的石御茶屋跡・隼鷹天満宮

 

前回からひきつづき、豊後街道のお話。豊後街道は江戸時代に、参勤交代の最短コースとして加藤家・細川家に利用されてきた街道です。そして、本州との文化・経済交流のルートとしても、古くから重要視されてきました。

 

今回は、その参勤交代の休憩場所であった、的石御茶屋跡をご紹介いたします。

 

 

この的石御茶屋は、元大友家家臣の小糸次右エ門忠経の屋敷を、細川綱利公が庭の山茶花の美しさに魅せられて召し上げ、御茶屋として整備したものだそうです。

 

これ以後、小糸家は御茶屋番に任じられ、現在でも小糸家の住居として使用されています。(御茶屋としては、1872年の廃藩置県により廃止されました。)

 

 

この的石御茶屋は、参勤交代2日目のお昼休憩に利用されたのだそうです。熊本城を出発した一行は、まず大津で参勤交代1日目の夜を明かし、難所とされる二重の峠を越え、石畳の坂道を下り、この的石御茶屋で昼食をとりました。

 

そのあと、一行は内牧御茶屋を参勤交代2日目の宿とし、3日目は坂梨御茶屋・篠倉御茶屋を経て、久住御茶屋を3日目の宿としました。そして4日目は野津原御茶屋、5日目には鶴崎御茶屋へ宿泊し、鶴崎から海路で大坂へ向かいました。

 

 

加藤清正公は、この豊後街道を確保するため、天草領と交換に、豊後国内に久住・野津原・鶴崎という所領を拝領しました。

 

 

熊本市天然記念物に指定されている小糸家の高野槇(コウヤマキ)。細川のお殿様がお休みになっている的石御茶屋から池をはさんで、この姿のうつくしい高野槇が高くそびえていて、庭を引き立てたそうです。

 

平成11年台風で一度は倒れましたが、手厚い養生のかいあってか、樹勢を回復してきています。高野槇の名前の由来ですが、和歌山県の高野山に多いためこの名がついたそうです。悠仁(ひさひと)親王の「お印」に決まったときに注目された樹種です。

 

 

的石御茶屋の奥には隼鷹天満宮(はやたかてんまんぐう)があります。こちらも細川家に由来があります。

 

細川綱利公が船で東上している折に天候が悪化し、いまにも波にのまれてしまう危機に瀕したとき、どこからともなく訪れた白鷹が船柱にとまり、そうするとたちまち嵐がおさまり、無事上陸することができたそうです。綱利公はその夜、霊鷹は的石天満宮の権化との神諭を夢見、社殿の建立を命ぜられました。

 

 

宗不旱(そう ふかん)の歌碑が境内にありました。宗不旱は熊本の歌人で、万葉調の歌を詠み、漂泊の歌人と呼ばれたかたです。この歌は、筑紫岳川氏の案内で的石村の小糸家を訪れたとき、その林泉の美に感動し、隼鷹宮で詠んだものです。

 

「隼鷹の 宮居の神は 薮なかの 石の破片(かけ)にて おはしけるかも」

 

 

1716年12月に国主が奉納された絵馬や、1842年12月に細川斎護公が奉納された鶴の額が神殿に収蔵されています。