徳富記念園(徳富記念館)

 

徳富記念園には、徳富兄弟にまつわる資料や遺品が納められた徳富記念館と、彼らが幼少期を過ごした旧居、大江義塾跡があります。徳富兄弟のうち、兄の「徳富蘇峰」はジャーナリストであり、歴史家でもありました。その弟の「徳富蘆花」は、小説『不如帰』で一世を風靡しました。

 

 

徳富兄弟は、父・一敬(かずたか)が熊本藩庁出仕のため、水俣から熊本に越してきたのですが、そのときに住んでいたのがこの旧居となります。熊本地震に見舞われたため、倒壊防止のために四面を鉄パイプによる支柱が建てられています。

 

 

かの「神風連の変」で熊本市街が炎上する様子を、この中二階の窓から、当時9歳だった蘆花が見ていたといいます。蘆花はその様子を「恐ろしき一夜」という文章に残しました。

 

 

「神風連の変」で敬神党に襲撃され、首をはねられた熊本鎮台司令長官、種田政明旧居跡は、この旧居から川をはさんで100mほどの地点にあります。

 

 

大江義塾跡の碑。同志社英学校を退学して熊本に戻ってきた蘇峰が、自宅内で開いた私塾で、徳富家が東京に転居する4年10ヶ月ほどの間まで存在していました。塾生は一時は100名を越えるほどだったといわれ、漢学、英学、史学、文章学などが教えられたということです。蘇峰の弟である徳富蘆花も学び、宮崎滔天などを輩出しました。

 

 

同志社英学校での師、新島襄(にいじまじょう)から贈られたとされるカタルパの木(二世)です。贈られた木自体は台風で倒壊してしまいましたが、二世、三世の木が園内で存在しています。大江義塾は明治16年の徴兵制改正のあおりで塾生が激減し、存続が危ぶまれる事態となりましたが、そのときに新島襄より贈られたのが、アメリカから取り寄せたというカタルパの種だったということです。その後、大江義塾はふたたび勢いを取り戻したということです。

 

 

蘇峰に大江義塾を開くように薦めたのも、新島襄だったということです。新島襄といえば、妻の新島八重をモチーフとした大河ドラマ「八重の桜」で有名になりましたね。新島襄は同志社英学校の創始者で、これはいまの同志社大学にあたる学校です。

 

 

地震の影響で、訪問した2016年12月時点では入館無料となっていました。いま現在がどうなっているかは、訪問前にご確認ください。館内の撮影は館長さんよりNGということでした。

 

 

倒壊の危機にある旧居以外は、通常通り、記念館内部は見て回ることができます。徳富兄弟ゆかりの地めぐりなど、歴史知識豊富だからこそできる熊本の観光ガイドはぜひ、加来タクシーにお任せください。