泗水孔子公園の存在は知りつつも、そもそも泗水と孔子にどんな関係が・・・?という疑問がありましたので、疑問を解消すべく、かなり久しぶりに孔子公園を訪れました。
入場料は無料で、「道の駅・泗水養生市場」に隣接しています。
中国の宮廷建築様式を採用して、中国宮廷の世界観を再現されたなかなかにゴージャスな公園です。
孔子公園がここ泗水町に作られたのは、どうやら、泗水という地名のルーツが、孔子の生誕地、中国山東省・泗水県に由来することから来ているようです。
町名由来之碑。「泗水」町名がつけられて百周年を迎えるにあたり、町名に諸説あって一定しないので、昭和61年に調査団が結成されたようです。
その結果、「泗水」という町名は、明治22年4月1日、初代村長・西佐一郎氏が村会に諮って命名したもので、郷土発展を願って孔子の聖地「泗水」の名を取ったということで結論づけられたそうです。では、そもそも、なぜ孔子にあやかったのか?というと、泗水村が成立する前はこの地は「合志郡」だったので、「合志」と「孔子」をひっかけたようです。
孔子
名は丘(きゅう)、字(あざな)は仲尼(ちゅうに)。中国歴史上の偉大な思想家にして政治家、教育家。孔子は紀元前551年、現在の山東省曲阜市尼山付近で生まれました。
幼少から「敏にして学を好み、下問を恥じず」という少年でしたが、家庭は貧しい中に育ちました。成年になって一時、倉庫の管理をする役人になったこともあります。中年期に至ると、門人を集めて学問の講義を行うようになり、「どんな人にも等しく学問を与えるべきである」と主張して、それまでになかった「私人が講義をする」先駆けとなりました。
50歳前後になると魯の官僚に迎えられ、中都の宰、司空、司寇などの要職に就任。その後、政界の腐敗を嫌って54歳のころに辞職し、諸国を周遊して自分の政治主張の普及に努めました。
68歳で再び故郷の魯に帰り、全力で教育と著述に従事。詩書の型を正し、礼楽を定めて史書「春秋」を編纂し、周易(五経の一つの易経)の思想を支持しました。その生涯を終えたのは紀元前479年、73歳のときでした。
孔子の「人は生きている限り学ぶべきである」とした一生は、後世の人々の貴重な文化遺産(「論語」孔子の教えを弟子達がまとめたもの)となって今に伝えられています。
※現地看板より引用
孔子像を納めた祀聖亭。
野外ステージ・・・に見えますが、かつてはここに資料館がありました。老朽化により取り壊されたようですね。
記念品コーナーという名の売店です。
グラウンドが隣接して整備されています。
この公園を整備した泗水町は、菊池市、菊池郡七城町・旭志村と合併し、現在では菊池市となっています。