西南戦争関連史跡には、それこそ看板や石碑、木碑が1つあるだけ・・・、といった、派手さのない史跡が無数に存在しております。今回は、そんな熊本市に点在している、西南戦争関連の細かい史跡を一気にご紹介いたします!!興味のある方は、車でまわってみてくださいね。(そして、お車のない方はぜひ、観光ガイドタクシーである加来タクシーへ!)
まずは、木留の薩軍病院跡。篠原国幹が吉次峠で狙撃されたさい、即死したのではなく、この薩軍病院に運び込まれてから亡くなったと言われています。
建物自体は老朽化して取り壊され、いまは民家の片隅に石碑と看板が残るのみとなっております。
さきほどの薩軍病院跡から、西に少し歩くと、植木町木留の薩軍本営跡があります。民家の一角に石碑があります。
3月20日、田原坂を政府軍が突破したあと、薩摩軍は木留まで撤退しこの地で抗戦したため、4月15日にかけて、ここ木留では激しい戦いが繰り広げられました(植木・木留の戦い)。
木留薩軍本営跡のすぐそばに、熊本隊本営跡があります。
熊本隊とは、池辺吉十郎率いる1500名ほどの部隊で、薩軍と共に政府軍と戦いました。熊本隊の佐々友房は、田原坂に次ぐ激戦地となった吉次峠を守り、薩摩軍に匹敵する戦いぶりを見せたことにより、薩摩軍内にその名が轟いたとされています。なお、佐々友房は吉次峠で重傷を負って宮崎の監獄に収監されますが、出獄したのち、濟々黌のもととなった同心学舎を創設しました。
河原林雄太少尉戦死の地。階段が設置され、間近で見ることができるようになりました。
2月22日午後7時よりはじまった植木・向坂での戦いでは、乃木少佐の率いる第十四連隊と、村田三介率いる薩軍が激戦を繰り広げましたが、薩軍の猛攻により戦線を支えきれず、政府軍は北の千本桜へ撤退することを決めます。ところが、連隊旗手であった河原林雄太少尉は、村田隊の岩切正九郎に斬られ、連隊旗を奪われてしまいました。
この軍旗喪失は乃木少将は責任を感じていたようで、明治天皇の御大葬の日に殉死した理由の一つになったといわれています。
田原坂攻略に苦戦していた政府軍は、3月7日、それまで木葉に置かれていた仮本営(本営出張所)を二股村に移しました。田原坂を正面から攻撃するのではなく、側面から攻めようという作戦方針の変更があったためです。3月20日の官軍の田原坂突破まで、ここは田原坂攻略の大きな拠点となりました。
ここは資材置き場の隅っこに石碑があるだけなので、気づきにくいと思います・・・。
二俣古閑官軍砲台跡。政府軍が三カ所設置した砲座のうちの1つです。この場所は地元では「台場」と言われているところであり、植木の七本攻撃のための砲陣地と考えられています。
平成23年8月の玉東町の調査、大砲の消耗品である摩擦管が数多く出土したそうです。なお、当時の大砲は「四斤山砲」というもので、分解すれば人力で運搬することが可能でした。