前回、中世宇土城をご案内させていただきましたが、今回はそのあとに小西行長公により築かれた、近世宇土城をご案内いたします。位置的には中世宇土城と近く、500mほどしか離れていません。
江戸初期に2度に渡り破却を受けたため、当時の姿がどのようであったのかは謎に包まれています。現在、堀や石垣が残っており、本丸跡が城山公園として整備されています。
城山公園には小西行長公の銅像が、訪問者を見下ろしています。
キリシタン大名として知られる小西行長公は、永禄元年に大阪堺の豪商(薬種商)の子として京都に生まれ、はじめは岡山の領主宇喜多直家に仕えていましたが、天正8年頃からは秀吉の側近として活躍しました。
慶長5年の関ヶ原の戦いでは、石田三成率いる西軍の中心人物となりましたが敗戦し、石田三成らとともに京都六条河原で処刑され、42歳の若さでこの世を去りました。
小西行長公は、秀吉の下では、室津・塩飽・小豆島を治めたあと、天正16年に肥後国宇土郡・益城郡・八代郡の領主として、17万5千石を所領し、宇土城主となりました。
近世宇土城を築くとともに、城下町を整備して、今日の宇土市街地の基礎を作りました。