、ご年配のかたなどが上るのがとても大変だということで、2Fにある展示物の一部を資料館に下ろしたり、複製品を資料館で展示したりしているそうです。

 

 

御馬下の角小屋の間取り図です。茶の間の階段からあがった2Fが、堀内豊秋氏の記念館になっています。

 

 

オランダ領インドネシアのメナドを落下傘部隊で制圧し、オランダ軍に従属させられていたインドネシア人を解放しました。メナド制圧後、堀内はそのままインドネシアで現地司令官として軍政を敷きますが、「女子供には手を出すな、弱い者いじめをするな」という信念のもと、善政を敷いたので、とても住民に慕われたということです。

 

海軍大佐 堀内豊秋

明治33年(1900年)熊本に生まれる。

大正11年(1922年)海軍兵学校卒業(50期)海軍砲術学校に共感として在職中、かねてより痛感していた海軍体操改正の必要性を認め、自らデンマーク体操を日本人向けに改良した堀内式体操を考案、海軍体操の全面的改正に貢献した。

明治12年(1937年)に始まった日華事変に際しては、陸戦部隊指揮官として南シナ海の厦門(アモイ)に進駐、2年間軍政に携わり、その間現地住民の信望を一身に集め、堀内部隊交代の報が伝わると、住民はこぞって同部隊の駐留継続嘆願書を現地の最高司令官に提出した。

昭和15年、部隊が同地を去るに当たり、住民は、「忘恩碑」と銘した記念碑を建立し大佐の徳を偲んだ。

第2次大戦では、昭和17年1月、日本初の落下傘部隊の先頭に立ち活躍、成功を収め、内地期間後、天皇陛下に異例の単独拝謁を許される栄誉を得た。

終戦後、メナドにおける部下の過失に対知る責任を問われてオランダ軍事法廷に召喚され、現地弁護人の懸命な努力にも拘わらず、昭和23年9月25日刑死、48年の生涯を閉じた。

オランダ軍は刑執行に当たり、特に儀仗兵を配して武人に対する最高の敬意を表したという。

 

 

ここからは、御馬下の角小屋2階の堀内豊秋関連の展示スペースです。足腰が丈夫なかたは、ぜひこちらもご覧くださいませ。記念館においてある資料の原本などがあります。

 

 

インドネシア・バリ島の住民から贈られた、樹脂と蝋で描かれた﨟纈染めの絵画。花のように見える白い模様は落下傘を表しており、白馬が天から現れて民衆を助けてくれるというメナドの伝承を暗喩したものと見られます。

 

 

これもインドネシアの住民から贈られたという釣鐘ドラ。故人愛用の品だということです。

 

 

 

堀内大佐のお言葉

九月二十三日、突然刑執行の通知を受け、二十五日午前八時に執行されることになった。
この二日間、インドネシア人から尊敬を受け、何物かを残した。
妻よ、子供たちよ、桜花よりも清く、少しの不安もない。
兄弟たちよ、力をあわせて母上に孝養を尽くしてくれ。
人を頼ってはならない。あくまでも清く正しい生活をなせ。
不幸な妻よ子供よ、父はなくとも決して自暴自棄すること勿れ。
人は自分を信じ努力を続ければ、必ず偉くなれる。
さようなら

 

堀内大佐は戦後、オランダ政府よりB級戦争犯罪人容疑指名により、巣鴨刑務所に収監されます。罪状は投降したオランダ兵を虐待した罪だということですが、これは同じく戦犯裁判にかけられていた12名の部下の罪をかぶったものとされています。

 

 

また、堀内大佐が制圧したメナドの守備隊長が自ら裁判官になっていたり、堀内大佐の弁護人を裁判長が恫喝したり、復讐裁判としかいえぬものでした。(「私は裁判長から、堀内大佐を弁護するとあなたのためによくないよ、といわれ、判決日を俟たずに帰国させられました」堀内大佐の弁護人・井手諦一郎氏の証言)

 

 

なお、資料館には堀内大佐の資料のみならず、堀内家に伝わる、江戸時代から昭和にかけての歴史資料が多数展示されています。しかも、これで入館料無料なのですから(かつては大人200円だったはず・・・)、見に行かない手はないですね。